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ぐうたら里山記

兵庫の西の端でただのほんと田舎暮らしをしています。ぐうたらです。のん兵衛です。

「失われた時を求めて」

2019年01月02日 18時45分38秒 | 本の中から
プル-ストの「失われた時を求めて」を読んでいる。
毎日50ページをノルマに読んでいる。
これぞ大河小説!だとばかりいかにも大河の流れのようなこの本を、読んでいる。
10ページで書けそうな内容を50ページも100ページもかけて描写する。
読んでるとなんとも間が取れなくて、
ついつい自分自身の過去のことを、失われた過去を旅している。
そしてそれに気づいて、うむ、いかん!
そして再びプルーストの失われた時に戻る。

この長い長い時に浸りながら、まだまだプルーストの旅は続く。
でもまだ1巻め、2章のスワンの恋の途中。
先は長い。
プルーストとの旅は続く、これからも長い長い旅が続く。

「失われた時を求めて」

2018年12月26日 17時46分14秒 | 本の中から
昨日も今日も寒かった。
こんなに寒いと何にもする気がしない・・・よね。
ところが昨日は久しぶりに家で陶芸。
来年の干支、猪の小さな小さな置物を作陶した。
猪1頭、うりぼう3頭。
それからついでに植木鉢を1個。

今日は病院に行ったり図書館に行ったりと忙しく過ごした。
図書館はいつもは2週間だけど正月なので3週間借りれるとかで、たくさん借りてきた。

最近は読みたかったのにずっと読めなかった本や、
読まねば!と思いながらもずっと読まないできた古典などを読むようにしている。
読まないでこのまま死んだら、きっと後悔するだろう・・・
そんな本をなるべく読むようにしている。

それで、今日は「ハリー・ポッター」の続きで、同じファンタジー路線の「指輪物語」にするか、
それともずっと気になってた、プルーストの「失われた時を求めて」にするか、
さんざん迷った挙句プルーストにしたのだった。
まずは、とりあえず1巻と2巻を借りてきた。
(そのほかにもいろいろ借りたけど・・・)

いつもの町の図書館では後ろ表紙の裏に借りた日のスタンプを押すようになっている。
それで何人借りたかがわかる。
そこで1巻は12人。
1991年16版発行の本なので27年で借りた人は12人・・・しかいない。
ところが2巻になると2人だけ。
10人は読むのをやめてしまったらしい。
さらにこの二人はずっと読み続けたらしいけど、
読んだのはどうやら5巻まで。
全7巻のうち6巻と7巻はだれも読んだ気配がない。
かくも「失われた時を求めて」は読むのが難しい本らしい。

はてさて何巻まで読み終えるか・・・とっても興味を覚えて借りたのだった。

ハリー・ポッター

2018年12月22日 19時08分18秒 | 本の中から
「ハリー・ポッター」7巻・全11冊を読み終えた。
子供のころにこの本があったら、きっととっても感激しただろう。

小説を読んで感激するのは、きっと若い人の特権。
中学から高校にかけて「チボー家の人々」を読んだらきっとみんな感激しただろう。
高校で「戦争と平和」や「ジャンクリストフ」を読んだらきっとみんな感激しただろう。

高校時代は勉強もしないで小説を読みふけっていた。
もうちょうっと人並に勉強してたら、こんなしょうもない人生を歩んでなかったのに・・・
と思わないでもないけど、今では高校時代の3年間、とっても貴重な財産になった。

そこで「ハリー・ポッター」
小学生がこの長編小説を読み終えたら、きっとそれは貴重な財産になるだろう。
小説を読むことに喜びを覚えたら、
これからは現実の世界だけでなくもっともっと多くの世界があることを知るだろう。
今いる自分たちの世界よりももっともっと大きな世界があることに。

