日本語学校からこんにちは ~水野外語学院~

千葉県市川市行徳にある日本語学校のブログです。日々の出来事、行事、感じたことなどを紹介しています。

「憂さ晴らし」。「授業の基本(的な心構え)」。

2009-07-10 07:46:19 | 日本語の授業
 「アジサイ(紫陽花)」という花は、梅雨のうちに色褪せ、老いていくものだったのですね。ふと気がつきました。何となく「アジサイ」は梅雨の間中、元気で華やいだ姿を見せてくれるものとばかり思っていたのです。

「アジサイの末一色となりにけり」  小林一茶

 辺りの「アジサイ」も、一色となり、既に力を失いつつあります。日が暮れてしまうと、空き地の草むらでは、「虫の音すだく」という有様です。

 本格的にな「夏」が始まったとも見えないのに、既に秋の気配が忍び込んでいるのでしょうか。

 最近、イライラしている時、思わず、
「東方朔(とうほうさく)は八千歳(はっせんざい)、三浦大介(みうらおおすけ)百六つ(ひゃくむっつ)」
とか、
「桃栗三年柿八年、柚の馬鹿野郎(ばかやろ)十八年」
とかを叫びたくなってしまいます。
 本当は、いつも、声なき声で叫んでいるのですが、実際に、大声で叫べたら、どんなに気持ちがいいでしょう。
 別に、これらの言葉に、特別な意味などないのですが、ただ大声で叫びたくなってしまうのです。

 それに、ムカッとした時には、
「うれたきや 醜(しこ)なる ホトトギス(癪に障る馬鹿なホトトギスめ)」
と呟きたくなるし…。

 さて、学校です。
 昨日は、久しぶりに「中級」に入ったばかりの「Cクラス」に行きました。行ったと言いましても、別に授業に入ったというわけではなく、5分ほど代わりを務めただけなのですが、このクラスには、(上のクラスから、「もう一回『中級』を勉強した方がいい」ということで)タイ人のT君も姿を見せていました。

 で、私は「頼む」表現で、「かえてくださいませんでしょうか」の「説明」と、「練習」をしたのですが、この表現の理解に、ある種の民族性を感じてしまいました。

 T君は、この「ヒアリング」の教科書を使ったことがあります。その時の記憶が深かったのか、あるいは、教科書にメモをしていたのか、それは定かではありませんが、私の説明に異を唱えたのです。

 この「ミニ会話」は、「学生」が「先生(大学)」に「時間の変更」を頼むという設定です。

 私は、こういう情況を頭に描くように言いました。
「この学生は、自分からお願いしたことなのに、その変更を申し出ている。これは非常に失礼なことである。学生もそれは重々判っている。しかしながら、どうしても、そうせざるを得ない事情がある。もう一つの方も、避けるわけにはいかないし、先生へのお願い事も実現させたい。」
「さあ、そう言う気持ちで」とばかりに、軽く流さないで、思いを込めて「言ってみたのです」

 すると、T君は、「悪いことだから、もっと遠慮して言わないといけない」と習ったと言うのです。で、T君の話を聞いていると、彼が、以前習った時の説明と、私の説明とはほぼ同じで、別に違いはない。ただ、どこに力点を入れて(彼が)捉えたかの差であったのですが、気持ちとしては、「(これは)違う」だったのでしょう。

 T君は、以前、説明を聞いた時に、タイ人式の「遠慮」に、さらに、「言いにくいこと」や「(日本人の)遠慮」という意味が、二重三重に重なって、この表現を捉えたようなのです。

 それで、私の「言いにくいが、どうしてもそれを実現させたい」ので、「遠慮しながらも、思いを込めて」やってみた「実演」が、少々不謹慎とまで行かなくても、それに近い形に見えたのでしょう。

 勿論、個人差はあります。が、この、同じ説明をしても、民族によって受け取り方が異なるという点は、私たちが、ややもすると、見逃してしまいがちなことでもあります。

 私も「ヒアリング」は、久しぶりでしたので、ウッカリしていました。それで、一人ずつ言わせて、チェックしようかなと思っていたのですが、用事が終わったと見えて、「授業の主」が戻ってきたので、退散(仮初めの5分間でした)。

 「そんなこんな」のわけで、特に「ヒアリング」においては、時間と条件の許す限り、設定と状況説明に加えて、「(教師による)実演」、そして、学生が実際にやっているところをチェックするということまでが、とても大切になってきます。

 民族によっては「遠慮」が何乗にも加算される場合がありますし、また「やってもらいたいという思い」が強くなりすぎる場合もあります。

 この学校には、一つのクラスに少なくとも、三つか四つの国から来た人や、いくつもの民族がいます。「各民族の習性」というと、少々大げさなのですが、「控えめな表現を重んじる」国から来た人たちと、「主張は遠慮せずに言った方がいい」が習いとなっている国から来た人たちとが、机を並べていることだってあり得るのです。皆が皆、こちらの指示や説明をその通りに聞いてくれるわけでもなく、これは「日本語のレベル」というよりも、「他民族の習慣に対する『理解力』」が問題になってくるところで、学生に要求するばかりではなく、教師の方でもそういう含みは常時心に携えておかねばならぬところなのです。

 最近は、主に「読解」や「一級後」の「知識・常識(開拓の)」授業に引きずられていましたから、すっかり「基本」を忘れてしまったのかもしれません。
 反省しきり。

日々是好日
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