ここしばらく、通勤の音楽として、マーラーの「交響曲第9番」を聴いていました。ワルター指揮コロンビア交響楽団の演奏による、1961年のステレオ録音です。
音楽は、聴く側の心持ちにより、印象が変わってくることがあります。マーラーの音楽のような場合は、どうもそういう傾向が顕著に表れてくるほうかもしれません。例えばこの交響曲第9番。苦悩の日々には音楽の持つ深刻な表情が共感をよびますし、平穏な日々であれば小鳥の声など自然を模した音などの喜ばしい要素に親しみを感じます。ほんとうは、苦悩も喜びも、どちらもマーラーの音楽の中にあるのですから、バランス良く受け止めるべきなのでしょうが、素人音楽愛好家の限界で、時々の感情や置かれた状況により、ある部分が強く影響してしまう、ということなのでしょう。今は、どちらかと言えば深刻な表情のほうに惹かれてしまいます。別に、深刻な苦悩のまっただ中というわけではないのですが、確定申告の作業も進まないところに、降ってわいたように先日の嵐で総代をしている寺の一部が破損するなど、次々と難問が降りかかります。なかなか思い通りにはいかない日々の生活ですからね~(^o^;)>poripori
Wikipedia によれば、各楽章は次のようになっているそうです。
第1楽章:Andante comodo(アンダンテ・コモド ニ長調 4/4拍子 自由なソナタ形式)
第2楽章:Im Tempo eines gemächlichen Ländlers. Etwas täppisch und sehr derb(緩やかなレントラー風のテンポで、いくぶん歩くように、そして、きわめて粗野に ハ長調 3/4拍子)
第3楽章:Rondo, burleske, allegro assai, sehr trotzig(「ロンド=ブルレスケ」アレグロ・アッサイ きわめて反抗的に イ短調 2/2拍子)
第4楽章:Adagio. Sehr langsam und noch zurückhaltend(アダージョ。非常にゆっくりと、抑えて 変ニ長調 4/4拍子)
ロードノイズの中から音楽が聞こえてくると、ハンドルを持つ手に力が入ります。とくに終楽章。イメージ的に、映画であればチェルノブイリで激しく被曝した消防士が緊急に骨髄移植の手術を受けている場面のバックに流れる音楽。
音楽は、聴く側の心持ちにより、印象が変わってくることがあります。マーラーの音楽のような場合は、どうもそういう傾向が顕著に表れてくるほうかもしれません。例えばこの交響曲第9番。苦悩の日々には音楽の持つ深刻な表情が共感をよびますし、平穏な日々であれば小鳥の声など自然を模した音などの喜ばしい要素に親しみを感じます。ほんとうは、苦悩も喜びも、どちらもマーラーの音楽の中にあるのですから、バランス良く受け止めるべきなのでしょうが、素人音楽愛好家の限界で、時々の感情や置かれた状況により、ある部分が強く影響してしまう、ということなのでしょう。今は、どちらかと言えば深刻な表情のほうに惹かれてしまいます。別に、深刻な苦悩のまっただ中というわけではないのですが、確定申告の作業も進まないところに、降ってわいたように先日の嵐で総代をしている寺の一部が破損するなど、次々と難問が降りかかります。なかなか思い通りにはいかない日々の生活ですからね~(^o^;)>poripori
Wikipedia によれば、各楽章は次のようになっているそうです。
第1楽章:Andante comodo(アンダンテ・コモド ニ長調 4/4拍子 自由なソナタ形式)
第2楽章:Im Tempo eines gemächlichen Ländlers. Etwas täppisch und sehr derb(緩やかなレントラー風のテンポで、いくぶん歩くように、そして、きわめて粗野に ハ長調 3/4拍子)
第3楽章:Rondo, burleske, allegro assai, sehr trotzig(「ロンド=ブルレスケ」アレグロ・アッサイ きわめて反抗的に イ短調 2/2拍子)
第4楽章:Adagio. Sehr langsam und noch zurückhaltend(アダージョ。非常にゆっくりと、抑えて 変ニ長調 4/4拍子)
ロードノイズの中から音楽が聞こえてくると、ハンドルを持つ手に力が入ります。とくに終楽章。イメージ的に、映画であればチェルノブイリで激しく被曝した消防士が緊急に骨髄移植の手術を受けている場面のバックに流れる音楽。
大変ご無沙汰しました、安倍禮爾です。嵐でお寺が破損!、災難でしたね、私もお寺の門徒総代をしておりますが、そういう経験は今のところないです。
マーラーの第九!、過去にも書いたかもしれませんが、名曲と言われるこの曲、私は途中で寝ないで聴ききったことがありません。ミュンヘンにいた頃、当時の首席指揮者のメータ(バイエルン州立管弦楽団)、マゼール(バイエルン放送交響楽団)、共に途中で寝てしまい、後半目を覚まして聴ききり、最後に拍手だけはしたものでした。CDでも、「爆演」と呼ばれるバーンスタイン・ベルリンフィルさえも、いまひとつ共感は湧かないのですが。
つまりは「相性」でしょうか。私にはこの曲は最初から最後まで、何だかすべてが同じメロディに聴こえてしまうもので。むしろカラヤンのCD1枚版で聴けば、彼らしい美しく聴かせるテクニックで美音鑑賞できるかと、やってみましたが、まあボチボチ、という感じでしたね。
仰る通り、聴く者のその時の感情で、どういうふうにも聴こえるのが普通でしょうね。
マーラーの第九、終楽章が意外に好きです。最初に聴いたのがワルターでしたので、この演奏が刷り込みになっています。自宅にはインバル盤もCDでありますが、車に持ち込んで聴くにはUSBメモリのほうが便利なのですね。時代は変わりつつあるようです。
最初は良さがさっぱり分からず、そのちょっと後に聴いた同じワルターのウィーン・フィル盤の方が良かったと感じたものです。宇野功芳氏の文章にかなり影響されたからかも知れません。
終楽章の最後に「亡き子を偲ぶ歌」第4曲の最後「あの素晴らしい天気の丘の上で」の旋律が引用されてて、ここは、そういう澄み切った空を見上げているような、あるいは空に上っていくような、清々しさ、達観した境地を私は感じるのですが、そういう味はワルター盤がよく出ていると思います。あまり仰々しくもなく重苦しくも無くて。
ちょっと前に同演奏について書いたことがありましたので、一応貼らせていただきますね↓
https://blog.goo.ne.jp/lbrito/e/96f5c0e78fe0fcb4c91ae51fed7fa2fd
どうも、そのころのことは曖昧で
若い頃はハイドンなんてちっとも面白いと思わなかったのですが、今はハイドンがたいへん好ましいです。
マーラーは、ほぼ30代以降、CD時代になって聴き始めたに等しいので、10代や20代の頃の感覚はあまりありません。ワルターのマーラー演奏に接したのは、たしかこの録音が最初だったと思います。