goo blog サービス終了のお知らせ 

ぐうたら里山記

兵庫の西の端でただのほんと田舎暮らしをしています。ぐうたらです。のん兵衛です。

「人類の進化大辞典」

2019年10月03日 17時02分10秒 | 本の中から
「人類の進化大辞典」(河出書房新社)を読んだ。
宇宙、恐竜、人類の進化はとっても興味のあるテーマ。
そして年々化石の発掘やDNAなどの科学の進化により、人類の進化の知識もずいぶん変わってきた。
昔習ったのは人類の歴史は北京原人やジャワ原人などのエレクトスから始まった。
でもそれは現代人の直接の先祖ではないと習った。
「では、直接の先祖は誰?」
それには学校では答えることができなかった。
その後アウストラピテクスが発掘されて、これが原生人類の直接の先祖とされた。
でもその後さらに古い人類の化石が発掘されて、今ではサヘラントロプス・チャデンシスが最古の人類、約700万年前から600万年前のこと。
これをさらにさかのぼると人類とチンパンジーの共通の先祖が出現するのだけど、
まだよくわかっていないらしい。
こうして今の現代人が登場するまでに多くの人類が出現して消えていった。
彼らはいったい何のために現れたのだろう?
現生人類の引き立て役、選挙の泡沫候補みたいなものだったのだろうか?
いえいえそんなものではない。
彼らは十分に種族としての生を全うしてそして死んでいったのだ。
ネアンデルタール人は32万年以上も生きた。
エレクトスは180万年近くも生きた。
アウストラピテクスの種は250万年くらいも生きてきたのだ
現代人はまだわずか20万年くらいしか生息していない。
いったい現代人はせめてネアンデルタール人ほどにも生きることができるのだろうか?あと12万年も生存することができるのだろうか?
12万年と言うと生命が進化するにはわずかな時間だ。
それがエレクトスとなると、あと160万年生きねばならない。
それは到底無理。
この数千年の間に人類はあまりに進化しすぎた。
まるで死に急ぎしているように、自滅へのゴールへ向かってひたすら走り続けてきた。
ここでふと立ち止まって振り返ろう、想像しよう。
ヨーロッパでは現代人は15万年くらいもネアンデルタール人と一緒に暮らしていた。
アジアではなんと現代人は17万年くらいもエレクトスと一緒に暮らしていた。
ところが彼らは滅びた。
滅ぼしたのは現代人なのかもしれない。
でも彼らは現代人に比べて十分に生きた、その生を全うしたともいえる。
これから人類ははたして彼ら先住民族と同じように生をまっとうすることができるのだろうか?
とっても疑問だ。
でも生き延びるには・・・きっとその方法は2つ。
・地球温暖化なんて騒がれているけど、地球の生命が、それも何回も絶滅したのは氷河期だ。
温暖化なんてどうってことはない。
温暖化を飯の種にして稼ぎまくる卑しい人間たちのことは、放っておこう。
温暖化になると大気の水蒸気が増え、雨が降り、砂漠が潤い、シベリヤやグリーンランドが耕作地帯になり、日本はヤシの実やパパイヤやバナナを食べ、泡盛を呑みフラダンスを踊って暮らしたらいいだけの話だ。
問題なのは寒冷化。
地球が氷河期になることだ。
過去氷河期で生命は何度も絶滅垂涎まで追い込まれてきた。
そのために今のうちから氷河期の準備をしておこう。
遺伝子組み換え技術を使って、寒冷地に強い野菜やマンモスのように氷河でも生き残れる家畜を作っておこう。
それでも生き残れる人は僅かだろう。
そのためにも宇宙へ脱出する手段を考えておかねばならない。
ノアの箱舟のように、選ばれた人間。
種族保存のために選ばれた動物たちが脱出できるように、
そんな大きなノアの宇宙船を開発しておかねばならない。
そして地球は滅び人類は宇宙へ旅立つ。

・・・そんな未来の世界を夢見ながら、
今日も酔っぱらっているのでありました。
人類の未来を信じつつ、そんなこととはまったく関係なく、
今日も酔っぱらっているのでありました。

