窓から見た時には、ただの「曇り」に見えました。が、外に出てみると、細い細い、針のようなものが、チロチロと当たります。けれども、たいしたことはあるまいと、そのまま自転車で行くことにしました。
先週は、「もし、帰りに雨が止んでいたら、悔しい(なぜか判りませんが、悔しいのです)から」と、かなりの雨の中を、「小雨決行」してしまいました。
ところで、この「小雨決行」という言葉は、「催し物」などがあるときに、よく耳にしたり、目にしたりするものなのですが、あまり外出をしない私にとっては、主に「古紙回収」のチラシで、親しんでいる言葉なのです。
「梅雨時」ともなりますと、雨が続きます。そういう日に、この「古紙回収」のチラシが入っていますと、「雨なのに、出してもいいのかしらん」とちょっと罪悪感にかられてしまうのです。ただ、新聞に挟まれている広告も含めますと、二ヶ月分の重さは、かなりのものになりますし、また狭い部屋に、かさばるものを置いておくのも、うっとうしい。「出したいけれど…いいのかしらん」と悩む時、背を押してくれるのが、この「小雨決行」の文字なのです。「あちらもそう言っているのだから、ま、いいか」と、何となく罪悪感が薄らいで来るのです。「救いの文字」ですね。
勿論出来るだけ、雨に濡れて重くならないようにと出す場所を考えて出しはするのですが、雨の日に新聞紙(紙の類)を外に放っておくなんてという、世間一般の常識が邪魔をして、「罪悪感」を感じてしまうのです。
話は元に戻ります。例の、先週の「小雨決行」です。その前、「小雨決行」のつもりが、途中から、ザンザ降りになり、「大雨決行」になってしまうという日があったものですから、ちょっと躊躇ったのです。その日は、学校に着いた時には、もう頭から何から濡れ鼠状態でした。髪の毛から滴がポタポタと滴るという有様でしたから、ブルブルとネコや犬のように身体を振ってみても、人間というのは悲しい存在で、代わり映えもしません。そのため、この「先週」も、少々ためらいはしたのですが、「えい、女は度胸」と飛び出したのです(全く、つまらないことにでも、意気がっていないと、生活が単調になってしまいます)。
運良く、「小雨」のままで、しかも、帰りは「目論見」通り、雨が止んでくれましたから、ホイホイと大喜びで、楽をして帰れたのですが、なぜか、机の近くから、歩いた方がいい、ダイエットした方がいいなんていう、不人情な声が聞こえていました。
さて、学校です。玄関は、先日申し上げた写真の他にも、各国の学生が持って来た置物や飾りもディスプレイされています。これは、その頃いた若い先生がしてくれているのですが、それぞれの個性がうかがえて、それなりに楽しいし、学生達も思いの外、よく見ているようです。
スリランカの学生が多かった頃は、象の置物や壁掛けがよくお土産になりましたし、ミャンマーの学生が来た頃には、貝殻を使った壁掛けや置物が増えました。中国からは、吉祥の飾り物や書画が、モンゴルの学生が持って来たのは、パオや民族衣装の一部などでした。インドの学生が来るようになってからは、タージ・マハールのミニチュアが置かれるようになりましたし、木彫りの踊り子も置かれています。
そのなかに、なぜか30㎝ほどの東京タワーが置かれているのです。そして、その下には、黒と白の、小さな招き猫が、「勉強したい人来い、来い」とばかりに並べられています。
全く「無国籍」な学校です。けれども、また、それがいいのです。半分に少し満たないくらいの中国人の学生も、ここでいろいろな国の人達と知り合え、多少頭が硬く、偏見に満ちている人であっても、他の国の人達の、頭の良さや人柄の良さなどに触れれば、自分の考え方が頑なであったと気づくでしょうし、また、そういう人達と同じクラスで勉強しながら、それに気づけないということでしたら、それなりの人間でしかないということですから、みんな(この学校の多くの学生達です)に認められないということになります。
これ(いわゆる「差別」というもの)は、いくら教師が口を酸っぱくして言っても、どうにもなりません。(クラスに)一緒にいるのですから、自然に判ることです。まず、「百聞は一見にしかず」を、実地でやってもらうことです。勿論、漢字圏の国の人は、日本語を学ぶ機会にも恵まれていますし、共通する「文字」もある。それゆえに、愚かとも言える思い込み、即ち、「自分は(あいつ等に比べて)頭がいい」となりがちなのです。特に、お山の大将でいられたであろう、田舎で育った人に良く見受けられることですが。