ハリー・ポッター

2018年12月05日 18時00分14秒 | 本の中から
ハリー・ポッター、相変わらず読んでいる。
「賢者の石」「秘密の部屋」「アズカバンの囚人」を読み終えて、
今4巻目・・・のはずが、うむ、なんかおかしい。
つじつまが合わぬ、とんでるような・・・
そこでやっと気づいた、4巻目を飛ばして5巻目の「不死鳥の騎士団」を読んでたことに。
図書館の棚に並んでる順番に読んでいったのになぁ~
背表紙に通し番号が振ってないので、気づかなかった。
5巻目の(上)を半分くらいも読んだ後、今日慌てて4巻目を借りに行った。
これで今借りてるのは4巻~6巻の上・下、計6冊。
貸出期間は2週間なので、さて読み切れるかなぁ~
もちろん延長したらいいのだけど、意外といつもこんなことには律儀で、貸出期間内に読み終えてきっちり返す。
延長することは最近はまずない。
他に2冊借りているので全部で8冊、そのうち1冊は読んだのであと7冊。
さて全部期間内に読み終えるかな?
これが手持ちの本だったらいつまでもだらだら、なかなか読み終えない。
これが図書館の本の利点でもある。
さあ、気合入れて読もうね。
面白いしね。

ルバイヤート(4)

2018年12月01日 17時31分38秒 | 本の中から
ルバイヤートの意訳はさらに続く。

理解するとはどういうことだろう?
それは自分の言葉で語ること。
引用は人の言葉で語ること。
それを吸収して自分の言葉で書き、話すことができた時、きっと初めて本当に理解したと言えるだろう。

というわけで意訳することは自分なりに理解すること。
借り物の言葉では何にも伝わらない。
自分の言葉で語ったとき、はじめてどう理解したかが人に伝わるし、自分の身になったのだと思う。

というわけで、黒柳恒男訳の原詩をさらに意訳した。
(最初のは意訳、次は原詩)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
昔の人も今いる人も
みな次々に去っていく
この世にとどまる人はなく
来ては去り、また来ては去る

 昔いた人も、今いる人も
 みな次々に跡を追っていく。
 この世の王国に永久に留まる人もなく、
 来ては去り、また来ては去る
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
日々の糧、ただそれだけで
減らしもしない、増やしもしない
あるものだけで満足しよう
ないものにも満足しよう

 日々の糧、神の定めたものだから、
 減らしも増やしもすることはできない。
 あるもので満足せねばならないし、
 ないものにも満足せねばならない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
運命(さだめ)のノートが手に入るなら
思いのままに書いてやろう
この世の悲しみはみな消して
歓びだけのノートにしよう

 運命(さだめ)の書(ふみ)が手に入るなら、
 思いのままに記してやろう。
 この世から一挙に悲しみ消してやり、
 大空に歓喜の頭をもたげよう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
まだまだ意訳したい詩はいろいろあるけど、
このままルバイヤートの詩の世界に浸って、
そのまま酔いつぶれて眠ったら・・・
永久に永久に眠ったら・・・
きっとそれこそ、
きっとそれこそ、
ルバイヤートを理解したといえるのだろうね。

ルバイヤート(3)

2018年11月29日 18時14分02秒 | 本の中から
ルバイヤートをさらに意訳してみた。
黒柳恒男訳の原詩を。
(最初のは意訳、次は原詩)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
酒を呑め
心の悲しみを打ち払え
素面が何の役に立つ
行く末案じて何になる

 酒飲めば、おのれを忘れさせ、
 心の敵も打ち取れよう。
 素面が何の役に立つ。
 行く末案じて悩むだけ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
いったいこの世に何をしに来たのか
去っても誰も気づくまい
いったいこの世で何の役に立ったのか
去っても誰も悲しむまい

 わしが来てこの世にどんな益もなかった
 去ったとて、その栄光ますことはない。
 わが耳はだれからも聞いたことがない、
 わしが来て去るのはなんのため。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
一滴の水が海に消え
一握の埃が土に消える
この世に何をしに来たのか
蠅が生まれて消えただけ

 一滴の水、大洋に注ぎ、
 一粒の土、大地に合す。
 お前がこの地に来て去るとてなんだ、
 一匹の蠅が現れて、消えるだけ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 (まだ続く)

