日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「言語の習得には、それが風土・文化に根ざしていることを教えていくことが不可欠である」

2009-07-06 08:00:40 | 日本語の授業
 今朝も雨。自転車にしようか、歩きにしようかと、迷いました。突破できないことはないとは思ったのですが、結局は、歩いて学校へ行くことにしました。

 行きがけには、(よく昼ご飯を買っているコンビニが改装中なので)少々足を伸ばして、海側のスーパーへ行きました。普段は自転車で、しかも朝の気忙しい時間帯ですから、ゆっくりと道沿いの草花を見るというわけにはいきませんが、今朝は、早めに出たこともあり、気持ちが寛いでいました。で、のんびりと傘をさし、雨に打たれている草花を楽しみながら、学校へやって来たというわけです。

 その途中、こんもりと葉が茂っている木の下には、雨の跡がないのに気がついたのです。この雨も、小降りになってはいましたが、傘をささずともいいというほどではありません。
木の葉が、しっかりと雨粒を受け止めてくれていたのです。

 古人が、木の下を「仮の宿り」としていたのも宜なるかなです。行徳という、この辺りは、日本橋まで、地下鉄で20分と交通の便もいいし、物価も安い。いいことずくめのようにも見えますが、大木がないのが難点なのです。人は老いるにしたがって、大地に戻るとも申します。大地から伸びたものが恋しくなるのです。

 木々にしても、実生のもので、落葉樹で、枝に葉が茂り、しかも丈高いのがいい。小鳥にとっても、鹿やイノシシにとってもそうでしょう。それが、この地に乏しいのは、海に近いこと、また埋め立て地であること、ここの土が、山のものではないことなどがあげられるのでしょうが、寂しい限りです。電線などに鳥たちが止まっているのを見るにつけても、本来なら身を隠すべき大木に宿りたいであろうにと同情を禁じ得ません。

 さて、昨日は「日本語試験(一級と二級のみ)」の日でありました。
 テレビで、北京で受験している人達の様子が映し出されていたので、驚きました。中国でも、「大学は出たけれど…」という厳しい就職難です。学生達も(日本と同じように)「資格」をとることに必死にならざるを得ないのでしょう

 けれど、この時、インタヴィユーに答えている女子学生の言葉に、思わず笑ってしまいました。
「日本語は簡単だ。会話が難しいだけ」

 中国の大学や短大で、必要に駆られて、少し日本語を囓ったことのある大卒者は、だいたいそう言います。また、そう言う気持ちで日本へやって来ます。初めは、「(そう思えるなんて)あっぱれだ」と思っていたのでしたが、後で、ただ無知からそう思っていただけであるということがわかり、この「あっぱれ」という気持ちが、少々侮蔑に変わりました。また、そう言ってのける人に限って、一定の水準より伸びないのです、日本語力が。

「言語」が、風土に根ざし、文化・歴史・その地に住む人達の心と、深い関係を紡ぎながら、生まれている以上、それらの理解が言語の習得には欠かせないものであることは、明らかなことです。が、それを彼の地では日本語教育の基本に入れることができていないのです。(「学習班」と呼ばれるところで学んでいる人は、その対象ではありません。「一」は「いち」であると学んでいるにすぎないのですから)

 数学の「等式」を覚えるように言語を見なしているのです。それ故、漢字が点在している日本語は、中国語の亜流であると見なし、簡単だと思い込むのでしょう、中国人だからと。「文化だとて、皆中国の模倣ではないか。中国が親で日本は子である」と言う人も少なからずいます。

 中国にいる時であれば、(周りが中国人ばかりですから)「そうだ、そうだ」で終わり。なぜなら、その方が威勢がいいし、優越感をくすぐられますから。人間は弱いものです。阿Qの「精神勝利法」に頼らざるを得ません。何でも、いつの間にか自分が上になってしまえるのです。ただ、これは中国にいるときだけです。外を知らない人であれば、それで充分、またそれ以外に何が出来ると言うのでしょう。

