電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

ハルトマンの交響曲第4番を聴く

2009年04月03日 06時07分55秒 | -オーケストラ
グラモフォン社の「ラファエル・クーベリックの芸術」シリーズから、バイエルン放送交響楽団を指揮した、カール・アマデウス・ハルトマンの「交響曲第4番」全3楽章を聴きました。このところ、通勤の音楽で耳に慣れ、アパートでも一人でじっくりと聴いています。厳しく悲痛な音楽です。

カール・アマデウス・ハルトマンは、1905年にミュンヘンで生まれ、1920年代から30年代にかけて、当時のストラヴィンスキー等の新古典主義やマーラーや新ウィーン楽派等の表現主義の影響を受けながら作曲家として成長します。しかし、リベラルで反ファシズムの作曲家が、ナチスドイツの台頭の中で「現代音楽」作品を発表できる当てもなく、第二次大戦中は妻の実家の資産で暮らしながら「抽斗(ひきだし)のため」に作曲しつつ、オーストリアでウェーベルンに作曲を習っていたのだとか。戦後、公然と作品を発表できるようになると、現代音楽運動の旗手として、ミュンヘンの音楽活動の中心人物となります。1961年、指揮者であり作曲家でもあるクーベリックがミュンヘンにやってきて、バイエルン放送交響楽団を指揮するようになると、マーラーを愛好する二人は急接近するようになります。Wikipediaの解説(*1)や、本CD(DG UCCG-3963)に添付の日本語解説などを読むと、このあたりの事情がよくわかり、なるほど、です。

ハルトマンの交響曲第4番は、戦時中に書かれた「弦楽とソプラノ独唱のための交響曲」から声楽部を削除・改訂し、戦後に発表された弦楽合奏のための作品で、3つの楽章からなっています。
第1楽章、レント・アッサイ~コン・パッショーネ。冒頭から、ただならぬ緊張感に満ちて、弦楽合奏による息の長い主題が歌われます。
第2楽章、アレグロ・ディ・モルト、リゾルート。執拗でエネルギッシュな常動曲が、やがて身振りの大きな旋律の形となり、しだいに高揚していきます。
第3楽章、アダージョ・アパッショナート。ソプラノによる声楽部を削除した後に追加された悲痛なアダージョで、戦後の作品。CDに添付の解説リーフレットでは、ファシズムの犠牲者に捧げる哀悼の音楽とされています。

20世紀の音楽の場合、なぜ厳しく悲痛なものが特徴的なのか。それは、おそらく歴史上初めて経験した、二度の世界大戦の経験によるものが大きいのだと思います。それ以前には、戦争といっても局地的なものであり、ある国で戦争が起こっても、国王や貴族とともに別の国に逃げて行けば、作曲家や音楽家が直接戦争に巻き込まれることは少なかったでしょう。ところが20世紀には、世界中の主な国々が否応なく戦争に巻き込まれ、しかもいつ果てるともしれない塹壕戦や、機械化された戦争、毒ガスや核兵器など悲惨な兵器の使用、軍人でない民間人の大量虐殺など、衝撃的な現実を経験せざるを得なかったのだろうと思います。そのとき、音楽家が自分の深刻で悲痛な感情を表現する手段として、それまで用いて来た、美しいハーモニーや軽快なリズムなどはそぐわないと感じたためではないか。
また、書かれた音楽が、戦後に多く開かれた、戦争の犠牲者たちの鎮魂の行事や式典などで発表されることが多かったことなども、反映しているのかもしれません。
西洋音楽の内的な進化の過程として、和声の崩壊や無調の音楽などが説かれることも理解はできますが、私には、どうも音楽自体の進化論で説明されるよりも、歴史的背景や時代の影響のほうが強く感じられてしまいます。

参考までに、演奏データを示します。
■クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団
I=14'37" II=10'06" III=7'16" total=31'59"

(*1):Wikipediaより、「カール・アマデウス・ハルトマン」
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