ハリー・ポッター

2018年11月29日 09時34分08秒 | 本の中から
「ハリー・ポッター」を読んでいる。
ハリー・ポッターは10数年前だったか、「賢者の石」を映画で見ただけ。
面白かったけど、その後、本はもちろん、映画も見ていない。
それで本を読んでみようか、とは思ってても、なんか借りるのも照れ臭い。
いつも図書館の本箱の「ハリー・ポッター」をちらっと横目に通り過ぎる。
でもふと借りてみようかという気になった。
そしてとりあえず、最初の3冊をを、他に借りた2冊の下にそっと忍ばせて、さりげなくカウンターにだすと、
「ハリー・ポッター!」と係の人が声をだす。
(何も声に出すこともないのに・・・)
隣の係の人も「たまには息抜きにいいですね」
なんていう。
いつも実用書以外は地味な、人があまり借りない本ばかり借りてるので、意外だったのかもしれない。
こっそり借りようと思ってたのにな・・・

そして「ハリー・ポッター・賢者の石」を読み終え、今「秘密の部屋」を読んでる。
「賢者の石」は映画を見ただけに映画のシーンが思い出されそれはそれで楽しい。
「秘密の部屋」も面白い。

「ハリー・ポッター」シリーズは静山社というあまり聞いたことのない出版社からでている。
ところが、読んだ「賢者の石」(2001年8月刷、初版第1刷から1年半くらいで)はなんと245刷!
245刷!なんて聞いたことない。
この出版社物凄く儲かったのだろうなぁ~~
まして社長が翻訳者なのだから・・・

まあそんな余計な勘繰りは置いといて、まだまだ続編があるのでしばらく楽しめそうだ。

ルバイヤート(2)

2018年11月27日 17時39分01秒 | 本の中から
芭蕉の句の英訳をさらに日本語訳した詩を読んだことがある。
それは芭蕉の句とはまったく違う別の詩だった。
日本語訳のルバイヤートもきっとそうなのだろう。
外国の詩にはやっぱり言葉の壁を感じる。
せめてペルシャ語での朗読を聞きながら訳詩を読んだら、少しは原詩の雰囲気を感じることができるかもしれないけど、
そんなCD持ってない。
それでやっぱり想像の世界を広げるほかない。
そして日本の詩を勝手に変えるのは許されないだろうけど、
翻訳された詩を自分なりに、自分の言葉に置き換えて、原詩を想像するのはきっと許されるだろう。
それで黒柳恒男訳の詩をさらに自分なりにいくつか意訳してみた。
(最初のは意訳、次のは黒柳恒男訳の源詩)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
楽しもう青春の喜びを
つかの間の喜びを
若草に降りる露のよう
すぐにはかなく消えていく

 さあ、世の楽しみをすべて味わおう、
 歓喜(よろこび)の園は青春に飾られているが、
 若草におりる夜霧に似て、
 はかなく明け方消えてゆく。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
60過ぎたらあとはおまけ
おまけの人生、楽しく過ごそう
どこに行くにも酔わずに行くな
肩には瓢箪、手には杯

 人生を六十以上と思うなよ、
 どこへ行くにも酔わずに行くな。
 頭(こうべ)で酒杯が作られぬうちは、
 放すなよ、肩より酒壺、手より酒杯。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
去るのは少しも怖くない
きっとあの世は楽しかろう
どうせ借りもののこの命
いつでもさっさと返してやる

 わたしは去るのが怖くない。
 あの世はこの世より楽しかろう。
 わが命は神からの借りものだ、
 返すときがきたら、いさぎよく返そう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
役人よわれらは酔ってはいても正気だぞ。
われらが吸うのは葡萄の血
お前らが吸うのは人民の血
いったいどっちが吸血鬼か
 
 おお、法官よ、われらはお前たちより忙しい、
 酔ってはいても、おまえより正気だぞ。
 われらは葡萄の血、お前は人の血を吸う、
 いずれが吸血鬼か裁いてくれ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

(まだまだ、続く)

ルバイヤート

2018年11月26日 18時05分15秒 | 本の中から
ルバイヤートを読んだ。
古代ペルシャの詩人オマルハイヤームのルバイヤートを。
黒柳恒男訳のルバイヤートで。

ルバイヤートは愛読書だった。
昔々何度も何度も読んだ。
岩波文庫版、小川亮作訳のルバイヤートを。

そのうちのいくつかを歌にもした。
シューベルト真っ青の歌に。
でも作曲の才能はあるものの残念ながら楽譜に移す技術がない。
というわけで今でもこれらの(世紀の!)名曲はただこの頭の中にあるだけ・・・
(紹介できないのが残念です!)