太平記

2019年09月18日 17時40分56秒 | 本の中から
太平記を読んでいる。
3冊目を読み終え、今最終の4冊目(31巻目)になる。
もう楠木正成・正行も新田義貞も赤松円心も北畠顕家もそして後醍醐天皇も大塔宮・護良親王も大塔宮を殺した足利尊氏の弟の足利直義も悪役・高師直もいない。
それなのに戦はだらだらと続いている。
戦記としてはこれでいいのかもしれないけど、戦記物語といしてはもはや蛇足。
「イーリアス」の10年も続くトロイア戦争を最後の49日間を詩にしたあの緊迫感とまったく違って、何とも締まらない。
後醍醐天皇の死で終わって、あとはその後の概略を書けばいいこと。
平家物語の2倍もある分量をせめて半分に減らしたら、もっとしまった軍記物語になっただろう。
それにイーリアスと違って人の顔が見えない。
歴史的には主役であるはずの足利尊氏の顔が見えない。
それだけじゃない、後醍醐天皇もそのほかの武将たちの顔も見えてこない。
人の掘り下げがまったく足りない。
これでは、軍記だったらわかるけど軍記物語としてなら魅力はない。
平家物語と比べると2流の軍記だと思わざるを得ない。

もっとも逆の言い方をしたら平家物語の次にすぐれた軍記なのかもしれない。
だって、まるで大河小説、ならぬ大河軍記、多くのエピソードにあふれている。
どうして大方の作家はこのエピソードを使わないのだろう?
正直この軍記未完成だと思う。
もっと遂行したらもっと魅力的な軍記物語ができたはず。
でもでも、逆にそれが魅力的なのかもしれない。

そう。
楠木正成や新田義貞ではなく足利側に組した武将たちがその後の歴史を動かしそれが応仁の乱や戦国時代に繋がる。
山名、赤松、細川・・・そして戦国時代に繋がる武田、上杉・・・
どうしてみんなもっとこの時代に注目しないのだろう?
日本の歴史は源平・戦国・幕末だけか?
そう、この軍記は魅力的な原石の集まり。
磨けばたくさんの宝石が出てくる。
そんな不満と充実感を覚えつつ、最終巻の4冊目を読むのでありますよ。

太平記

2019年08月24日 18時46分47秒 | 本の中から
来年の大河ドラマはまたまた戦国時代。
今度は明智光秀が主役とか。
いったい日本の歴史は戦国時代と幕末~明治維新、たまに源平、さらにたまぁ~に赤穂浪士・・・だけか?!
もううんざりだよ!
いったいどうして、戦国時代と同じような規模の騒乱があった太平記の時代を取り上げない?
大河ドラマそんなに真面目に見てないけど記憶に残ってる限り太平記が取り上げられたのは1度だけ。
大河ドラマだけじゃない。
日本文学全集などでもなぜか太平記がほとんど取り上げられてない。
日本の軍記文学の古典の代表というと平家物語と太平記。
その規模の大きさといい、内容の充実度といい、
平家物語と太平記は軍記文学の双璧ではないか?
ところが戦後どうして太平記を無視してきたか。
戦前戦意の高揚にさんざん利用されたということはあるだろうけど、
それとこれとは別。
平家物語の世界と同様に太平記の世界も評価すべきではないか?
日本国民の常識として戦国時代や源平の時代と同様に太平記の時代も知っておくべきではないのか?
日本史の授業で習う後醍醐天皇や足利尊氏だけでなく、
楠木正成や新田義貞や大塔宮・護良親王や赤松円心のことなど、どうして教えない?
楠木正成・・・って誰?まさなり?
その子の正行を・・・まさゆき?
青葉茂れる櫻井・・・戦前は誰でも知っていた楠木親子の別れの歌、
せめてその逸話くらいは知っておこうよ。
楠木正成は、くすのきまさしげ。
楠木正行は、くすのきまさつら。

実はね、今住んでるところは太平記ゆかりの土地。
隣の上郡町は赤松円心が支配してた土地。
家の近くに旧出雲街道が通っている、
ここを後醍醐天皇が通って隠岐に流されていった。

