日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「忙しい、忙しい。学生がいいから、忙しい」

2009-07-09 07:55:41 | 職員室から
 今朝は雨模様、雨雲が切れた時を見計らい、自転車を飛ばしてきました。途中、朝と昼のお弁当を買いに、スーパーへ寄ったのですが、寄る間も雨が強くなるのではと、ハラハラ、ドキドキが続きます。先日、同じように家を飛び出し、スーパーへ寄り、そこを出た途端、ザアザア降りというのに出くわしてたということがありましたから、こういう日はおっかなびっくりなのです、スーパーへ寄るのも。

 一番いいのは、とにかく何でもいい、「飢えを充たす」ものを持っていることです。そうでないと、昼ご飯を食べた後、七時過ぎ、或いは八時まで、食べ物がない状態で過ごさなければならなくなります。といって、買いに出るかというと、途中で買いに行くくらいなら、当日の仕事を少しでもはやくやってしまった方がいいと考えてしまうのですから、ようがない。
 けれど、どうしてこんなに忙しいのでしょう。「上級」が終わるまでは、忙しいと言っても、せいぜい知れたものでしたのに。

 「家族持ち」であれば、忙しくとも、「仕事」とは違った時間が持てます。気分転換くらいは出来るでしょう。私も足が悪くなる前までは、東京近郊の山に(遠くても「大菩薩峠」くらいまででしたが)、友人と行って気分転換をはかることが出来ました。しかしながら、最近は、かつて一緒に山歩きしていた友人達も、故郷へ帰ったり、交通事故に遭ったりと、いろいろな事情で、共には行動できなくなりました。

 それもあるでしょう。結局、家でも一日中、仕事のことばかり考えるということになってしまいます。仕事から離れた生活が、限りなくゼロに近くなり、しかも実際に関係のあることを家でもしているのです。これでは精神的にも、肉体的にも持ちません。どうしてこうなってしまうのでしょうね。自分の中では、どうも、「予定が違う。計算が狂った」という声が、ひっきりなしに聞こえてきます。

 そういう時、勿論、何もかもが嫌になっている時ですが、「古人」と語ったり、「古人の思い」を共に抱くしか救いはなくなるのです。「万葉」期の人達か、或いは、「江戸天明」期の「狂歌」に描かれている世界とです。

 「万葉」期の作者達も、当然「俗世」に塗れていたことでしょう。ただ、彼らの「俗世」と、現代我々がいる、この「俗世」とは、全く趣を異にしています。その上、彼らの世界は、既に、時間に「ろ過」されて、「俗」の「ゾの字」の「点々」さえ見あたらなくなっています。そこには人の思いのうち、昇華された部分しか残っていないのです。そういう言葉や、哀しみに溢れた野山、あるいは、亡き人を象徴するかのような花々がちりばめられているだけなのです。

 「技巧は直ぐに古びてしまう」。この言葉を読んだのは、随分若い時のことでした。おそらくは著名な老作家が、ある、技巧に走りがちな若い流行作家に注意を促すために言った言葉だったのでしょう。当然「出典」はあるでしょうが。あまりに「真実」すぎる言葉ですから。この若い作家は、作家としては若すぎる頃に、有名になりすぎ、そして、その死に関しても、才能が枯渇したせいだとか、あまりいい噂は立っていなかったようです。

 私が、彼の煌めくような文章を読んだ時も、初めは「技巧」に引きずられました。そして、それと同時に、確かに「古さ」も感じたのです。流行遅れとでも言いましょうか、そんな感じなのです。彼は、長いとは言えない人生の後半には、繰り返し繰り返し、同じような作品を書いていました。よく言えば、「集大成」、悪く言えば、「マンネリ」だったのです。技巧家であっただけに、それが通用しなくなれば、自分が否定されているようにも感じたでしょう。

 ただ、怖ろしいことに、作家など芸術分野で成功し、「富」と「名声」を得ている人には、「コバンザメ」がくっつきます。作品にそれほど「誠実」に対していなくとも、それを発表する機会はあるでしょうし、それなりの好評(勿論、負の批評も浴びるでしょうが)ももらえるでしょう。

 こんなことを書きながら、頭の中では、「どうして、自分はこんなに忙しいのか」を考えています。毎日12時間以上学校にいて、しかも、日々の授業に追われています。先週は、(今週のために)それでも追いつけなくて、日曜日は、学校で朝から夕方まで準備していましたが、それでも、学校が始まれば、し残したことが目につきます。それで、また追われるというわけです。それを計算に入れなければ、今の一応公表されている仕事の時間で、充分に間に合うはずです。それなのに、朝から晩まで終われてしまう。

