日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「勉強する目的は?」。「勉強するには、お金がかかる」。

2009-11-06 12:49:25 | 日本語の授業
 今日は、朝から明るい光が降り注いでいます。近くの公園では、木々の下を鳩が闊歩し、木の葉が散るようにハラハラと雀たちが舞い降りています。小鳥達にとっても、こういう季節の、朝のお日様の光というのは、随分得難いものなのでしょう。

 今年度、大学入試を迎える学生達の「クラス」では、今日が「留学生試験」対策、最後の日となります。この試験は(大学をめざす者にとっては)、とても大切な試験であるとはいえ、これだけで、大学入学が決められるというものでもありません。その他にも、大学独自の試験もあり、またその面接もあり、作文試験もありといった(つまり、そのための練習もしなければならないということです)具合に、試験は目白押しにやって来ます(「本命」に合格できるまで)。

 それに、12月の第一日曜日には、「日本語能力試験」が待ち構えていますから、「留学生試験」が終わるとすぐに、そのための「対策講座」が始まります。

 そしてまた、その合間を縫って、志望大学へ願書を持っていったり、送ったり、また早いところでは、(もう入試が始まっていますから)試験に参加したりもしなければなりません。大学院を目指す学生達も、教授や大学院への連絡などをはじめ、研究室へ伺ったりもしています。

 「国立大学」や「有名私立大学」を「本命」とする学生は、今年いっぱいでカタがつくわけでもなく、ギリギリ来年の三月まで、本当に「泣くか笑うか」のレースが続きます。

 というわけで、私達も気が立っています。今年は、この小さい学校でも、何人か、どうにかなりそうな学生がいますから、特別です。

 現実には、日本へ大学入学を目指してやって来る学生も様々で、ある者はいくら能力があっても、そして我々が勧めても「もうこれ以上、勉強をしたくない。大学ならどこでもいい」と、近場か授業料の安いところを望みます。

 能力もあって、しかも向学心に溢れているという学生は、それほど多くはないというのが実情なのです。しかも、物価高の日本です。彼らにしてみれば、まず何をするにも、お金、お金、お金が必要ということになってきます。それも、彼らにしてみれば、「右から左へ、はい」と出せるようなお金ではないのです。というわけで、この二つに更に経済的な事情も関係してきます。

 受験対策にしてもそうです。教科書や問題集を買わなければなりません。私たちも、学生の懐具合を考慮して、出来るだけ彼らの負担にならないように考えてはいるものの、限度があります。だいたいからして、どこの国でも、大学を受けようとしたら、問題集や教科書を買うでしょう。いったい、そういうものを買わずに、大学に入れるところがあるでしょうか。私たちは、書店と結託してお金儲けをしているわけでもなく、それどころか、冊数が少ない時には、送料まで払わされているくらいですから。

 望むらくは、せっかく買った教科書です。無駄にして欲しくはない。またせっかく買った問題集です。しっかり勉強して欲しい。とは思うのですが、なかなかそういうわけにもいかない学生がいる…というのも現実です。

 上に進めば進むほど、新しい教科書が必要になります。「二級試験」なら「二級対策」の問題集が、「一級試験」なら、「一級試験対策」の問題集が必要となるのは、当然のことです。

 それ故、定期的にレベルチェックめのテストをして、そのレベルに至っていない学生には、もう一度勉強のし直しを勧めているのですが(つまり、下のクラスに行くこと)、それが判らず、いえ判らずというよりも、おそらくは、「自分はできる。判っている」と思い込み、どうしてクラスを変わらなければならないかが理解できないのでしょう。その人にとっての一番の近道であるにもかかわらず、受け入れられないという学生もいるのです。

 おそらくは、彼らには、そういう経験がないため、理解できないのでしょう。その上、判らないのに、そこ(そのレベルのクラス)に座っているというのも、彼らには苦痛ではないようなのです。もしかしたら、これは単なる習慣というよりも、それを感じるだけの「能力があるかどうか」の問題なのかもしれません。「非漢字圏」の国から来た人でも、「このクラスは難しいから、下のクラスへ行きたい」とか、「もう一度やり直したい」とか言った人はいましたから。