そういう先入観をもって、「初級クラス」に入ってくる漢字圏の学生は(もし、ずっとそのままであったら)悲惨な結末を迎えることになってしまいます。母国では、「普通」であったか、或いは、「中の下」か「それ以下」であった。ところが、日本に来て「初級クラス」に入ってみると、他の国の人間に比べて、自分は、早く「ひらがな」が書けるようになったし、「字」も簡単に読めるようになった。で、直ぐに有頂天になってしまうのです。単純で可愛らしいと言えば言えるのでしょうが、多くはそう単純には終わりません。今まで、母国でおそらくされてきたであろうことを、他の人にやってしまうのです。
その時に、教師はその人を非難したり(勿論、度が過ぎていなければ)しては、いけません。却って、行動が潜在化し、見えなくなると問題が複雑化してしまう恐れがあるからです。その人が「そういう類の人である」ということに、まず、気づければいいのです。判っていれば、その差がありながら、「斯く頑張っている」という人の方を褒めていけばいいのです。そうすれば、「漢字が判りながら、自分はこれも出来ない」と、己を顧みる人も周りに増えてくるでしょう。
こういうタイプの人は、普通、それほど賢くない人が多いのです。その人に百万遍言ってきかせるなどという、無駄な時間を費やすよりも、同国人の間から埋めていった方がいいのです。どこの国にも、ものの判った「常識人」は、いるのですから。
特に、こういう場合、教師に、下手な「正義感」は禁物です。教師自身が、その「軛」から逃れていないからこそ、そういう「正義感」を振り回してしまうのです。何事も自然に、目に見えぬように、耳に聞こえぬように、融和させていくべきなのです。実際に、非漢字圏の国から来た人の中にも、優れた人は居、また、こういう学校にも来ているのですから。
こうやって、クラスのみんなが、溶け合えるようになっている頃に、差別的な発言をすれば、それはクラスのみんなから「干」されます。どうしても、痛い目を見なければ、判らない人には、痛い目を見せた方がいいのです。自分は「中国人だから、偉い」と思い込んでいれば、(クラスの)世論(同国人をも含めて)から、浮いてしまいます。その頃になっていれば、他の中国人達の評価の基準も、「同じ国から来ている」ではなく(民族や人種に関係なく)、「一生懸命勉強する人」、「頭がいい人」、「人柄のいい人」、「頑張る人」などでになっているはずですから、そうなると、わけの分からない人は、孤立して、目がウロウロしてしまうことになってしまいます。
これを、「可哀想だと言うことなかれ」。こういう人の冷たい仕打ちによって、涙していた人もいたのですから。勿論、教師は、クラスを指導、或いは啓発していかなければなりません。けれども、既に母国で、ある種の教育を受けてきており、誤った(?私はそう思うのですが)優越感を持っている人達に対しては、頭ごなしの叱責は、功を奏しません。却って、反発されたり、被害妄想に陥られたり、恨まれたりしてしまいます。
そういう時には、ひどい目に遭っている学生の方に目を向けるべきです。その人を庇い、力づけていけばいいのです。出来るだけ、(クラスの)みんなのいる前で、その頑張りを認め、褒め、その人を肯定していけばいいのです。教師達が思っている以上に、学生達は、教師の言動に左右されます。教師がそういう対応をしていれば、いつしかクラスのみんなもそのように、その人を扱うようになります(教師は、自分のクラスの学生達を信じるべきです。人は、正しいことを認めたいし、頑張っている人を褒めたいのです。不幸な人を、さらに苛めるような立場にはなりたくないものなのです)。
しかしながら、大切なのは、まず「形」です。教師がその人を認めている、という言動、つまり、「目に見えるもの」が必要なのです。心を変えさせるのは難しい。けれども、行動に出るのを抑えさせることはできるし、そういう人の言動を抑えさせる人を育成することはできるのです。
学校では、まず、「勉強する人」が認められます。ここは、日本語学校ですから、「日本語」の勉強をする人になります。特に、「初級」の場合、クラスの中に、「四級」合格者も、「イロハ」からの人も含まれてしまいます(母国で「四級合格」した者の中には時々危ういものをも、同伴して来る人がいます。悪い癖です。それをたたき直していくためにも、人によっては、もう一度やり直した方がいい場合もあるのです)。みんな、その人が初めはどのくらいのレベルだったのか、知っているのです。その時の自分のレベルより上か下かくらいのものなのですが。
それに、日本語学校では、就学生が半数ほどを占めていますから、勉強と共にアルバイトもある程度こなせなければなりません。これは、「頑張り」だけでもだめなのです。「人を見る力と適応力」が必要になってきます。まず、他者を認めることが出来なければ、(いろいろな国から来ている人たちの中で)、やっていけるものではありません。それができれば、多分、大学に行っても、大学院に行っても、また、外国人の多い会社へ入っても、日本人だけの会社へ行っても、うまくやっていけるようになるでしょう。きっと、いつも、どこかで、味方になってくれる人がいるでしょうから。