太平記の史観は後醍醐天皇や楠木正成の史観。
そのため足利尊氏や赤松円心の立場の史観が欠けている。
でも歴史の流れは足利尊氏や赤松円心史観で動いている。
そこで足利尊氏や赤松円心の立場での大河ドラマがあってもいい。
来年の大河ドラマはまたしても戦国時代、光秀が主役だとか。
またしても戦国時代?!
もう飽き飽きだよ。
そこで室町時代の足利義教と赤松満祐との.軋轢。
義教はくじ引きで選ばれて将軍になったという、その基盤はとっても弱かったものの、
次第にその基盤を強くして、恐怖将軍と畏れられる将軍になった。
この織田信長型の人間だった。
この義教と赤松満祐との.軋轢。
赤松氏は赤松円心の功績により当時の大大名だったけど義教に疎まれ領地を没収されるのではないかと言う危惧襲われ、とうとうとんでもない事件を引き起こした。
将軍を自邸に招いてそこで将軍を暗殺するという嘉吉の変を引き起こしたのだ。
その後赤松一族はこの町の城山城にこもり最後は一族全員自刃して赤松一族
は絶えたのだった。
この足利義教と赤松満祐の話は信長と光秀の話とだぶってくるように思える。
そこでありきたりの飽き飽きの戦国時代の話でなく室町時代の話を、赤松一族の盛衰の話を大河ドラマにしたらどうだろうか?

読書

2019年08月22日 18時23分50秒 | 本の中から
とっても蒸し暑い日だった。
こんな時は何にもする気がしない。
もっとも何にもする気がしないのはいつものことではあるけど・・・
晴耕雨読だけでなく暖耕暑読や暖耕寒読なんて言葉があってもよい。
というわけで今日も何にもしなかった。

趣味はいろいろあるけど、こんな日はせいぜい夜に読書をするくらいだ。
陶芸や竹細工なんてやっていられるかい!
クラシック音楽も聴く気になれない。
写真も面倒、炎天下に園芸なんてとうていする気になれない。
最後に残るのは酒と読書。
酒を呑むのは趣味と言うよりも日課、あるいは仕事。
自分の存在を自覚するためにも呑まないではいられない。
「われ思うゆえにわれあり」ではなく「われ酔うゆえにわれあり」だ。

そして最後に残るのは読書。
この趣味だけが最後まで残りそうだ。
晩の6時ころには晩酌をはじめて、ほろ酔い気分で食事をして、8時くらいにはもう眠る。
すると夜中1時か2時ころには目を覚ます。
それから朝まで長い長い、読書と転寝の時間が始まる。
ちょっと読んではまた眠り、またまた起きて読んではまた眠る。
本も一つの本ばかり読むのではなく、疲れたら別の本を読む。
というわけでたいてい数冊を同時に読んでいる。
今読んでいるのは、太平記、古今和歌集、滑稽本・傾城買四十八手、世界の名著見るだけノート・・・などなど、
ほかにも読みかけの本を何冊か枕元に置いてあって、気が向いたら読むことにしている。

古今和歌集は万葉集、新古今和歌集の中ではもっとも読みたくない本。
それで今まで読まないできた。
でも普通に考える和歌のイメージというとやっぱり古今集。
とっても魅力的な万葉集に対して技巧的な古今の和歌に芸術性よりも言葉の遊びを感じてしまう。
「貫之はへたな歌詠みにて候」なんて子規の真似して言いたくもなる。
ともあれ和歌と言うとやっぱり「古今集」、
少しずつ、ちびりちびり読んでいる。

滑稽本は江戸の庶民の読み物。遊郭の案内書という面もある。
しょせんたかだか庶民の読み物、本来ならすらすら読めるはずなのに、これがなかなか手間取っている。
洒落は時代と言葉に制約される。
洒落の言葉の意味を説明したのでは洒落にもならぬ。
当時の風俗、言葉、遊郭のしきたりなどいちいち注釈を読むのはなんとも煩わしい。
注をパスしても面白い、あるいは面白そうだなと言うことはわかるけど、
でもやっぱり物足りなさが付きまとう。
シェークスピアの喜劇もやたら洒落が多いけど、やっぱり洒落は2流の笑いだと思う。さすがにモリエールには洒落は少ない。
滑稽本、今まで4編を読み、今、5編目だけど面倒くさくなって中断している。

