日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「集まっては散り、散ってはまた集まる」というのが人の世の習いなのかもしれません。

2018-08-22 09:33:23 | 日本語学校
晴れ。

「W(19号、20号)台風が近づいているというのに、こちらは「晴れ」です。大して風も吹いていません。小さいとは言われる日本も、こうも違うと、それほど小さくはない…と思ってしまいます。

学生達と話していると、日本という国の、面積上の大きさが、「普通」であるような気がしてきます。その昔、古代ギリシアでは、ポリスの人口が、ある一定以上になると、人が他の土地を求めて出ていくというのを聞いたことがあります。自治というか、皆で話し合って決めるには、限界があるということなのでしょう。

日本でも、「中央(政府)が、何もかも決めるのは無理だ。広すぎる。道州に分け、それぞれの地域で、その地域のためになる政治を考えた方がいい」という案が、いまだに燻り続けています。時々、出てくるのです、ふいと。忘れた頃に。

それぞれの土地の風土が違う。人気も違う。歴史も違う。当然のことながら、作物も違ってくる。何を重点に栽培した方がいいかなんてものも、中央には判らんだろうし、人々が何を欲しているのかも判らんだろう。そうなれば、その土地の人がちが、自分たちで選んだ方がいいとなるのでしょう。

とはいえ、そういうところでも、地域エゴが必ず出てきます。狭く、小さい場所であっても、そこには必ずと言っていいほど富者と貧者は存在しますから。自分たちはたくさんの税金を納めているのに、自分たちの生活を豊かにするために使われていない。他の「ノホホン」と暮らしているげに見える人達のために使われているのではないかという不平等感です。

「『森は海の母』。だから『森を育てよう』と漁師さん達が立ち上がった」とはならないのです。

もちろん、「金持ち喧嘩せず」ですから、皆が皆、何億円も自由になる金を持ち、ほかの人に1億くらい遣っても「へのかっぱ」というのなら話は別ですが。

日本人が、一見独立しているように見えるのは、「人様に迷惑を掛けない」から。つまり「自分も人様に迷惑を掛けられたくない」から。

なにせ、皆、自分が生きるだけで精一杯なのです。他者をそれほど構えなのです。

思えば、日本が貧しかった頃は、隣の家に「醬油がきれたから、ちと貸しておくれ」だの、「今日は客が来るので、皿と器を2、3枚貸しておくれ」だの言えた時代でした。皆が貧しく、自分だけでは生きていけないということが共通理解としてあったからなのでしょう。

今は、一人でも生きていける…と「誤解できる時代」なのかもしれません。とはいえ、全く社会、他者を必要としない人は、おそらくいないでしょう。ゼロとは言いませんが。

今は、いくらなんでも、「野に捨てて けだものに ほどこすべし」とは、普通、なれないのです。勝手に死んだって、その後片付けをする人がいます。縁者に連絡をする人もいます。放っておかれないのです。

尤も、こう言えた一遍上人とは時代が違います。「生ぜしも独りなり 死するも独りなり されば 人と共に住するも独りなり」と言えたのも、乱世に生きた宗教者の一人として、考えに考えた末のことでしょう。とはいえ、翻って考えれば、つまり、それほどに「つながり」というか「人と人との関係」を意識していたのかもしれませんし。

さて、つながりの中で生き、それを全く意識していないように見える学生達です。

昨年の「四月生」は、新学期が始まれば、最後の学費を払わなければなりません。少なからぬ学生が、「(この学校の)学費は自分のアルバイトで大丈夫だけれども、進学のためのお金は『送ってもらう』」と言います。

去年、一昨年までは、そういう学生の方が断然少なかったのに、今年は、そういう学生の方が多いような気がします。以前はベトナムの学生など、送ってもらえるのに、メンツから、送ってもらわないで、自分が送るという学生がよくいました…なのにねえ。

それなりに、お金に不自由しないような人達が増えたのかもしれません。

日々是好日
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