今日は、朝から明るい光が降り注いでいます。近くの公園では、木々の下を鳩が闊歩し、木の葉が散るようにハラハラと雀たちが舞い降りています。小鳥達にとっても、こういう季節の、朝のお日様の光というのは、随分得難いものなのでしょう。
今年度、大学入試を迎える学生達の「クラス」では、今日が「留学生試験」対策、最後の日となります。この試験は(大学をめざす者にとっては)、とても大切な試験であるとはいえ、これだけで、大学入学が決められるというものでもありません。その他にも、大学独自の試験もあり、またその面接もあり、作文試験もありといった(つまり、そのための練習もしなければならないということです)具合に、試験は目白押しにやって来ます(「本命」に合格できるまで)。
それに、12月の第一日曜日には、「日本語能力試験」が待ち構えていますから、「留学生試験」が終わるとすぐに、そのための「対策講座」が始まります。
そしてまた、その合間を縫って、志望大学へ願書を持っていったり、送ったり、また早いところでは、(もう入試が始まっていますから)試験に参加したりもしなければなりません。大学院を目指す学生達も、教授や大学院への連絡などをはじめ、研究室へ伺ったりもしています。
「国立大学」や「有名私立大学」を「本命」とする学生は、今年いっぱいでカタがつくわけでもなく、ギリギリ来年の三月まで、本当に「泣くか笑うか」のレースが続きます。
というわけで、私達も気が立っています。今年は、この小さい学校でも、何人か、どうにかなりそうな学生がいますから、特別です。
現実には、日本へ大学入学を目指してやって来る学生も様々で、ある者はいくら能力があっても、そして我々が勧めても「もうこれ以上、勉強をしたくない。大学ならどこでもいい」と、近場か授業料の安いところを望みます。
能力もあって、しかも向学心に溢れているという学生は、それほど多くはないというのが実情なのです。しかも、物価高の日本です。彼らにしてみれば、まず何をするにも、お金、お金、お金が必要ということになってきます。それも、彼らにしてみれば、「右から左へ、はい」と出せるようなお金ではないのです。というわけで、この二つに更に経済的な事情も関係してきます。
受験対策にしてもそうです。教科書や問題集を買わなければなりません。私たちも、学生の懐具合を考慮して、出来るだけ彼らの負担にならないように考えてはいるものの、限度があります。だいたいからして、どこの国でも、大学を受けようとしたら、問題集や教科書を買うでしょう。いったい、そういうものを買わずに、大学に入れるところがあるでしょうか。私たちは、書店と結託してお金儲けをしているわけでもなく、それどころか、冊数が少ない時には、送料まで払わされているくらいですから。
望むらくは、せっかく買った教科書です。無駄にして欲しくはない。またせっかく買った問題集です。しっかり勉強して欲しい。とは思うのですが、なかなかそういうわけにもいかない学生がいる…というのも現実です。
上に進めば進むほど、新しい教科書が必要になります。「二級試験」なら「二級対策」の問題集が、「一級試験」なら、「一級試験対策」の問題集が必要となるのは、当然のことです。
それ故、定期的にレベルチェックめのテストをして、そのレベルに至っていない学生には、もう一度勉強のし直しを勧めているのですが(つまり、下のクラスに行くこと)、それが判らず、いえ判らずというよりも、おそらくは、「自分はできる。判っている」と思い込み、どうしてクラスを変わらなければならないかが理解できないのでしょう。その人にとっての一番の近道であるにもかかわらず、受け入れられないという学生もいるのです。
おそらくは、彼らには、そういう経験がないため、理解できないのでしょう。その上、判らないのに、そこ(そのレベルのクラス)に座っているというのも、彼らには苦痛ではないようなのです。もしかしたら、これは単なる習慣というよりも、それを感じるだけの「能力があるかどうか」の問題なのかもしれません。「非漢字圏」の国から来た人でも、「このクラスは難しいから、下のクラスへ行きたい」とか、「もう一度やり直したい」とか言った人はいましたから。