太平記については書きたいことがいっぱいあるので、次回にまわす。

国民文学

2019年06月04日 19時40分59秒 | 本の中から
ふと何気なく、指輪物語を読んでいる。
かねてから気になっていたのは「ハリー・ポッター」と「指輪物語」。
どちらもイギリスの作家の作品。
イギリスの小説というと、ついついフィールディングの「トム・ジョーンズ」のようなだらだらとした、長たらしい小説を想像してしまう。
でも、きっと「トム・ジョーンズ」はイギリスの国民小説なのだろう。
そして「指輪物語」も「ハリー・ポッター」イギリスの国民小説になるのだろう。
国民小説って何だろう?
国民の誰からも愛される小説、日ごろ小説を読まない人も、一押しで自慢できる小説。
国民性が色濃く反映している小説。
ディケンズの小説にもとっても国民色を感じる。

フランスではというと、デューマの「ダルタニアン物語」
あるいはユーゴーの「レ・ミゼラブル」かな?
きっと日頃あまり小説を読まない人でも、フランス人は誰でもみんな読んでるに違いない。
そして外国人にこれを読めと自慢して勧めるに違いない。
そんなのが国民小説。

スペインだと「ドン・キホーテ」。
きっとスペイン人だったら、みんな読んでるだろう・・・

ロシアではドストエフスキーではなくゴーゴリでもなくトルストイ。
トルストイの長編3編はきっと国民文学としてずっとロシア人の自慢ではないかと想像する。

日本は司馬遼太郎の「竜馬が行く」と吉川英治の「宮本武蔵」。
あるいはもううちょっと昔だったら滝沢馬琴の『椿説弓張月』や『南総里見八犬伝』。
「源氏物語」は国民文学とはなりえない。
いったい日本人で「源氏物語」を全部読んだ人がどれほどいる?

イタリア人はダンテの「神曲」をほとんどの人が全部は読んでいないらしい。
学校でその断片を教材として習うので、それだけでもううんざりして全編を読む気にならないらしい。

いったい国民文学とは何だろう?
それは国土に密着した土着性。
それと、切れの良さ。
そう、改めて国民文学の定義を考えると、土着性以外に切れの良さを感じてならない。
「竜馬が行く」も「宮本武蔵」も「ダルタニアン物語」も新聞に連載されていた。
ということは毎日小さい切りをつけないといけない。
一日分の終わりに翌日に期待を持たせないといけない。
そこが「だらだら」でなく「切り」になる。
日頃小説を読まない人も、「切り」がある方が都合がいい。
ちょっとトイレに行きたい、ちょっと休んで一杯飲みたい・・・
そんな時に切がある文章はとっても都合がいい。

ところで話は戻るけど、「ハリー・ポッター」と「指輪物語」。
どちらも書下ろし小説。
でも、「ハリー・ポッター」はとってもとっても切りがいい、
一方「指輪物語」はきりが悪く呑みに行くチャンスやトイレに行くチャンスをついつい逃してしまう。
そんな意味では、「ハリー・ポッター」の方が「指輪物語」よりも国民文学としては優れているかもしれない。
でもまぁ~文学的価値なんてそんなものはどうでもいい。
面白ければいい。
そして面白ければ、国民文学としての価値が出るし、
されにもっともっと面白ければそれが歴史に残る世界文学になるのだよ。
ハムレットやドン・キホーテのように。

ラ・ロシュフコー公爵傳説

2019年05月05日 18時25分42秒 | 本の中から
10連休も明日で終わる。
この間どこに出かけることもなく読書と野良仕事で過ごした。
大型連休は家の中でごろごろするに限る。
「ラ・ロシュフコー公爵傳説」(堀田善衛・著)を読んだ。
ラ・ロシュフコーは「箴言と考察(格言集)」1冊だけで世界文学史上に名前を出す、稀有なあるいは幸運な例だ。
というわけでロシュフコーについては「箴言と考察(格言集)」以外に何も知らなかった。
伝記を読んでみると、文学者ではなくほぼ生涯武人だった。
時代も30年戦争とフロンドの乱~戦に明け暮れた動乱の時代。
それでいて、同時代人にデカルト、パスカル、ラ・フォンテーヌ、ラファイエット夫人、コルネイユ、モリエール、ラシーヌ・・・1世代前にはモンテーニュ。
宰相リシュリューやマザランがいた時代、あの三銃士(ダルタニアン物語)の時代。
そして太陽王ルイ14世とベルサイユ宮殿ができる時代。
フランス史上でもとっても輝いた時代だった。

