日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「迷子」。「言葉のゲーム(『からかい』の限度、 『して良いことと、悪いこと』)」。

2009-07-14 08:06:05 | 日本語の授業
 今日は、朝っぱらから、「迷子」さんで、必要以上に彷徨って?しまいました。実は、この日曜日に、友人と、街を少々自転車で走りまして、「うん、通勤時に、ご飯を買うのなら、この道の方が安全だ」と、思い定めたと思し召せ。で、今日、その道を走ってきたのです。

 ところが、一カ所、私が、どうしても、右に折れなければならない角っこで、犬を連れた御婦人連が、二三人、しかも、広がって、立ち話をしているのを、遠くから目撃したのです。それで、煩わしいことを避けて、その前の角で、右に折れたのです。

 それが、まずかったのです。それから、犬が尻尾を追いかけて、グルグル回りしている状態が続きました。その後、しばらく行ったところで、その先が行き止まりであるように見えたのです。それで、もう一度、折れてしまったのです、あろう事か、右に。今にして思えば、左に折れるべきであったのは、明白なことです。でも、やっちゃったんですよね、まずいことに。それからは、狭い四角の内をグルグル回っていたのです、しばらく。

 「どうもおかしい、様子が変だ」とは感じていましたから、内心、焦りました。こんなところで迷子になって、疲れ果て、その上、着くまでに一時間もかかったらどうしょう。などといろいろ思い悩んでしまうのです。こういう時の常として。けれども、いくつ目かの角を曲がった時に、「あれ、この花見たことある」ということで、ルート変更。

 実はこの時、駅の方に出たなら、道は判るけれども、海の方へいってしまったらどうしようと不安だったのです。だって、あっちの方は全く判りませんから。しかし、途中で、犬を連れた、例の二三人の内の一人、パラソルを差していた人を見かけ、その人に向かって突進。随分懐かしいような気がしました。「ああ、この人知っている」というような感じで。で、気がついたら、例の道に出ていました。

 本当に「僥倖」でありました。ほんの小さなことで、いつも不安を感じたり、ホッと幸せになったり、「方向音痴」の者は、精神的な刺激をいつも感じられて、ある意味では、老いによる「呆け」は、ないのかもしれません。既に、「呆け」ているのですから。

 「呆け」という言葉で、思い出したわけではありませんが、「Dクラス」には、「天然呆け」が、どうも二人いるようです。そのうちの一人には、一ヶ月ほど前に、その「呆け」様に、堪らなくなって、「呆けじゃあ」と喚いたことがあるのですが、昨日は、別の一人が、同じような「寝呆けた」ことを言うのです。それで、「あああ、もう一人『呆け』がいた。『呆け』見っけ」とやらかすと、「先輩呆け」が、キリリとした表情で、「二人じゃありません。三人です。『呆け先生』がいます」と言うではありませんか。

 どうも、寮で、先輩連から、いらざる知恵をつけられているようです。それにしても、よく来日後三ヶ月で、こういうことが言えるようになりました。

 これまでも、二人ほど、授業中、「苛める(からかう)」たびに、抵抗する学生がいました。けれども、そのうちの一人、ネパール人のR君は、来た時からヒアリングはかなりよかったし、中国人のLさんは、私が「覚えろ」と言ったことはすべて暗記するくらいの頑張り屋さんでしたから、直ぐに抵抗できるようになったのも、わかるのですが、ヒヤリングがかなり弱い、中国人の大卒で、しかも、(中国で)三ヶ月ほどしか(日本語を)勉強して来なかった人が、もう(言葉で)抵抗できるようになるなんて、ちょっと驚きました。

 苛めてやるものです、日本語が上手になるのですから。まあ「苛める」というよりも、言葉による「からかい」に近いのですけれども。

 人は誰でも、「やられっぱなし」というのは、嫌なものです。やられても、やり返すことができたら、清々して、気分もよくなります。「やられた」以上に、「やり返す」ことができたら、もっといい気分になれるでしょう。からかわれたら、からかい返す。苛められたら、苛め返す。勿論、それほど深刻な意味ではなく。

 これが、日本語を媒介として、なせるようになれば、大したものです。その上、そうやって、言葉による「遣り取り」を繰り返していくうちに、「日本語」的な思考法というのが、身につけばしめたものですし。

 言葉は「道具」でありますから、それを「己のもの」とするためには、「遊戯」が一番いいのです。けれども、学生は既に大人でありますから、それだけでもだめです。同時に、「理屈」も学んでいかなければなりません。「学ぶ」には、二重三重の構造が必要になります。それに、大人の行動範囲は、子供のそれよりも広いのです。

 学校では、教科書を使い、理解し、そして、練習するというのが一つ。冗談を言い合い、やられたり、やり返したりといった「言葉遊び」をしていくのが一つ。

 その他にも、アルバイトが決まれば、その場での「使用頻度」の高い言葉が、彼らの単語帳には書き足されていくでしょう。が、これは、時々チェックを入れるくらいで、学校では扱いませんから、ここには入れません。

 「いかに、『(日本語を)使わなければならない立場』に追い込むことができるか」というのは、ある程度学習させた後に、教師が考えておかなければならないことの一つです。ただその範囲が問題なのです。「ここまではいい。これより先は止めた方がいい」という勘が、教師には必要となるのです。その場の雰囲気や相手の表情などもみておかねばならないのは言うまでもありませんが。

 相手国の文化や習慣、それに個人差などを考慮に入れながら、「からかい」、相手に「(言葉で)反撃させるように仕向けていく」というのには、かなり高度な技が必要になります。言うまでもなく、その底には、必ず「信頼関係」が構築されていなければなりません。それがあるから、自由に、「からかい」、また「からかわれる」ことができるのです。

 それから、もう一つ、大切なことがあります。もし、その人(学生)が、「(教師に)からかわれる」ことによって、必要以上に教師に馴れ親しみ、「ここが学びの場所である」ということと、「相手は、教師である」という「前提」を崩す恐れがあるならば、こういうことはしない方がいいのです。「しない方がいい」というよりも、決して、してはいけません。

 「はい、授業」と、私(教師)が言った時には、すぐその体勢に入ることができる人でなければならないのです。誰にでも「からかって、(日本語を)上手にさせてやっていい」というわけではないのです。

 すでに、来日後、一年が過ぎた「Aクラス」にしてもそうです。休み時間に、言葉のやりとりで、大笑い、大騒ぎをしていても、私が「さあ、授業。教科書の90ページを開いて」と言った途端、直ぐに、皆は「授業モード」に転換することができるのです。
 もし、これができない学生が多くを占めているようでしたら、つまり、「自由時間」と「授業時間」の区別をつけることができない人が多かったとしたら、私はどうするでしょうか。

 多分、嫌々ながらも、こういう人たちに、「つけ込まれ」ないように、ポーカーフェースで、淡々と授業を進めていくという形をとらざるを得ないでしょう。他の人が持った「クラス」を、途中で受け継いだ時には、初め、このような形で、クラスを再構築する場合が多いのです。というのも、多くの場合、こういう「クラス」は、弛緩しきっているからです。

 ただ、教室に一人ぐらいそういう人がいても、大丈夫。私が言うまでもなく、他の学生から「非難の矢」がビシビシ飛んできますから。そういう人が混ぜっ返そうとしても、そうは問屋が卸しません。しかし、これも、昨日今日で、できることではありません。ただ、限度はあります。なんと言っても、「学校」ですから。情況で異なりはしますが、時間がかかった場合でも、一ヶ月以内で、これ(クラスの再構築)ができないと、もうそこは、「勉強できる所ではない」ということになってしまいます。

日々是好日
コメント
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