その人たちの国では、(勉強が)出来ても出来なくても、そのまま高校へ行けます(そうとしか思えない)。大体小学校や中学校へ行ける人がそれほど多くないのですから、高校を出たら既にエリートです。学校での勉強も、学校で座っていれば、それで充分くらいの内容しか教えてもらえない国もありそうです。学校での勉強の他に、家でも勉強するのだという経験がない人もいます(勿論、日本にもいますが、日本人の場合は、寝食を忘れて仕事をする、勉強をするという人が身近にいる場合が多いのです。つまり、そうした方がいいけれども、自分は出来なかったという経験はあるのです)。
というわけで、彼らにしてみれば、「漢字の練習だけを一時間もした。すごいことだ。学校だけでなく、家でも勉強したのだ。すごい」なので、終わってしまうようなのです。
本当に不思議なのですが、この時すでに彼らの頭の中には、この練習は「覚える」ためであるということが抜けているのです。教師が「しろ」と言ったから、「一時間も書いた」に過ぎないのです。漢字を覚えたあとも、まだ次が控えているということが理解できないのです。次は、まず「流暢に教科書の本文を読めるようになる」ことだし、その次は「理解できるようになる」なのですが。しかも、そのあとは「(宿題の)読解のプリントをやる」なのです。ここまで出来ないと、同じクラスで、漢字圏の学生達と伍していくことはできないのです。
これは彼らの能力が低いからというわけではありません。「漢字圏」の国に生まれ育った子供達は、学校に上がってから、あるいはその前から、漢字を千回、二千回(一万回以上も書いているかもしれませんが)と書いてきています。既に「書く」という、そういう訓練をしてきているのです。鍛えてきた時間も回数も全く違います。「非漢字圏」の国から来ていながら、その「漢字圏」の彼らと一緒に、クラスを進んでいけると考える方がおかしいのです。
前に、そういう漢字圏の学生と一緒に「上級クラス」で学べたスリランカの学生がいました。が、彼女の場合は、高校の時にすでに「日本語能力試験(二級)」に合格していま
したから、「四級レベル」か、せいぜい「三級レベル」で来日する(「非漢字圏」の)他の学生達を、彼女のように見ることはできません。
(日本の)日本語学校には、大学入学や大学院入学を目的とする学生が多く来ていますから、どのような形であれ、レベルによるクラス分けは必要なのです。
それなのに、いつまで経っても、自国の習慣を抜けきれず、しかも、それほど勉強せず、座っているだけであれば、ドンドン取り残されているのは当然のことです。そういう人は、やはりもう一度勉強をし直してもらわなければならないのです。
かといって、一生懸命勉強すれば追いつけるかというと、なかなかそういうことでもないのです。
前に、(これもスリランカの学生でしたが)来日の5年くらい前に「三級」に合格したという人がいました。彼女に、「『三級』に合格しているなら、『中級クラス』から始めてもいいのではないか」と言ってみました。実は、こういう人たちには、まずこういうことは言わないのですが。なんとなれば、途上国から来た人(彼の地では、エリートであるという自負のある人)は、必要以上に自分の能力を誇示する傾向にあるからなのです(実は、今もそういう学生が若干名いて困っているのですが)。けれども、彼女は、話してみると、聡明そうな感じがしましたので、なんとか頑張れるのではないかと思ったのです。しかしながら、物凄い勢いで抵抗され、「もう一度初めからやりたい。どうしても初めからやりたい」と、反対に説得されたのです。
こういうのは珍しかったですね。普通は、反対なのです。
彼女も「例外」に属する人だったのでしょう。自分のレベルが判るというのは、なかなか出来ることではないのです。彼女は、来日後、一年と数ヶ月で「日本語能力試験(二級)」に合格できましたし、いい大学に入ることも出来ましたから。
途上国から来た学生の中には、クラスを下がる(非漢字圏の学生は、「初級」は「漢字圏」の学生と一緒のクラスで勉強できても、「中級」になると、ついていくのが難しくなります。また「中級」までは、なんとか頑張れても、ストレートで「上級」というのは、まず無理なのです。それよりも、「中級」を二度やった方がいい。そして、「二級合格」を、目指した方がいいのです。
