電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

喪中はがきが次々に届く

2020年11月23日 06時01分24秒 | 季節と行事
亡父がまだ元気だった頃、郵便物を手にして「喪中ハガキばかりだ」と嘆いていた時期がありました。まさに今、私のところにも次々に喪中のハガキが届きます。同級生の父君、元職場の同僚の義父君、あるいは母堂、妻の叔父さん、母方の叔父さんの奥様など、早くも両手に迫る勢いです。また、中にはこれを機に年賀状を卒業するという断り書きを付したものもありました。

喪中の葉書というのは、儀礼的な習慣ではありますが、葉書の向こう側にはたしかに多くの人生の厳粛な終わりがあると感じます。であれば、不用意に新年を祝う賀状を出すべきではなかろう。パソコンに保存した住所録の、昨年の「喪中」らんのチェックを外し、新たに今年の分を入力します。また、住所録に記入した本人が逝去している場合は、「逝去」のらんに「2020」と入れます。

この欄に西暦年が入力されたデータは、これまで何らかの関わりのあった方々の逝去を意味し、年賀状だけでなく永遠に連絡できなくなってしまった方々ということになります。ずいぶん多くなってしまったなあと感じるとともに、自分が長生きするということは、裏返せば「逝去のデータが次々に増えていくばかり」ということなのかも。うーむ、逝去年のデータを記録し続けることは、若いうちは法事や周年行事等の目安として意味があったけれども、ある程度以上の年代になったならば、浦島太郎のような孤独感を募らせるだけになりかねない。年賀状を卒業することには、そんな意味もあるのかもしれません。

今日は、朝から母方の叔母さんの法事に出かけます。新型コロナウィルス禍のさなかではありますが、会食は控えるものの、親族だけで法要は営まれる予定。書を良くし、長く闘病生活を送った人だけに、安らかな終わりはむしろ救いの面があったのかも、などと考えております。

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