やっとたどり着いた。
周りは木が茂り湿っぽく薄暗く見晴らしはよくない。
でも昔はもちろん木は茂ってなく見晴らしはよかっただろう。
木はほとんど針葉樹。
それも大きな木はなく何十年かの間に植えられたようだ。
せっかくの史跡なのにどうして景観を破壊したのだろうね。
標識も倒れていた。
すっかり落城の雰囲気だ。
そう、ここで赤松一族69人が自害し落城した。
小さな供養塔がわびしげに立っていた。
なぜこのような事件が起きたのだろう?
6代将軍足利義教はくじ引きで選ばれたために「籤引き将軍」といわれ、もともと権力基盤は弱かった。
ところが次第に権力を強化していった。
そして次々に敵対する勢力を駆逐し領地を没収した。
それは武家だけでなく公家にも容赦なく行い、比叡山とも対立してこれを屈服させた。
その結果比叡山の僧侶たちは根本中堂を焼き払って自殺した。
このように恐怖政治をしたので多くの人から憎まれた。
そして幕府の最長老格となっていた赤松満祐も次第に義教から疎まれるようになってきた。
そこで赤松の領地が没収されるという噂話が流れるようになった。
単なる噂話・・・でも赤松にとっては死活問題でそこまで追い詰められていた。
こうして嘉吉の乱が起きた。
将軍を自邸に招きそこで殺した。
そして自邸にこもって戦おうと思っていたところ他の将軍の家臣たちは慌てふためき誰も攻めてこない。
そこで赤松満祐は将軍の首をかざし京からこの城山城に引き上げて籠ったのだった。
この事件のことを思うともう一つの大きな事件のことが浮かんでくる。
そう、本能寺の変。
光秀も追いつめられていた。
領地を没収されるといううわさが流れた。
それは多分単なる噂、事実ではなかっただろう。
中国攻めの大事な時に没収されたら兵も出せない。
しかし光秀も追いつめられていた。
そこで裏切り。
赤松満祐のときと同じように・・・
足利義教はとても有能な人間だったと思う。
もし殺されなかったら、足利幕府はもっと続いただろう。
しかし信長と同じく高転びに転んだ。
人を追いつめてはいけない。
近世の城でなく中世の城のようにどこかに逃げ道を作っておかないといけない。
裏切った人間だけが悪いのか?
しかしそこまで追い詰めた人間も悪いのだ。
足利義教は信長と違い歴史的な評判は悪い。
では義教が戦国時代に生まれてきたらどうだろう?
きっとまったく違った評価をうけただろう。
もし足利義昭というわけのわからない人間の代わりに義教が将軍だったら信長との間に面白いドラマが展開しただろう。
・・・なんていろいろ考えながら、再度山頂まで戻り、そして下山したのだった。
下りはもちろん登りよりもずっと楽。
でも普通の靴で登ったので滑る!
危ないところはロープが張ってあったので何とか降りてきたけど、
やっぱり普通の靴ではなく、軽登山靴みたいな靴で登ったほうがいい。
というわけで単に近くの山に登っただけなのに、
それもたかだか450メートルくらいの山に登っただけなのに・・・
たいていの人は写真を何枚か載せるだけで1回で終わる程度の記事なのに・・・
それを7回も連載する。
まさに省エネブログ、ぐうたらブログ。
うんうん、こうでなくっちゃ!
一人で納得している。
一人だけ納得している。