 こういう言い方をしていいかどうか判りませんが、私は、多少手を抜いても、ある程度のレベルの授業は出来ると思います。「初級」・「中級」・「上級」を問わず、或いは「それ以上」でも。手の抜き方は、「中学校」で「国語」の教師をしていた経験からも、「中国」で、多くの国の人達と「共に学び、或いは、遊んだ」という経験からも、また、中国の放送局に勤め、かなりのレベルの人を指導したことがあるということからも、またある種の情報を提供していく術も多少は知っているという経験からも、培われてきたわけで、盲目的に「手を抜く」というわけではありません。

 この三つを経験し、しかも、日本で「日本語」を現場で教えている者は、多分、私以外はいないでしょう。「非常勤」として、ただその時間に来て帰るというのではなく、「クラス」が荒れたら、それを軌道修正させて、まとまらせ、その上、日常の、普通の、経験がない若手がやっていることまでやっている者は。

 しかし、だから、忙しいというのではないのです。これだけだったら、8時半から5時までくらいの間にやってしまえます。学校事務関係の多くは、他の人がやっているのですから。「授業」や「クラス」に関して言えば、他の若い人ができない事でも、私が行けば、(経験で)それなりにやってしまいます。
 ただこれ(やれると言うこと)は、多分、教師として経験のない人や、経験はあっても、それ相応の訓練を受けていない人には、見えません。これは、どのような職業でも同じで、それが「見える人」と「見えない人」がいるのです。それが「見える人」は、その職業で伸びていくでしょうし、「見えない人」は、やめない限り、それなりに続けていく、それだけのことです。

 私が忙しいのは、今の「Aクラス」と「Bクラス」の学生達のせいなのです。「Aクラス」の学生達は、この7月で、ここに一年いたことになります。途中で、出入りはありましたが、彼らは、私が初めから持っていましたから、私のやり方にも慣れ、教科書だけではないものも既に充分に入れてきたつもりです。また、午後の自習時間には、新聞の切り抜きなども準備し、また休みには、見ておくべきDVDなども学校で見せてきましたから、きちんとそれをこなしてさえいれば、それなりの力の蓄えは出来ていると思います。

 けれども、この7月から、まだ「上級」が終わっていない「Bクラス」との合同で、三分の一を「ヒアリング」に、残りの時間で、「現代史(DVDと資料集を用いながら)」を教えることになったのです。この「Bクラス」には、それほど、切れる人はいませんが、とにかくまじめなのです。判りたい、知りたいというのが、ググッと前面に出て来るようなクラスなのです。

 けれども(「けれども」が続きますが)、まだ「中級」に毛が生えたようなレベルの学生に、しかも、彼らはミャンマーでも、エクアドルでも、また当然のことながら中国でも、こういう知識は授かっていません。時折、自分の国のことが出れば、知っていると言うレベルなのです。

 準備にも、日曜日、一日かかったのですが(しかも、出来たの二回分くらいです)、昨日一回やってみて、「これはやり直したほうがいい」とがっくり来てしまいました。また構成から立て直しです。かれらが、ただ見て終わるだけ、「へえ、知らなかった。でも見てよかった」で終われるような学生だったら、今までの、「適当にまじめな中国人学生主体」の時のように、「板書して、説明して、見せて」でもよかったでしょう。けれども、そうではないのです。言わずもがなですが、私も、学生の真摯さの度合いによって、授業の姿も構成も準備も変えていきます。

 ここへ来てから、ずっと日本語をまじめに勉強していなかったという人に、こういうものを見せて説明しても、多分徒労なのです(はっきり言わせてもらいますが)。ただ、日本で暮らしていく以上、知らないでは、すまされませんし、ここにいて私が関係していながら、知らないなどとも言わせたくない。というわけで、「『初級』以上には、行く可能性がゼロである」という学生達の集団でない限り、この「現代史」の授業は続けています。

 ただ、同じ教材(DVD)を使うのであっても、今までは、口頭でよかったし、そもそも、その説明も多くを言うわけにはいかなかったのです。説明を始めたら、まず、「一分」分で、「95分間」という私の持ち時間などなくなってしまったでしょうから。

 ところが、今度の「Bクラス」(「Aクラス」は言うまでもないのですが)は、もう目をキラキラさせながら見てくれるのです。用意したプリントも、資料集の、私が指示したページも、「Aクラス」の学生達に、遅れないように必死でついてこようとします。こうなると、私としても、「日本語のレベルが低いからしようがない。これは、そのレベルに合わせたところで理解していくしかない」と突き放すわけにはいかないのです。

 というわけで、日曜日一日分は無駄になってしまいました。

 「授業は生き物」なのです。そして、「クラスも生き物」なのです。教師と学生は互いに影響しながら、「クラス」を作り上げ、また「授業」を成立させていきます。学生の姿勢が判ったら、彼らのレベルや真摯さに合わせて、「授業」を作り直していくしかないではありませんか。

 う~ん。忙しい。この忙しさは、夏休みという、ある程度の時間が取れるまで続きそうです。南無三。

日々是好日
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