 「文化」というのは長年に亘って、人が築き上げてきたものです。どの地域・国であろうと、他者と違う点はあります。またそれ故にこそ、その国や地域の言語を学びたい、彼らの文化を理解したいと思うのではないでしょうか。

 ところが、私が留学していた頃の中国人は違いました。その点は、今でも、あまり多くは変わっていないと思います。他者を直ぐ蔑視するという習慣です。その頃は中国は貧しく、日本は豊かでしたから、アジアの諸国のでも、日本人だけは、他の欧米諸国から来た留学生と同じように扱われていました。けれど、内心では、日本を見くびっていたのだと思います。

 今は、それが焦りになっているのでしょう。プライド半分、焦り半分くらいでしょうか。どうして「親」なのに、「ノーベル賞をとれない」みたいに。日本人とは、風土から根ざした「心持ち」が、違うのです。それが、判ってくれる人もあり、また感じてくれる人もいますが、おそらく大半は、違いがあると判っても、具象的なものに終始してしまうのでしょう。

 「トトロ」という映画があります。現代日本人であろうと、「トトロ」を見て違和感を感じるようなことはないのですが、中国人は違います。それゆえに、日本人が、最先端の機械に習熟しながら、「トトロ」を自分の身の一部のように感じるという精神構造が、よく判らないのです。簡単に「トトロの世界の住人」は「後進国の人間」であり、「先進国の人間」は、「トトロの世界の住人」であるはずがないと思っているのです。

 以前、他の学校で教えていたとき、「『トトロ』という映画が判らない。いったい何を訴えようとしているのだ。主張は何なのだ。何が言いたいのか」と、訴えられたことがありました。私は「考えるな。ただ感じればいい。それだけでいいのだ」と答えたのですが、所詮、無理なことです。この人は、何事も理詰めで理解しようとしていたのです。おそらく、こういうタイプの人には、「日本の文化の匂い」はわからないのでしょうし、「日本人の心」も感じることはできないのでしょう。

 勿論、これには個人差があります。何事でもそうですが、アンテナの長さは人それぞれ違います。また向きも関係してきますから、判らなかったら、判らなかったでいいのです。他を捜せばいいことなのですから(却って、「何でも判った」という人は怖い)。が、アンテナがこちらを向き、またこちらを向いたアンテナの長さも太さも十分であるのに、理解できないとしたら、そして、その人を教えたのが私であったとすれば、(しかも、教えるだけの期間があったにも拘わらず、私が理解させられなかったというわけですから)これは、私が悪いということになります。

 といいましても、これは、本来「教えられる」レベルの問題ではないのです。こういうことが「わかる」人には、それを「見せる」だけでいいのです。あと、「一言二言」付け加えれば、「入門編」は完璧だと言えるでしょう。日本語のレベルという関門はあるようにみえますが、こういう「天性の感性」は、語学の関門をあってなきがごときものにしてしまいますから、(こういうことには)言語という関門はないと言ってもいいのです。

 ある事柄は、「理性」で考えなければならないでしょうし、ある事柄は、「感覚」で考えなければならないでしょう。けれど、また「心で考えるという考え方もあるのです。

 同じ芸術に志す者であっても、「理性」か、「感覚」か、「心」かで、表現に違いが出てきます。「トトロ」などは、「心」なのです。心の奥深くを深層水のようにスウッと流れていくものなのです。そうして、「懐かしさ」と「心地よさ」を味わえば、いいのです。言葉を換えて言えば、「見る」ことによって、幾十代もの祖先からの思いが、また自分の中で一つに「なる」、或いは「なったような気になれる」、そういうものなのかもしれません。なんにしても、日本人にとっては、心地良い映画なのですから。

 さて、遅ればせながら、今日は、「七月生」のための開講日であり、後半は「七夕」のお祭りになります。今日は、どのような願い事が、笹のお船に乗って天の川へ届けられるでしょうか。

日々是好日
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