けれども、残念なことに、上のクラスに座っているだけで、自動的に日本語のレベルが上がるものと思い込んでいる「強者」が少なくないのです。
日々是好日
今年度、大学入試を迎える学生達の「クラス」では、今日が「留学生試験」対策、最後の日となります。この試験は(大学をめざす者にとっては)、とても大切な試験であるとはいえ、これだけで、大学入学が決められるというものでもありません。その他にも、大学独自の試験もあり、またその面接もあり、作文試験もありといった(つまり、そのための練習もしなければならないということです)具合に、試験は目白押しにやって来ます(「本命」に合格できるまで)。
それに、12月の第一日曜日には、「日本語能力試験」が待ち構えていますから、「留学生試験」が終わるとすぐに、そのための「対策講座」が始まります。
そしてまた、その合間を縫って、志望大学へ願書を持っていったり、送ったり、また早いところでは、(もう入試が始まっていますから)試験に参加したりもしなければなりません。大学院を目指す学生達も、教授や大学院への連絡などをはじめ、研究室へ伺ったりもしています。
「国立大学」や「有名私立大学」を「本命」とする学生は、今年いっぱいでカタがつくわけでもなく、ギリギリ来年の三月まで、本当に「泣くか笑うか」のレースが続きます。
というわけで、私達も気が立っています。今年は、この小さい学校でも、何人か、どうにかなりそうな学生がいますから、特別です。
現実には、日本へ大学入学を目指してやって来る学生も様々で、ある者はいくら能力があっても、そして我々が勧めても「もうこれ以上、勉強をしたくない。大学ならどこでもいい」と、近場か授業料の安いところを望みます。
能力もあって、しかも向学心に溢れているという学生は、それほど多くはないというのが実情なのです。しかも、物価高の日本です。彼らにしてみれば、まず何をするにも、お金、お金、お金が必要ということになってきます。それも、彼らにしてみれば、「右から左へ、はい」と出せるようなお金ではないのです。というわけで、この二つに更に経済的な事情も関係してきます。
受験対策にしてもそうです。教科書や問題集を買わなければなりません。私たちも、学生の懐具合を考慮して、出来るだけ彼らの負担にならないように考えてはいるものの、限度があります。だいたいからして、どこの国でも、大学を受けようとしたら、問題集や教科書を買うでしょう。いったい、そういうものを買わずに、大学に入れるところがあるでしょうか。私たちは、書店と結託してお金儲けをしているわけでもなく、それどころか、冊数が少ない時には、送料まで払わされているくらいですから。
望むらくは、せっかく買った教科書です。無駄にして欲しくはない。またせっかく買った問題集です。しっかり勉強して欲しい。とは思うのですが、なかなかそういうわけにもいかない学生がいる…というのも現実です。
上に進めば進むほど、新しい教科書が必要になります。「二級試験」なら「二級対策」の問題集が、「一級試験」なら、「一級試験対策」の問題集が必要となるのは、当然のことです。
それ故、定期的にレベルチェックめのテストをして、そのレベルに至っていない学生には、もう一度勉強のし直しを勧めているのですが(つまり、下のクラスに行くこと)、それが判らず、いえ判らずというよりも、おそらくは、「自分はできる。判っている」と思い込み、どうしてクラスを変わらなければならないかが理解できないのでしょう。その人にとっての一番の近道であるにもかかわらず、受け入れられないという学生もいるのです。
おそらくは、彼らには、そういう経験がないため、理解できないのでしょう。その上、判らないのに、そこ(そのレベルのクラス)に座っているというのも、彼らには苦痛ではないようなのです。もしかしたら、これは単なる習慣というよりも、それを感じるだけの「能力があるかどうか」の問題なのかもしれません。「非漢字圏」の国から来た人でも、「このクラスは難しいから、下のクラスへ行きたい」とか、「もう一度やり直したい」とか言った人はいましたから。