まあそんなことはさておいて、ルバイヤートの話。
このまえ久々に読んだ。
黒柳恒男訳のルバイヤートを。
小川亮作訳とはずいぶん違う。
多分黒柳恒男訳の方が原作に忠実なのだろう。
小川亮作訳は珍しく韻を踏んでいて、読んでとっても心地よい。
黒柳恒男訳ではそんな心地よさはあまり感じられなかった。

 川の岸辺に生え出でたあの草の葉は
 美女の唇から芽を吹いた溜め息か。
 一茎の草でも蔑んで踏んではならぬ、
 そのかみの乙女の身から咲いた花。

これが黒柳恒男訳では次のようになっている。

 小川のほとりに生えた若草
 天女の唇から生えたよう。
 心なくその若草を踏みつけるな、
 それこそ美女の土から生えた若草。

この二つの訳詩を比べると、小川亮作訳の方がとっても心地よい。
原詩に忠実かどうか、そんなことはどうでもいい。
ただ原詩の心を伝えているかどうかが大切なのだ。
もう一詩をあげよう

 若き日の絵巻は早も閉じてしまった。
 命の春はいつのまにか暮れてしまった。
 青春いう命の季節は、いつ来て
 いつ去るともなしに、過ぎてしまった。

黒柳恒男訳では

 ああ、青春の書(ふみ)は閉じた、
 人生の愉しい春も過ぎてしまった。
 青春という歓びの鳥よ、
 ああ、いつ来て、いつ飛び去たったのか。

きっと黒柳恒男訳詩が原詩に忠実なのだろう。
でもそれがいい訳とは言えない。
いかに原詩の心を伝えるか・・・それを伝えることができたのがきっと名訳なのだろう。

昔は訳詩というと、きまって七五調だった。
あのハイネの名詩を七五調で読まされて、まったくうんざりさせられた!
少しもハイネの心が伝わってこないのだ。
でもハイネの詩はシューベルトやとりわえシューマンを通して、あの詩のすばらしさを感じることはできる。
でも万国共通語の歌を通して聞くことができなかったら、どうして他国の言語の詩を理解できるだろうか?

黒柳恒男訳詩を自分なりに意訳してみた。

(続く)

「シャクンタラ」

2018年11月23日 18時36分37秒 | 本の中から
歴史も文学も音楽もあまりに欧米中心じゃない?
世界はもっともっと広いのだよ。
それなのにみんな西洋人の目で、狭いで目で、世界を歴史を見ていない?
と、今、たまたま筑摩世界文学大系「インド・アラビア・ペルシャ集」を読んでてつくづく思った。

カーリダーサの「シャクンタラ」を読んだ。
とってもしっかりした戯曲で現在でも十分通用する。
事実今もよく上演されているらしい。
カーリダーサは4世紀から5世紀にかけて生きた人。
そのころこんな立派な戯曲を書いた。
これって時代を超越した天才だと思う。

そんな天才めったに現れない、でもたまに現れる。
音楽ではバッハやモーツアルトやベートーベンはもちろんのことそれよりも古いモンテベルディ。
モンテベルディのオペラは今でも上演されている。
ヘンデルのオペラがまず上演されることはないのとは大違い。
カーリダーサの劇が今でも演じられる。
カーリダーサは時代を超えた超天才だと思うのだよ。

さらにペルシャの「王書」の著者フェルドゥスイー。
今回は残念ながら部分訳でしか読めなかったけど、
これはホメロスの「イーリアス」に匹敵する作品、叙事詩。
しかも「イーリアス」よりもはるかに壮大だ。
フェルドゥスイーは紀元1000前後に生きた人。
きっとイーリアスも意識してたのだろうね。
そしてイーリアスよりもはるかに長い壮大な叙事詩を作った。
読んでてもイーリアスと同じくらい面白い。
近いうちに全編を読もうと思っている。