 その人たちの国では、(勉強が)出来ても出来なくても、そのまま高校へ行けます(そうとしか思えない)。大体小学校や中学校へ行ける人がそれほど多くないのですから、高校を出たら既にエリートです。学校での勉強も、学校で座っていれば、それで充分くらいの内容しか教えてもらえない国もありそうです。学校での勉強の他に、家でも勉強するのだという経験がない人もいます(勿論、日本にもいますが、日本人の場合は、寝食を忘れて仕事をする、勉強をするという人が身近にいる場合が多いのです。つまり、そうした方がいいけれども、自分は出来なかったという経験はあるのです)。

 というわけで、彼らにしてみれば、「漢字の練習だけを一時間もした。すごいことだ。学校だけでなく、家でも勉強したのだ。すごい」なので、終わってしまうようなのです。
 本当に不思議なのですが、この時すでに彼らの頭の中には、この練習は「覚える」ためであるということが抜けているのです。教師が「しろ」と言ったから、「一時間も書いた」に過ぎないのです。漢字を覚えたあとも、まだ次が控えているということが理解できないのです。次は、まず「流暢に教科書の本文を読めるようになる」ことだし、その次は「理解できるようになる」なのですが。しかも、そのあとは「(宿題の)読解のプリントをやる」なのです。ここまで出来ないと、同じクラスで、漢字圏の学生達と伍していくことはできないのです。

 これは彼らの能力が低いからというわけではありません。「漢字圏」の国に生まれ育った子供達は、学校に上がってから、あるいはその前から、漢字を千回、二千回(一万回以上も書いているかもしれませんが)と書いてきています。既に「書く」という、そういう訓練をしてきているのです。鍛えてきた時間も回数も全く違います。「非漢字圏」の国から来ていながら、その「漢字圏」の彼らと一緒に、クラスを進んでいけると考える方がおかしいのです。

 前に、そういう漢字圏の学生と一緒に「上級クラス」で学べたスリランカの学生がいました。が、彼女の場合は、高校の時にすでに「日本語能力試験(二級)」に合格していま
したから、「四級レベル」か、せいぜい「三級レベル」で来日する(「非漢字圏」の)他の学生達を、彼女のように見ることはできません。

 (日本の)日本語学校には、大学入学や大学院入学を目的とする学生が多く来ていますから、どのような形であれ、レベルによるクラス分けは必要なのです。

 それなのに、いつまで経っても、自国の習慣を抜けきれず、しかも、それほど勉強せず、座っているだけであれば、ドンドン取り残されているのは当然のことです。そういう人は、やはりもう一度勉強をし直してもらわなければならないのです。

 かといって、一生懸命勉強すれば追いつけるかというと、なかなかそういうことでもないのです。
 前に、(これもスリランカの学生でしたが)来日の5年くらい前に「三級」に合格したという人がいました。彼女に、「『三級』に合格しているなら、『中級クラス』から始めてもいいのではないか」と言ってみました。実は、こういう人たちには、まずこういうことは言わないのですが。なんとなれば、途上国から来た人(彼の地では、エリートであるという自負のある人)は、必要以上に自分の能力を誇示する傾向にあるからなのです(実は、今もそういう学生が若干名いて困っているのですが)。けれども、彼女は、話してみると、聡明そうな感じがしましたので、なんとか頑張れるのではないかと思ったのです。しかしながら、物凄い勢いで抵抗され、「もう一度初めからやりたい。どうしても初めからやりたい」と、反対に説得されたのです。
 こういうのは珍しかったですね。普通は、反対なのです。

 彼女も「例外」に属する人だったのでしょう。自分のレベルが判るというのは、なかなか出来ることではないのです。彼女は、来日後、一年と数ヶ月で「日本語能力試験(二級)」に合格できましたし、いい大学に入ることも出来ましたから。

 途上国から来た学生の中には、クラスを下がる(非漢字圏の学生は、「初級」は「漢字圏」の学生と一緒のクラスで勉強できても、「中級」になると、ついていくのが難しくなります。また「中級」までは、なんとか頑張れても、ストレートで「上級」というのは、まず無理なのです。それよりも、「中級」を二度やった方がいい。そして、「二級合格」を、目指した方がいいのです。

 けれども、残念なことに、上のクラスに座っているだけで、自動的に日本語のレベルが上がるものと思い込んでいる「強者」が少なくないのです。

日々是好日
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「この時代を享受して」。

2009-11-05 14:11:40 | 日本語の授業
 これからの一週間ほどは、「寒気」もお休みに入る…そうです。本当でしょうか。
まあ、それはともかく、今朝は爽やかに明けました。「久しぶりの秋。爽快なり」という感じです。