そこでラ・ロシュフコーは武人としておおいに活躍するのだけど、それはおいといて、「箴言と考察」の話。
高校時代この本を夢中になって読んだ。
格言集に魅かれる世代というものがあるものだ。
この本だけでなく、ビアスの「悪魔の辞典」とか芥川龍之介の「侏儒の言葉」とか夢中に読んだものだった。
そして今「ラ・ロシュフコー公爵傳説」を読み、この本の中には当然、「箴言と考察」数々の格言が引用されているけど、少しも魅かれなかった。
たしかに「格言」というものは一面の真実が含まれている。
でもそれはあくまで一面でしかない。
中身はそれを読む人によって変わってくる。
それは人を色眼鏡で見る、人にレッテルを張る行為にも似ている。
人にレッテルを張ってみる人はその人の一面しか見ていない、見方が浅いのだ。
人を見るには前からだけではだめで、後ろから斜めから・・・いろんな角度から見る必要がある。
そこで格言やレッテルだけでは言葉が足りない。
それ相当の字数が必要なのだ。






チボーケの人々

2019年05月02日 19時02分49秒 | 本の中から
「チボー家の人々」を読んだ。
「チボー家の人々」は中学生や高校生が読む本だとばかり思っていたので、
読む時期を逃し、気になりつつも、今まで読まないで来たのだった。
でもこのまま読まないで終わるのもなんか気残り。
そこで思いきって読むことにした。

読んでみると、それなりに楽しかったし、少なくとも中学生や高校生が読む本だとばかりは言えないと思った。
もちろんもうこれを読んでも今では熱中することも感激することもない。
でも高校時代にこれを読んでたらきっと感激してただろうなと思った。
ただ当時とは時代が違う。
今の中学生や高校生はこの本はきっと読んでいないだろう。
ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」なんかは今でも存在意義はある。
でもソ連の崩壊以後、ジャックの行動にどれほどの人が共感を得るだろうか?
コミンテルンや共産主義への幻想はもう終わったのだ。
今では負の記憶、負の遺産しか残っていない。

日本では戦争というと第二次世界大戦、そしてたま~に日露戦争。
日清戦争や第一次世界大戦はまず文学・映画・演劇で取り上げられることはない。
ところがヨーロッパでは第一次世界大戦だ。
この前読んだ「失われた時を求めて」も「チボー家の人々」も最終章は第一次世界大戦で終わる。
ヨーロッパの貴族たちもあの映画の「ベニスに死す」で象徴的に死んだように、
チボー家の人たちも、貴族ではなかっただろうけど、第一次世界大戦で終わる。

時代が平成から令和に移ったとき、
時の流れを感じている。
時の流れを傍観しながら・・・

失われた時を求めて~見出された時

2019年03月17日 18時11分07秒 | 本の中から
「失われた時を求めて」の最終巻、「見出された時」を読んでいる。
全7巻、とっても長い。
それにそんなに面白くもない。
全編ほぼ「私」の心理描写とフランスの社交界の描写。
退屈しながらもなにか魅かれて7巻目になった。
時代は日露戦争から第1次世界大戦の間。
きっとフランスの良き時代。
スタンダールやバルザック、ドーデ、ユーゴ、ゾラ・・・などフランスを代表するような作家たち
モネやルノアールなどの印象派の画家たち、
ボードレールやマラルメやヴェルレーヌなどの詩人たち、
ショパンや作曲家や多くの芸術家たちがいたころ・・・
そこにしばしば現れるのはジャパニスム。
第1巻に効果的に日本の水中花のエピソードが出てくるほか、
絵とか着物とか盆栽とか・・・ジャパニスムにあふれた社交界の様子が想像される。
古き良き時代のフランスの小説。
そんな時代を想像しながら読んでいる。