それからペルシャのオマルハイヤームの「ルバイヤート」
これは愛読者だったので昔何度も何度も読んだ。
「ルバイヤート」話は尽きないので次回に回そう。

ティモン

2018年11月12日 06時35分09秒 | 本の中から
人間嫌いには本人の意思に反してある種の滑稽さが付きまとう。
それでよく喜劇の題材になる。
モリエールの「人間嫌い」のアルセスト、
本人がまじめであればあるほど人を笑わせる。

ティモンは人間嫌いとして古代アテネで有名だった人。
そのため喜劇などいろんな作品に取り上げられている。
アリストファネス、メナンドロス、ルキアノス・・・
ティモンは俗福だったけど、それを気前よく使い、友人らにさんざんたかられた挙句すっかり破産してしまった。
すると友人たちは手のひらを返したよう、もう誰も相手にしてくれない。
そして金を借りに行くと冷たくあしらわれる。
それですっかり人間嫌いになってしまったという。

悲劇的な題材ではあるけど、日常的な悲劇的な世界なので逆に悲劇にはなりにくい。
ところでシェイクスピアも書いているという。
えっ、書いていたかな?
シェイクスピア全集を読んだのは大分昔なので思い出せなかった。
それは「アセンズのタイモン」という作品、それも悲劇で。
気になったので読み直してみた。
(本は大分処分したけど「シェイクスピア全集」はまだ大切に持っている)
読んでみて、正直言って駄作だ。
シェイクスピアはこの劇を一度も上演しなかったらしい。
矢張り悲劇にするには無理があるのだろう。

ところで同じシェイクスピアの悲劇「リア王」にも、またバルザックの「ゴリオ爺さん」にも悲喜劇的な要素が、あるいはある種の異常さが感じられる。
リア王は娘たちに財産のすべてをそしてもっとも親を大切にしてくれる子にたくさん残そうと思い、それぞれ娘たちに聞く。
そして思いっきり優しい言葉をかけてくれた姉2人に財産を分配し、そっけなく感じた末娘には怒って何も渡さなかった。
ところが財産をもらったとたん2人の姉はリア王に冷たく当たる。
末娘だけが相変わらず優しい。
読者はきっと悲劇を感じる前に、リア王ってバカだなぁ~、と思うだろう。

ゴリオ爺さんは俗福な商人。
そして自慢の一人娘を金にあかして貴族に嫁がせる。
それが父親、ゴリオ爺さんの自慢。
ところが貴族になった娘は商人の父を恥ずかしく思う。
娘に会えない父親は屋敷から馬車で出てくる娘を見るのを楽しみとする。
娘はちょっと会釈をするだけ。
こんな関係を維持するためだけに、娘の貴族としての体面を維持するために多額の金をつぎ込み最後はとうとう破産する。
こんな小説を読むとそこに悲劇というよりも人間としての異常さを感じる。
でもまあゴリオ爺さんはまれだろう。
でもリア王は今の日本にもたくさんいるに違いない。


エセー

2018年11月09日 16時17分17秒 | 本の中から
モンテーニュの「エセー」を読んだ。
昔読んだときは引用の多さにすっかりうんざりしたけど・・・
それは今度も昔ほどでなくても同じだったけど・・・
それでもモンテーニュの話の進め方に・・・
短い挿話をつなげて世間話風に話を続けていく・・・
そんな話の進め方に・・・
今では何かしら魅かれた。

各章に一応テーマはあるものの、必ずしもそれに忠実ではなく自由に話はすすむ。
ここらへんが昔はなじまなかった。
どうやら「エセー」は最初から最後まで続けて気合を入れて読む本ではなく。
枕もとにおいて、気ままに読む本らしい。

モンテーニュは30年近くもかけて「エセー」を書いているので、1巻から3巻にかけて文体はずいぶん変わっている。
第3巻は引用も少なく自分の言葉で語っている。
第3巻の1章の文章も他の巻に比べて長い。
第3巻がなかったら、きっと「エセー」はフランスの片田舎の教養ある人が書いた作品として、
フランス文学には残るかもしれないけど、世界文学に選ばれることはなかっただろう。

