午前中から映画を見に行く。北寄りの風がちょっと強かったが自転車で妙典まで行って、サティの駐輪場に止める。
そしてワーナーマイカルシネマズ市川妙典へ。
妙典のサティやワーナーマイカルがオープンしたのは1999年の4月に、妙典の区画整理が終わって街開きをしたとき。シネコンというのは最新鋭の映画館だというイメージを持っていたが、ここも、もうちょっとで丸10年になる。早いものだ。
見た映画は「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」。
80歳の老人の身体を持つ赤ん坊として生まれ、若返っていき、そして生まれたばかりの赤ん坊の姿で人生を終えた男が主人公の話。
これを聞いて「スタートレック・ヴォイジャー」の第38話「怯える子供たち(原題:"Innocence")」を思い出した。こちらは、遠い宇宙で初めて遭遇したドレイアンという種族が、地球人を含む他の種族で言う老人の姿で生まれ、若い姿になっていき、子供の姿で一生を終える種族だったという話。
「ベンジャミン・バトン」の作り手は「ヴォイジャー」の"Innocence"を見ていたのだろうかと考えた。別にパクリだいうつもりではなく、ヒントを得たのではないかと思ったのだ。ところが、「ベンジャミン・バトン」の公式サイトを見ていると、原作は1920年代に書かれた短編であるということ。1920年代というと、日本では大正から昭和へと時代が移った頃。そんな昔に書かれた話だというのに驚くと同時に、逆に「ヴォイジャー」の"Innocence"の作り手が、「ベンジャミン・バトン」の原作に影響を受けたのではと思った。
でも、こういう勘ぐりはそこそこにしておこう。そんな話はおそらく空想力が非常に豊かな人が考えるのだろうから、同じ題材が出てきたのも偶然なのだろう。そして、同じ題材でもストーリーは全然異なる。
「ヴォイジャー」の"Innocence"は、初めて接触した種族の住む星で、宇宙艦ヴォイジャーのクルーが衛星(空気もあり植物も繁殖していて、人間も生存可能な衛星という設定)に子供たちが置き去りにされていると思って保護しようとしたが、実は彼らは老人で、死を迎える儀式の最中だったという話。
「ベンジャミン・バトン」は1920年ごろの地球(のアメリカ)に、老人の身体を持って生まれ徐々に若返っていく人物が出現したところから始まり、その生涯を描く話。つまりは、同じ素材を別の方法で料理したらどんなものが出来るかというところに自分としては興味を持ったのである。
最初は、老人から若返っていく人物がいたらどんな人生を送るかというのを頭の中でシミュレーション、つまりは思考実験して作られた物語かと思った。でも、まともに考えたら、そうした特異な人物はメディアに注目され、世間の好奇の目にさらされるだろうから、25年以上前に作られた映画「エレファントマン」というのがあったが(話題になったが未見)、そのような話になってしまうかもしれない。あるいは、政府機関の研究所などに軟禁されて科学者チームの研究対象にされるかもしれないし、ある程度の自由があっても限られた地域に監視されつつ住むことになるかもしれない。数年前に見た日本の映画で「サトラレ」というのがあったけど、その主人公もそんな境遇にあった。
ところが、「ベンジャミン・バトン」の主人公ベンジャミンは、特に世間の好奇の目にさらされることもなく自由に生きていく。これは、一種の童話と考えたほうがいいのかもしれない。じゃあ、そう割り切ることにして見てみたらどうだったか。
主人公ベンジャミンとヒロインのデイジーの人生がちょうどアルファベットの"X"のように交差するのが物語の基本的な構図。2人が出会ったときは、老人の姿のベンジャミンと5歳のデイジー。お互い釣り合いの取れる年齢のときに子供を設け、そして最後は老女ベイジーの腕に抱かれた赤ん坊のベンジャミンが息を引き取る。このラストはなんとも切なくなる。ここで、"X"字となった2人の時間がはっきりと見えるからだ。
それはいいとして、そこまでがちょっと長過ぎて冗長な印象。3時間近くかかる作品で、予告編を入れたら3時間余りになる。別に、おしっこを我慢するのがきついからではない(実際のところ、最後のほうはじっと我慢していたが(笑))。原作は短編というから、ベンジャミンがいろいろな人々と出会っては分かれていくというエピソードを加えて、話を膨らまそうとしたのだろう。ところが、それがどうもうまくいっているとは思えない。
「別に若返っていく男が主人公でなくてもいいじゃない..」
と思ってしまうのだ。
一つ一つの出会いと分かれのエピソードは、印象的に描かれてはいる。だけど、出会ってから分かれるまでの間は、ベンジャミンの外見はさほどに変化しない。中には、少し若くなっているのを不思議に感じた登場人物もいたにはいたが。物語全体は、他の人間とは時間の流れ方が異なる特異な人物を描こうとするものだけど、一つ一つの出会いと別れは、互いに逆向きの時間の中ですれ違うことをほとんど意識させない。だから見ていても、ひとつの出会いと別れのエピソードの間は、ベンジャミンが若くなっていく話であることを忘れてしまい、次のエピソードに移って若くなったベンジャミンを見てようやく思い出すという具合だった。
もっとベンジャミンとデイジーの交差する人生に焦点を当てて、物語の"X"字の構図をはっきりと見せるように磨き上げたほうがよかったと思える。
それと、もうひとつ、「スタートレック・ヴォイジャー」の"Innocence"に登場するドレイアンは老人の姿で生まれるという話だったが、一体、どのようにして誕生するのかどうにも想像がつかなかった。今回の、老人の身体を持った赤ん坊というので、なんとなくこんな感じなのかなと思えてきた。
映画が終わって昼飯は妙典駅の降下したにあるカレーのCoCo壱番屋。今はグランド・マザー・カレーというのをキャンペーンしているらしく、テーブルの上もカウンターの上も、宣伝ビラ一色。じゃあ食べてみようということで注文。確かに具が家庭のカレー風。「おばあちゃんのカレー」なのだから、あまり辛口でないと思い、辛さは2辛にする。それでちょうどいいぐらいだった。
昼飯のあと、自転車を走らせて江戸川放水路の堤防へ。ここの植樹されている河津桜がもし開いていたら、トップページレポートのネタにちょうどいいと思っていたが、さすがにまだ早い。おまけに北風が強いから、バーベキューでにぎわうことも多い妙典小学校前も人影無し。ジョギングの人やロードバイクがときどき通るぐらいだった。
じゃあ、立春を過ぎてもまだまだ寒いということをネタにしようと、つぼみの状態の河津桜や、風で波が立っている川面を写す。
途中、スーパーで買い物をして帰り、DVDを見たりして夕方にトップページを更新してUP。
晩飯は吉野家で並牛丼と味噌汁とお新香。
今週は水曜日が祝日で休み。だから今日はいつもの日曜の夜よりも、気分がちょっと楽。