「桃尻語訳・枕草子」

2019年02月24日 08時12分57秒 | 本の中から
2~3日前、図書館に行ったら、今月亡くなった堺屋太一さんのコーナーがあり、隣に橋本治さんのコーナーもあって本が並べられていた。
そうかぁ~橋本治さんも亡くなってたのかぁ~
橋本治さんってなんか気になる作家ではあったけど、まあそのうち読もうと、1~2冊は読んだかもしれないけど、今までほとんどスルーしてきた。
それでかねてから読みたかった「桃尻語訳・枕草子」を借りてきて今読んでいる。
枕草子は平安時代のブログ。
今この手のブログを書いたからと言って、大して評判を呼ぶことはないだろうけど、平安時代に書いたということに意味がある。
原文の文語体で読むと何かしらそれらしく高尚に思えて来るけど、しょせん中身は30代の女性の書いたブログ。
それを現代の口語体で、それも女性言葉で読むとその中身がとっても生き生きと感じられる。
この中身にあった、しかもとっても忠実な名訳だと思う。
(注)も丁寧でわかりやすい。
かねてから思っている、女が輝くのは30代から、男が輝くのは50代から。
ブログで見る限り、
子育てから次第に解放される頃、
退職間際、そろそろこれからの生き方を考える頃、
自分を見つめなおすとき、ブログは輝いてくるように思う。
10代20代のおおかたのブログは実につまらない。
清少納言も30代。
少しは落ち着いてきたころ。
感性だけで書いた書きなぐりブログ。
それが昔も今もブログの魅力なのかもしれない。

失われた時を求めて・・・

2019年02月20日 19時59分12秒 | 本の中から
書くことは苦にならない。
書かないことも苦にならない。
でも気にはなる。

ふとブログをやめてもう2週間。
やっぱり書くことよりほかに、自分を記すものはない。
絵も音楽も陶芸も・・・そんな物何にもなりはしなかった。

プルーストの「失われた時を求めて」を読んでいる。
ちびりちびりと読んでいる。
19世紀のフランスの社交界のことなど何の興味もない。
「私」の心の中にも何の興味もない。
ただ「失われた時を求めて」の中に自分自身の失われた時を求めて、読んでいる。
この本の中で自分自身の「見出された時」を見つけることができるかどうか・・・
それを求めて読んでいる。

日本国紀

2019年02月03日 17時07分58秒 | 本の中から
「日本国紀」(百田尚樹・著)を読んだ。
もうずいぶん本は買ってない。
本を並べて喜ぶ趣味はとっくに無くした。
今ではもう邪魔なだけ。
蔵書の中で再読したい本はほとんどない。
本は墓場までは持っていけない。
本をいっぱい持ってると残された家族も邪魔だろう。
古本屋に行っても二束三文でたたかれガソリン代にもならないのだから。

でも久しぶりに、この本はとっても気になったので買った、読んだ。
焼酎2本買えるのになぁ~なんて思いながら。
読んでみると、江戸時代までは、いろいろ光るエピソードはあるものの、ほぼ知ってる内容。
中学生・高校生向けの日本通史という気がした。
これなら「逆説の日本史」(井沢元彦・著)の方がいいと思った。
もちろん紙数が全然違うので一緒に比較するのは酷というものだ。

ただ気になったのは邪馬台国。
著者は今では少数派となった九州説をとっている。
巻向遺跡や箸墓古墳、近畿圏でたくさん発掘されている三角縁神獣鏡・・・などを考えると、
邪馬台国は近畿にあったと考えるのが自然ではないだろうか?
同時代に九州で同様の遺跡や古墳があるだろうか?
昔から九州説はあったけど違和感を持ってきた。
それは九州説はしばしば「神話は嘘だ」という前提に立った説だと思えるからだ。
そんなに早くから大和王朝ができてるはずがないという前提に。

神話は改竄することはできるけど捏造することはできない。
もし今の政府がまったく違った神話を作って「これが本当の神話だ!」と言ったら、そんなもの信じるか?
誰がそんなもの信じるもんか。
飛鳥時代だってそれは同じ。
確かに当時の政権に都合よく改竄された箇所はあっただろう。
隋に対して唐に対して、日本は歴史のある国だと対外的にアピールする必要が、
とりわけ古事記でなく漢文で書かれた日本書紀にその意図があったはず。
そのために日本の建国を大幅に古くした。

でも、まあ魏志倭人伝の記述だけでは邪馬台国がどこにあったか、なんてわかるわけはない。
でも、まあ今までの発掘の状況では大和説が自然。
でも、まあ確定するまで時を待とう。
今後の発掘に期待しよう。
(箸墓古墳の発掘を早く認めろ!)