「流れゆく 木の葉のよどむ 江にしあれば 暮れての後も 秋の久しき」(源実朝)

 こういう「歌」を読んだあと、確かにその「風景」を、心に描くことはできます。しかしながら、それは借り物の「心の風景」である…だけだと思います。実際にどれほどの人が、入江に流れ来たった黄や紅の木の葉を見つめ、「秋」という時間を永遠のものから切り取り、また切り取れたからこそ、それを永遠のものに出来たというのでしょうか。

 確かに、それさえも出来ないということに比べれば、まだマシではあるのでしょう。とは言いましても、それは写真や映像からの借り物に過ぎないのです。誰かが、その光景を見、感動して、シャッターを切った。その人の心を通して、私がその人の感動のおこぼれを頂戴しているだけなのです。本来ならば、自分の、この目で見て、そして「歌」と重ね合わせて然るべきものなのでしょうが。

 思えば、現代に生きる我々は、映像からの借り物が増えすぎました。「見たことがあるような」気になっているものが多すぎます。「体験の重要性」が叫ばれるのも、宜なるかなです。

 とはいえ、世界は広い。小さな日本ですらも、こんなに広い。

 科学が発達した時代に生まれたせいで、失われてしまったことも確かに多いけれども、享受させてもらえることも、また多いのです。

 愚痴などこぼさずに、この時代に生まれたことを感謝して、そしてこの時代でなければ、出会えなかったであろう人々との出会いに感謝して、今日も頑張ることにいたしましょう。

日々是好日
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「冬将軍の到来」。「『日本で日本語を学ぶ』とは、同時に様々な知識も学ぶということ」。

2009-11-04 07:52:05 | 日本語の授業
 日曜日に異常な暑さを見せたかと思ったら、月曜日からはドンドン冬になっていき、そして寒さのどん詰まりは昨日でした。テレビや新聞では、北の地方や山間部での降雪の模様が映し出されています。そこまで行かなくとも、この辺りでも寒かった…。

 一日中、DVDの整理をして、一歩も外へ出なかったのですが、それでも寒かった。寒いからといって、暖房をつける気にはならないし…ということで、靴下は厚くなっていく一方です。天気予報によると、今日の昼からは、寒さが緩み、例年の気温に落ち着くとのことでしたが、さて、どうなりますことやら。
 たとえそうなるとしても、すでに現在、(一年目の)学生達の中には、「しはぶかひ 鼻びしびしに」という人たちが増えているのです。この分では、ますます「風邪引き」さんが増加していくことでしょう。怖い新型インフルエンザや季節性インフルエンザも待ち受けているでしょうし。

 日本人にとっては、「乾燥」というものは「寒さ」に伴ってくるものという気がするのですが、この「日本人の言うところの乾燥」も、他の地から来た人たちにとっては、乾燥の「か」にも当たらないということにもなってしまいます。とにかく年中カラカラの地から来ている人もいるのですから。
 本当に地球は広い。いくらジェット機で(目的地に)あっという間に着けたとしても、この地球の広さは変わりません。地に足がついた人間に戻れば、すぐに判ることです。

 今日も玄関を入るなり、このスリッパがどうも寒々しく感じられてなりませんでした。そろそろ冬のスリッパを買いに行った方がいいのかもしれません。学校で履くものは、重労働を強いられているかのように、直ぐにだめになってしまいます。別に走り回っているわけではないのですが、授業をしながらでも、自然にリキが入ってしまうからなのでしょうか。

 そういえば、小学校の校庭から伸びている柳の葉が、随分色褪せ、白っぽくなっていました。周りにあるのが「サクラ(桜)」だの「イチョウ(銀杏)」だのという、「秋こそ命」めいた華やかな彩りで迫ってくる連中ばかりなのですから、余計にそう感じられたのかもしれません。

 人でも、犬でもそうです。夕陽のように最後の華やかさを見せて沈んでいってしまうものと、そのまま朽ち果てていくものと、人生もこの二通りがあるようです。そして、生き物の多くは、静かに果てていくという後者なのでしょう。すべてを落として、却って何もかもがスッキリとして、潔く見える「冬」と違い、「秋」というのは、華やかである反面、どこかしら切なく悩み多い季節であるかのように感じられてしまいます。