ともあれ「エセー」を読んだ。
そしてそのあとでもやっぱりモンテーニュはよくわからない。
きっと誰でもモンテーニュの人柄についてこんな風に思ってるだろう。
常識人、良識人、個人主義、中庸の人、自然主義者、市民。
このどれにも当てはまるようでどれにも当てはまらないような気がする。
一言でいえば自由人なのだ。

モンテーニュは領主、それも封建時代の領主、殿様なので「市民」という言葉は当てはまらないかもしれないけど、その立つ位置は「市民」を思わせる。
それも田舎で隠遁暮らしをする偏屈な人間ではなく、田舎暮らしを楽しむ都会の市民を思わせる。
もちろん100人くらいの使用人を使いブドウ園を経営する。
それは「田舎暮らし」ではなく「仕事」なのだけど、エセーにはあまり仕事を感じさせない。

モンテーニュは21歳で高等法院の裁判官になる。
37歳で裁判官の仕事を辞めて、自分の城で田舎暮らしを始め、39歳のころからエセーを書き始める。
途中選ばれて2期ボルドーの市長をちゃんと務めた。

モンテーニュは日本では織田信長の時代だった。
そして当時フランスでも激動の時代だった。
カトリックとプロテスタントの血みどろの戦いをしてた時代だった。
ある時などは敵が偽り「敵に襲われた、たすけてくれ!」とモンテーニュの城にやってきた。
それを許すと、今度は次々に兵士が合流してくる。
モンテーニュの城はあわや乗っ取られる寸前になった。
そんな危機をモンテーニュは乗り越えた。
そしてあっさりとかわす。
誠意をもって話したらみんな引き上げていった。
「きっと自分の顔が良かったのだろう」と。

またある時は、ヨーロッパ中ペストに襲われた。
モンテーニュも自分の城を放棄せずにはいられなくなって、一族郎党引き連れてあちこちさまよった。
ところがあれほどかってみんなを歓待して泊めてあげたのに誰も泊めようとはしない。
こんな立場に立たされて苦しい状況が、他の所では書いていないだけに、その悲惨さが伝わってくる。
でもそこでもモンテーニュはやっぱりモンテーニュ。
デフォーみたいに「ペスト」の悲惨な状況のルポルタージュの報告をしない。
デフォーのスタンスはジャーナリスト。
でもモンテーニュはジャーナリストではなくエッセイスト。
いつも自分の壁を通して向うを見ている。
戦乱の世も鴨長明みたいには見ない。
自分というオブラートをかけて世の中を見る。
どちらかというとモンテーニュは鴨長明よりも吉田兼好に近いだろう。

そしてこんな大変な時に、ほとんどの市長は1期だけだったのに2期も務めた。
その手腕は大したものだっただろうけど、もちろんエセーにはそんな自慢話は書かれていない。
エセーを読む限りモンテーニュは政治的な人間とはとうてい思えない。
モンテーニュの興味はいつもモンテーニュ。
エセーは自分のことばかり書いているから。

・・・なんて考えだしたらますますモンテーニュがわからない。
わからないながらもなんとか読み、何とか読み終えた。
そして思うのだ。
今の時代モンテーニュを読む価値があるの?読むなくてもいいんじゃない?
なんて、もしかしたらみんな思ってない?
いえいえそれどころか、それ以前の以前の問題、
モンテーニュって誰?聞いたことないなぁ~、知らなぁ~~~い!
なんて思うのではなく、でもやっぱり思う、やっぱり言いたい!

モンテーニュを読んでみたら?
時間がなかったら全部読む必要はないよ、
せめて第3巻だけでも・・・
そんな時間さえない人だったら、せめて第3巻の最後の章、13章だけでも・・・
するとふと思うに違いない。
人って何?
自分って何?
駆け足の人生の中で、ふと一息ついて、自分に返って、
そんなことを感じるのもいいことじゃない?