それからもう一つは豊臣秀吉の朝鮮征伐の話し。
「朝鮮征伐」という言葉はこの本では記されていない。
でも「倭寇」なん言葉が、日本を卑しめる言葉が今でも横行してるとき、
この「朝鮮征伐」という歴史用語だけを抹殺するのも理に合わぬ。
歴史用語は歴史用語としてそのまま使えばいいのだ。
この朝鮮征伐、文禄の役では日本は勝ったけど、そのあとの慶長の役では、李舜臣の活躍で苦戦したと歴史では習ったけど、実際は日本軍が圧倒してたという。
この記述、やっぱりなと思う。
当時の日本は宣教師が武力による征服をあきらめたほどの武装国家。
世界有数のあるいは世界最強の武装国家だった。
これでは朝鮮と明の連合軍が勝てるわけはない。
李舜臣が日本軍に勝ったのは護衛のない輸送船をただ一度襲っただけ。
それ以外まったく手出しができなかった。
亀甲船も全くのフィクションだったという。

それからもう一人の朝鮮の英雄、テロリストの安重根。
日本の朝鮮併合に反対してた伊藤博文を暗殺したテロリスト。
それを頓珍漢にも暗殺したテロリストが今では英雄?
ということはやっぱり朝鮮は日本に併合されたかったの?
まあ確かに日韓併合は朝鮮人が望んだことだったのだけど。

しかしねぇ~もっともっとましな英雄は朝鮮にはいないの?
護衛のない輸送船をただ一度襲っただけの英雄と、
併合に反対してた人を殺したテロリストと以外に?

ともあれこの本のメーンは明治以降。
それまでは単に導入部。
百田尚樹氏に対しては賛否あると思うけど、
とりわけ百田嫌いの人に、この本を、とりわけ明治以降を、ぜひ読んでほしい。
百田尚樹嫌いの人ほど読んでほしい。

失われた時を求めて~ソドムとゴモラ

2019年02月01日 18時00分51秒 | 本の中から
「失われた時を求めて」の3巻目「ゲルマント侯爵夫人」をどうにか読み終えて、
4巻目「ソドムとゴモラ」を借りてきた。
「ゲルマント侯爵夫人」の2部は実に延々とサロンの描写や会話が続く。
表面は愛想よく陰では悪口・・・こんなサロンの雰囲気が伝わってきて、うんざりしつつ読んだ。
たいていの人は「ゲルマント侯爵夫人」あたりで読むのをあきらめたのではないだろうか?
最初は10数人、図書館借りて読んだらしいこの町の読者も、
3巻目、4巻目になるとどうやら一人だけ!
そしてこの長い長い小説を、とってもテンポの遅い大河小説を、毎日毎日ちまちまと、毎日50~60ページうんざりしつつも読んでるのだけど、
でもなんか気になって、読み続けている。
そのうち面白いと思うかもしれない。
これから「私」はどうなっていくのか?
実におびただしい登場人物はこれからどう絡み合っていくのか?

7巻まであるので先は長いけど、他の本も併読しつつ、これからも気長に読んでいくだろう。


「手を洗いすぎてはいけない」

2019年01月25日 18時30分02秒 | 本の中から
「手を洗いすぎてはいけない」(藤田紘一郎・著)という本を読んだ。
うんうん、そうだ洗いすぎてはいけない!
手は流水で10秒も洗えばいいらしい。
特に汚れてるときは普通の石鹸で洗う。
薬用ハンドソープや薬用ボディーソープや薬用石鹸を使ってはいけない・・・らしい。

そもそも免疫力を高めるということは細菌と仲良く暮らすということだ。
体を環境を清潔にすればするほど免疫力は落ちて病気にかかりやすくなる。
病気に強くなる体を作るためには病気になったらいい。

かって日本では野菜の肥料に人糞を使っていた。
それでほとんどの日本人の腸には回虫がいた。
ところが戦後徹底的に寄生虫・回虫駆除をした。
また肥料も人糞を使わなくなった。
その結果結核や寄生虫の感染者は急激に減った。
すると今度は花粉症やアトピー性皮膚炎、喘息患者が急激に増えたという。

免疫力がおちてもいい。
風邪引いても構わない。
体を清潔に保つためなら。

いったい清潔にする目的は何なのだろう?
清潔は悪いことじゃない。
でも異常な潔癖症は行き過ぎ。
(日本人のマスク好き、これは世界では滑稽な風景らしい)
将来新種の細菌やウィルスが日本に上陸したら、
世界有数の清潔な国、免疫力が落ちた日本人に大きな被害をもたらすだろう。



失われた時を求めて

2019年01月17日 18時00分43秒 | 本の中から
「失われた時を求めて」の3巻目「ゲルマント侯爵夫人」を借りてきた。
一巻目は10数人借りた形跡があったけど、2巻目になるとなんと2人。
そして3巻目はとうとう一人。
この町の図書館ができて何十年経ったか知らないけど、
その間にこの本を借りた人は一人だけ!
これで2人目になる。
こうなると意地でも全巻読んでやるぞ!という気になる。
すると、たしか最後の2冊は誰も借りた気配がなかったので、
この町では前人未踏、完全読破!になるはず。
ここはみんな読まねば!