日々是好日
先週は、「もし、帰りに雨が止んでいたら、悔しい(なぜか判りませんが、悔しいのです)から」と、かなりの雨の中を、「小雨決行」してしまいました。
ところで、この「小雨決行」という言葉は、「催し物」などがあるときに、よく耳にしたり、目にしたりするものなのですが、あまり外出をしない私にとっては、主に「古紙回収」のチラシで、親しんでいる言葉なのです。
「梅雨時」ともなりますと、雨が続きます。そういう日に、この「古紙回収」のチラシが入っていますと、「雨なのに、出してもいいのかしらん」とちょっと罪悪感にかられてしまうのです。ただ、新聞に挟まれている広告も含めますと、二ヶ月分の重さは、かなりのものになりますし、また狭い部屋に、かさばるものを置いておくのも、うっとうしい。「出したいけれど…いいのかしらん」と悩む時、背を押してくれるのが、この「小雨決行」の文字なのです。「あちらもそう言っているのだから、ま、いいか」と、何となく罪悪感が薄らいで来るのです。「救いの文字」ですね。
勿論出来るだけ、雨に濡れて重くならないようにと出す場所を考えて出しはするのですが、雨の日に新聞紙(紙の類)を外に放っておくなんてという、世間一般の常識が邪魔をして、「罪悪感」を感じてしまうのです。
話は元に戻ります。例の、先週の「小雨決行」です。その前、「小雨決行」のつもりが、途中から、ザンザ降りになり、「大雨決行」になってしまうという日があったものですから、ちょっと躊躇ったのです。その日は、学校に着いた時には、もう頭から何から濡れ鼠状態でした。髪の毛から滴がポタポタと滴るという有様でしたから、ブルブルとネコや犬のように身体を振ってみても、人間というのは悲しい存在で、代わり映えもしません。そのため、この「先週」も、少々ためらいはしたのですが、「えい、女は度胸」と飛び出したのです(全く、つまらないことにでも、意気がっていないと、生活が単調になってしまいます)。
運良く、「小雨」のままで、しかも、帰りは「目論見」通り、雨が止んでくれましたから、ホイホイと大喜びで、楽をして帰れたのですが、なぜか、机の近くから、歩いた方がいい、ダイエットした方がいいなんていう、不人情な声が聞こえていました。
さて、学校です。玄関は、先日申し上げた写真の他にも、各国の学生が持って来た置物や飾りもディスプレイされています。これは、その頃いた若い先生がしてくれているのですが、それぞれの個性がうかがえて、それなりに楽しいし、学生達も思いの外、よく見ているようです。
スリランカの学生が多かった頃は、象の置物や壁掛けがよくお土産になりましたし、ミャンマーの学生が来た頃には、貝殻を使った壁掛けや置物が増えました。中国からは、吉祥の飾り物や書画が、モンゴルの学生が持って来たのは、パオや民族衣装の一部などでした。インドの学生が来るようになってからは、タージ・マハールのミニチュアが置かれるようになりましたし、木彫りの踊り子も置かれています。
そのなかに、なぜか30㎝ほどの東京タワーが置かれているのです。そして、その下には、黒と白の、小さな招き猫が、「勉強したい人来い、来い」とばかりに並べられています。
全く「無国籍」な学校です。けれども、また、それがいいのです。半分に少し満たないくらいの中国人の学生も、ここでいろいろな国の人達と知り合え、多少頭が硬く、偏見に満ちている人であっても、他の国の人達の、頭の良さや人柄の良さなどに触れれば、自分の考え方が頑なであったと気づくでしょうし、また、そういう人達と同じクラスで勉強しながら、それに気づけないということでしたら、それなりの人間でしかないということですから、みんな(この学校の多くの学生達です)に認められないということになります。
これ(いわゆる「差別」というもの)は、いくら教師が口を酸っぱくして言っても、どうにもなりません。(クラスに)一緒にいるのですから、自然に判ることです。まず、「百聞は一見にしかず」を、実地でやってもらうことです。勿論、漢字圏の国の人は、日本語を学ぶ機会にも恵まれていますし、共通する「文字」もある。それゆえに、愚かとも言える思い込み、即ち、「自分は(あいつ等に比べて)頭がいい」となりがちなのです。特に、お山の大将でいられたであろう、田舎で育った人に良く見受けられることですが。
そういう先入観をもって、「初級クラス」に入ってくる漢字圏の学生は(もし、ずっとそのままであったら)悲惨な結末を迎えることになってしまいます。母国では、「普通」であったか、或いは、「中の下」か「それ以下」であった。ところが、日本に来て「初級クラス」に入ってみると、他の国の人間に比べて、自分は、早く「ひらがな」が書けるようになったし、「字」も簡単に読めるようになった。で、直ぐに有頂天になってしまうのです。単純で可愛らしいと言えば言えるのでしょうが、多くはそう単純には終わりません。今まで、母国でおそらくされてきたであろうことを、他の人にやってしまうのです。