その人たちの国では、(勉強が)出来ても出来なくても、そのまま高校へ行けます(そうとしか思えない)。大体小学校や中学校へ行ける人がそれほど多くないのですから、高校を出たら既にエリートです。学校での勉強も、学校で座っていれば、それで充分くらいの内容しか教えてもらえない国もありそうです。学校での勉強の他に、家でも勉強するのだという経験がない人もいます(勿論、日本にもいますが、日本人の場合は、寝食を忘れて仕事をする、勉強をするという人が身近にいる場合が多いのです。つまり、そうした方がいいけれども、自分は出来なかったという経験はあるのです)。
というわけで、彼らにしてみれば、「漢字の練習だけを一時間もした。すごいことだ。学校だけでなく、家でも勉強したのだ。すごい」なので、終わってしまうようなのです。
本当に不思議なのですが、この時すでに彼らの頭の中には、この練習は「覚える」ためであるということが抜けているのです。教師が「しろ」と言ったから、「一時間も書いた」に過ぎないのです。漢字を覚えたあとも、まだ次が控えているということが理解できないのです。次は、まず「流暢に教科書の本文を読めるようになる」ことだし、その次は「理解できるようになる」なのですが。しかも、そのあとは「(宿題の)読解のプリントをやる」なのです。ここまで出来ないと、同じクラスで、漢字圏の学生達と伍していくことはできないのです。
これは彼らの能力が低いからというわけではありません。「漢字圏」の国に生まれ育った子供達は、学校に上がってから、あるいはその前から、漢字を千回、二千回(一万回以上も書いているかもしれませんが)と書いてきています。既に「書く」という、そういう訓練をしてきているのです。鍛えてきた時間も回数も全く違います。「非漢字圏」の国から来ていながら、その「漢字圏」の彼らと一緒に、クラスを進んでいけると考える方がおかしいのです。
前に、そういう漢字圏の学生と一緒に「上級クラス」で学べたスリランカの学生がいました。が、彼女の場合は、高校の時にすでに「日本語能力試験(二級)」に合格していま
したから、「四級レベル」か、せいぜい「三級レベル」で来日する(「非漢字圏」の)他の学生達を、彼女のように見ることはできません。
(日本の)日本語学校には、大学入学や大学院入学を目的とする学生が多く来ていますから、どのような形であれ、レベルによるクラス分けは必要なのです。
それなのに、いつまで経っても、自国の習慣を抜けきれず、しかも、それほど勉強せず、座っているだけであれば、ドンドン取り残されているのは当然のことです。そういう人は、やはりもう一度勉強をし直してもらわなければならないのです。
かといって、一生懸命勉強すれば追いつけるかというと、なかなかそういうことでもないのです。
前に、(これもスリランカの学生でしたが)来日の5年くらい前に「三級」に合格したという人がいました。彼女に、「『三級』に合格しているなら、『中級クラス』から始めてもいいのではないか」と言ってみました。実は、こういう人たちには、まずこういうことは言わないのですが。なんとなれば、途上国から来た人(彼の地では、エリートであるという自負のある人)は、必要以上に自分の能力を誇示する傾向にあるからなのです(実は、今もそういう学生が若干名いて困っているのですが)。けれども、彼女は、話してみると、聡明そうな感じがしましたので、なんとか頑張れるのではないかと思ったのです。しかしながら、物凄い勢いで抵抗され、「もう一度初めからやりたい。どうしても初めからやりたい」と、反対に説得されたのです。
こういうのは珍しかったですね。普通は、反対なのです。
彼女も「例外」に属する人だったのでしょう。自分のレベルが判るというのは、なかなか出来ることではないのです。彼女は、来日後、一年と数ヶ月で「日本語能力試験(二級)」に合格できましたし、いい大学に入ることも出来ましたから。
途上国から来た学生の中には、クラスを下がる(非漢字圏の学生は、「初級」は「漢字圏」の学生と一緒のクラスで勉強できても、「中級」になると、ついていくのが難しくなります。また「中級」までは、なんとか頑張れても、ストレートで「上級」というのは、まず無理なのです。それよりも、「中級」を二度やった方がいい。そして、「二級合格」を、目指した方がいいのです。
けれども、残念なことに、上のクラスに座っているだけで、自動的に日本語のレベルが上がるものと思い込んでいる「強者」が少なくないのです。
日々是好日