固定種と外来種

2019年01月15日 20時20分15秒 | 本の中から
人類は今まで多くの種を絶滅させた。
かって地球上にたくさん生息していた1トン以上もある大型哺乳類はもういない。
巨大鳥類も絶滅した。
かって地球上のどこにもいたライオンやサイやカバやハイエナなどの動物はもうアフリカにしか生息していない。
象もアフリカ以外はインド・東南アジアにしかいない。

こう考えると、地球の生物の種類は少なくなっている、生物相は貧しくなっていると思われがちだけど、
地球の歴史の中でも今は生物がとっても豊かな時代なのだ。
絶滅した生物に気を取られて新たに進化している生物にみんななかなか気づかない。
絶滅した種よりも新たに進化した生物のほうがずっと多いのだ。

そして固定種を守れ!とばかり外来種や雑種を排除しようとする。
そして固定種を固定化することが、固定種が滅びることになっている、ということがわかっていないのだ。

いったい、どうして、純血種は良くて雑種は悪いのか?
固定種は良くて外来種は悪いのか?

日本の野菜はほとんどすべてと言っていいくらい、外来種なのだ。
外来種がなかったら、日本の食卓は実に貧しい。
日本の自然だって、野原だって、外来種がなかったらとっても寂しいものになっただろう。
それなら外来種をことさらに目の敵にするのはやめるべきだ。

事実外来種によって固定種が絶滅することはないことはないけど、それはわずかなケースだ。
日本にも実にたくさんの園芸種の草花や野菜や果樹が入ってきた。
そのうちどれほどの種が野生化しただろう?
そしてそのうちどれほどの種が在来種を絶滅しただろうか?

庭から逃げ出して新たな世界に到達するのは10種のうちたかだか1種類。
そのうち野生化して完全に定着するのは10分の1。
さらにそのうち有害動物、有害植物とみなされるようになるのはそのまた10分の1。
つまり有害外来種として問題になるのはわずか1000分の1!というのだ。

一方外来種は固定種と交雑したら新しい環境に適応して進化し、
そのうち新たな新種を産む。
どうして今地球上で生物が豊かになったかというと、それもまた人間。
船、自動車、飛行機によって種の拡散のスピードが、昔なら何百年・何千年・何万年もかかっていたのに今では数日で拡散していく。
こうして進化のスピードが速くなっているのだ。
昔に比べると100倍のスピードで新種が生まれているという。

進化するのは良いことか悪いことか?
固定種を固定して考える人は進化は悪いことだと思っているのかもしれない。
しかし地球温暖化、それ以上に悪いことは地球寒冷化。
それに対応すべく種は進化し続けていかないといけない。
種の絶滅は悲しいことだけど、絶滅しないように努力すべきだけど、
進化を犠牲にしてはいけない。
固定種を守るために外来種を駆逐することは進化の芽を奪っていることなのだ。

では固定種はどうして守っていけばいいか?
それは固定種を囲うのでなくさらに条件のいい地域にあるいは他国にもっていく。
固定種を外来種にする、拡散する。
こうしてより強い、より進化した生物が生まれる。

遺伝子組み換えもとっても有効な方法だ。
温暖化についてはきっと今までの方法、メンデルの法則で暑さに対応できる品種を作れるだろう。
でも過去何度も多くの生物が絶滅した氷河期に対応できない。
そのためには遺伝子組み換えは必要なのだ。
今のうちにほんの僅かでも人類が生き残る道を作っておかないといけない。

かねてから思っていたことを、たまたま
「なぜわれわれは外来生物を受け入れる必要があるのか」(クリス・D・トマス著)を読んでうんうん、と、やっぱり!と、思ったのだった。