その時に、教師はその人を非難したり(勿論、度が過ぎていなければ)しては、いけません。却って、行動が潜在化し、見えなくなると問題が複雑化してしまう恐れがあるからです。その人が「そういう類の人である」ということに、まず、気づければいいのです。判っていれば、その差がありながら、「斯く頑張っている」という人の方を褒めていけばいいのです。そうすれば、「漢字が判りながら、自分はこれも出来ない」と、己を顧みる人も周りに増えてくるでしょう。
こういうタイプの人は、普通、それほど賢くない人が多いのです。その人に百万遍言ってきかせるなどという、無駄な時間を費やすよりも、同国人の間から埋めていった方がいいのです。どこの国にも、ものの判った「常識人」は、いるのですから。
特に、こういう場合、教師に、下手な「正義感」は禁物です。教師自身が、その「軛」から逃れていないからこそ、そういう「正義感」を振り回してしまうのです。何事も自然に、目に見えぬように、耳に聞こえぬように、融和させていくべきなのです。実際に、非漢字圏の国から来た人の中にも、優れた人は居、また、こういう学校にも来ているのですから。
こうやって、クラスのみんなが、溶け合えるようになっている頃に、差別的な発言をすれば、それはクラスのみんなから「干」されます。どうしても、痛い目を見なければ、判らない人には、痛い目を見せた方がいいのです。自分は「中国人だから、偉い」と思い込んでいれば、(クラスの)世論(同国人をも含めて)から、浮いてしまいます。その頃になっていれば、他の中国人達の評価の基準も、「同じ国から来ている」ではなく(民族や人種に関係なく)、「一生懸命勉強する人」、「頭がいい人」、「人柄のいい人」、「頑張る人」などでになっているはずですから、そうなると、わけの分からない人は、孤立して、目がウロウロしてしまうことになってしまいます。
これを、「可哀想だと言うことなかれ」。こういう人の冷たい仕打ちによって、涙していた人もいたのですから。勿論、教師は、クラスを指導、或いは啓発していかなければなりません。けれども、既に母国で、ある種の教育を受けてきており、誤った(?私はそう思うのですが)優越感を持っている人達に対しては、頭ごなしの叱責は、功を奏しません。却って、反発されたり、被害妄想に陥られたり、恨まれたりしてしまいます。
そういう時には、ひどい目に遭っている学生の方に目を向けるべきです。その人を庇い、力づけていけばいいのです。出来るだけ、(クラスの)みんなのいる前で、その頑張りを認め、褒め、その人を肯定していけばいいのです。教師達が思っている以上に、学生達は、教師の言動に左右されます。教師がそういう対応をしていれば、いつしかクラスのみんなもそのように、その人を扱うようになります(教師は、自分のクラスの学生達を信じるべきです。人は、正しいことを認めたいし、頑張っている人を褒めたいのです。不幸な人を、さらに苛めるような立場にはなりたくないものなのです)。
しかしながら、大切なのは、まず「形」です。教師がその人を認めている、という言動、つまり、「目に見えるもの」が必要なのです。心を変えさせるのは難しい。けれども、行動に出るのを抑えさせることはできるし、そういう人の言動を抑えさせる人を育成することはできるのです。
学校では、まず、「勉強する人」が認められます。ここは、日本語学校ですから、「日本語」の勉強をする人になります。特に、「初級」の場合、クラスの中に、「四級」合格者も、「イロハ」からの人も含まれてしまいます(母国で「四級合格」した者の中には時々危ういものをも、同伴して来る人がいます。悪い癖です。それをたたき直していくためにも、人によっては、もう一度やり直した方がいい場合もあるのです)。みんな、その人が初めはどのくらいのレベルだったのか、知っているのです。その時の自分のレベルより上か下かくらいのものなのですが。
それに、日本語学校では、就学生が半数ほどを占めていますから、勉強と共にアルバイトもある程度こなせなければなりません。これは、「頑張り」だけでもだめなのです。「人を見る力と適応力」が必要になってきます。まず、他者を認めることが出来なければ、(いろいろな国から来ている人たちの中で)、やっていけるものではありません。それができれば、多分、大学に行っても、大学院に行っても、また、外国人の多い会社へ入っても、日本人だけの会社へ行っても、うまくやっていけるようになるでしょう。きっと、いつも、どこかで、味方になってくれる人がいるでしょうから。
日々是好日