 さて、学校では、今日、最後の「(留学生試験の)模擬テスト」を行います。しかしながら、何と言っても「一年から一年半」というのは、短すぎます。「漢字圏」の学生の場合、この学習期間は、「日本語能力テスト(一級)」合格には、余裕があると申せても、「留学生試験」で、ある程度の成績を残すには、なかな大変なのです。
 中国人や、普通こういう日本語学校に通ってくる学生達の場合、(彼らの国と)日本とは、全く政治体制が違いますから、当然のことながら、経済のしくみもいますう。その上、(彼らの国の)学校教育では教えていない「戦後の世界」というのがあるのです。

 来日後のことであれば、新聞などの切り抜きやテレビのニュースなどを通して、臨場感ある理解も出来るのでしょう。が、それが「なかった」という理解をしてきた歴史では、脳が理解することを拒否してしまうようなのです。さすがに「自分の国はそういうことはしていない」とうそぶく人は少なくなりましたが、「それはあったことなのだ」といくら映像も告げ、書物でもそうなっていても、なかなかスムーズには入っていかないようなのです。

 つまり、「映像を見て知って一回、歴史の本を読んで知って一回、そしてまとめとして肚の底に落ちるための一回」というふうに、できれば、三回繰り返す時間が欲しいのです。世界史一つとってもそうなのです。これが「あったことをまとめ、認識する」だけの歴史(勿論、歴史は『今』を理解するためにあります。しかしながら、「留学生試験」では、そこまで要求されていないのです。要求されているのは「知っていること」なのです)であってさえこうなのですから、直接『今』に結びつく、「国際」や「経済」、また「政治」では、また何をか言はんやです。

 蛇足に過ぎることながら、日本の新聞やテレビは、本当に頑張っています。特に「NHKスペシャル」の特集は、本当にありがたい。民間のものであっても(内容も、半分以上は娯楽に過ぎぬものであっても)、その事件が起こった場所や背景などをわかりやすく説明してくれるものが多いので、学生達に見せる時には、本当に助かるのです。

 と言うわけで、日本語を日本で学ぶにはとてもいいのですが、これが、報道に強い規制がかかっている国や地域で、その国の言語を学ぶということになりますと、なかなかそういうわけにはいきません。「言語」学習は、「言語だけの習得」で終わってしまうのです。その国の言語を学びながら、様々な知識をその国の言語で習得するというわけにはいかないのです。日本で日本語を学ぶ場合、「一級レベル」にまでいっている学生には、読んだり、映像を見たりすることで(ただの「ドラマ」や「お笑い番組」で、日常生活用語や若者言葉を知るというのではなく)、知識を拡げ、深めさせていくことができるのです。

 それが、ひいては、自分が今までいた国を見つめ直すきっかけにもなるでしょうし、(日本での)大学四年間を無駄に過ごさずにすむということにもなるでしょう。

 さて、今日は、朝一番に、月曜日にし残した「日本史」の授業を終えてから、教員二人で、月曜日に入院した学生のお見舞いに行ってきます。この学生は、高校を卒業して、4月に来たばかり。お父さんがいるとはいえ、同じ国から来た同性の友達もいないようですから、きっと心細がっていることでしょう。それに、12月の「日本語能力試験(三級)」を控え、焦っていることでしょう。

 とはいえ、まずは、病気を直さなければなりません。これは当然のことです。ただ、大人しくして、薬を飲み、回復を待てばいいだけの病のようですので、病室で出来るよう「プリント」や「CD」、また気散じ(半分は勉強)のための「DVD」などを持っていき、勉強したいという気持ちが薄れないようにさせておかねばなりません。どちらにしても、来年は大学を目指さねばならないのですから。

日々是好日
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「この秋一番の冷え込み」。「互いを忖度しながら生きている国」。

2009-11-02 07:34:43 | 日本語の授業
 きれいな形の鳥を見かけました。二羽でしたから、もしかしたらつがいなのかもしれません。尾が長く、ゆったりと樹に止まろうとしていました。鳴き声も「ふう~ん」と人が言いそうなリズムで、「ヒヨドリ」のカンに障るような叫びとは違います。もしかしたら、昨日の強風に吹き飛ばされてやってきたのかもしれません。

 鳥といえば、ここには、東京の郊外でよく見られる「シラサギ(白鷺)」が来ないのです。水田も畑もないからでしょうが、たまに見たくなります。いくら大食漢で、「コイ(鯉)」などの天敵であるとはいえ、その姿は優美で、見られないとなると寂しいものです。

 もっとも、その代わりと言ってはなんですが、時々近くの海から海鳥がこちら側に流れてきたり、海で何日か羽根休めでもしてからまたどこかへ向かっているのでしょう、渡りの鳥が見られたりしますから、どちらがいいとも言えないのですが。

 最近は、犬の散歩に付き従っている人の姿を、よく見かけます。リールを長く伸ばされてしまうと、自転車通勤の身としては、、車道の方へ避難しなければならなくなるので、少々困りものなのですが、まあ、人も動物もどこかしらおっとりして見えます。大型犬や中型犬が多いということもその一因なのでしょう。小型犬は、せわしないし、直ぐ吠えるので、通勤途上は、あまり出くわしたくない相手です。

 ところで、学校の周りは、犬ならぬ、猫たちの天国のようです。よく巡回している「巡回猫」を見かけるのですが、それも一匹や二匹ではありません。最近は、真向かいの駐車場の端っこに、いかにも暖かそうな毛布が丸められて置かれてあり、そこが格好の寝場所になっています。ちょうど日溜まりになる箇所なのです。

 見るたびに違う顔の猫が寝ているようですから、うまい具合に棲み分けが出来ているのでしょうか。時々激しい争いを耳にし、目にもしていたので、ちょっと不安だったのですが、今のところは、穏やかな日常といったところです。ただ残念なことに昨夜から早朝にかけて雨が降って、せっかくの毛布もぐっしょり濡れてしまったようです。お日様に干してやるわけにも行きませんし、ノラ君たちにとっては、今日は辛い一日になりそうです。

 いくら猫が好きでも、迷惑がっている人がいれば、餌をやるわけにもいきませんし、毛布を日に干してやるわけにもいきません。世知辛い世といえば、確かにそうなのでしょうが、狭い土地に、みんなが遠慮しながら住んでいる、日本という国では、それも仕方がないことなのです。

 よく学生達にこんな話をします。
 彼らの国では、初めて見かけた子供であろうと、子供にお菓子をやるのは、悪いことでも何でもないでしょうし、転んだ子供を、親が助けるのに何の不思議もないのでしょうが、けれど、日本では、違うのだと。いろいろな事情や(親の)教育方針があって、事情を知らない人間が勝手に手を出してはいけない場合が少なくはないのだと。

 ここに可愛い子供がいるとします。可愛いなと思えば、声をかけてやりたくなるのは人情でしょうし、持っているお菓子をやりたいと思っても不思議ではありません。けれども、そうしてはいけないのです。知っていればまた別ですが、知らなければ、してはいけないのです。

 親御さんがいる場合は、まず、親御さんに可愛いお子さんですねと話し掛け、許可をもらってから、すればいいのです。また、子供にお菓子をやりたいと思っても、何でもやっていいわけではないのです。アレルギーがある子供かもしれないし、親が甘い物をやるのを控えている場合もあるのです。

 アレルギーのある子供は可哀想です。私の知り合いも、子供が友達の所へ遊びに行く時には、いつも「お菓子持参」でやると言っていました。子供がいくら食べたいといっても、食べると発作やじんましんが出て、苦しむので、食べさせるわけにはいかないのだそうです。また、糖尿病のある家系であれば、小さい時から甘い物に親しませるわけにはいかないので、小さいうちは、出来るだけチョコレートやケーキをやらないようにしているのです。周りがおいしそうに食べていれば、当然食べたくなるでしょうが、そういう子供は、我慢を知っていて、自分からは手を出しません。けれども、人がやれば、また話は違ってくるのです。

 日本には、おいしそうなお菓子やきれいなお菓子が溢れています。その誘惑に大人であっても負けそうになります。第三世界から来た人たちは、喜んでこのお菓子を食べ、また人にもやろうとします。それは喜ばれこそすれ、迷惑がられることではないと信じ切っているのです。

 けれども、これが往々にして、周りから「変な人」と見られたり、胡乱な人扱いされてしまうのです。悲しいことですが、事情を知らない時には、「何事であろうと、手を出すな」ということが、まず彼らが一番最初に覚えなければならないことなのかもしれません。

日々是好日
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