『日本国紀』

2018年10月25日 18時38分58秒 | 本の中から
来月12日に発売される百田尚樹著の‏『日本国紀』に予約殺到だとか。
Amazonランキング1位が10日も続くという異常事態らしい。
書店にも予約殺到だとか。
でもオールドメディアはそれを報じようともしない。
それがとても面白い。
しょせんオールドメディアはしょせんオールド。
自分たちが時代に取り残されているのを未だにわかっていないのだろう。
予約ランキングなんてそのまま記事にしたらいいだけのこと。
それを報道しない権利、などと訳の分からぬことを言って都合の悪いことは隠ぺいする、捏造する、扇動する。

昔はよく本を買った。
暇さえあれば本屋に行った。
でも再読することはほとんどない。
単に本箱にぎっしり並べてるだけ。
そのうち部屋を整理しょうと、思いっ切って数百冊古本屋に持ち込んだ。
すると・・・「1000円でどうしょう?」

えっ、全部で1000円?!
もはや価格交渉する気も失せ、もう2度とくるか!と思った。
昔乏しい小遣いで買い集めた本。
それが今では単なる紙屑。
その後IT革命を通して、もはや個人で情報をため込む時代ではないと悟った。
それで本を買うことはもうなくなった。
もっぱら図書館で済ませている。

でも‏『日本国紀』には興味がある。
予約はしないけど久しぶりに書店で買ってみようかと思っている。


エセー

2018年10月22日 17時03分10秒 | 本の中から
毎日夕方5時ころには風呂から上がり晩酌、そして夕食。
そして8時ころには寝るという、良い子過ぎる時間をおくっている。
そのため夜中に1時ころには目を覚まし、
本を読み、疲れたら転寝をして、起きてはまた本を読む。
一日のうちで一番充実した時を過ごす。

今読んでいるのはモンテーニュのエセー。
昔読んだ時は、引用の多さに、さらにその本では外国語の引用をカタカナで翻訳してたので、とっても読みにくくてうんざりした。

いったい引用って何だろう?
権威付け?
こんなに本を読んだんだぞという自慢?
引用って他人の思想の借り物ではないのか?
たとえ借りものであってもそれを消化したら自分の言葉で語るはず。
しょせん引用とは人の言葉の借りもの、それも未消化に書いた物ではないか?

昔はよく引用した文章を書いたけど、その後ほとんど自分の文章に引用はしない。
そして自分の言葉で書くようにしている。
それでその頃エセーは受け入れることができなかった。
それでほとんどなにも頭に残っていない。

でもいろんな本を読むとエセーの再読を進めている。
どうやらエセーは世界の名作、晩年になればなるほどその良さがわかる本らしい。
それでようやく再読する気になった。

引用の多さには相変わらずうんざりさせられるけど、昔ほどの抵抗感はない。
それにモンテーニュの引用してる本、昔、その時はほとんど読んでいなかった。
ホラティウス、プルターク、ウェルギリウス、ルクティウス、プラウトゥス、テレンティウス、オウディウス、プリニウス・・・
今ではなんとか読んだ。
もちろんそれぞれ一部の作品を読んだに過ぎないだろうけど、何とか引用についていけるようになった。

そこでエセーを再読している。
それで昔よりは面白く読んでいる。

ところでちょっと気になったのは山羊の話。
エセーの中に次のような話があった。

昔はフランスでも日本と同じ、
母乳が出なかったら山羊の乳をのませていたらしい。

 ある農家で母親の母乳が出なかったので、近所の農家から山羊を借りてきて赤ちゃんに飲ませた。
 すると山羊はどうやら自分の子供と思ったらしい。
 赤ちゃんが泣き出すとすぐにやってきて乳を飲ませた。
 でもそのうちそのヤギを持ち主に返した。
 そして代わりに他の山羊を連れてきた。
 ところが赤ちゃんは飲もうとしない。
 そしてとうとう餓死してしまった。

この話、かなり怪しい。
前半部分はあるいはそうかなぁ~と思える。
でも、後半部分は・・・?

なんせモンテーニュのこと、
こんな挿話がある。

 ある農家で子牛が生まれた。
 それがとっても可愛かったのでそこの娘さんが毎日抱いて歩いた。
 するとそれがすっかり習慣になって、その子牛が大きな牡牛になっても毎日抱いて歩いた。
 (習慣とは怖いものだ)

なんてこんな挿話をのせる、モンテーニュのこと。
きわめて怪しい。

半蔵門

2018年10月08日 18時34分48秒 | 本の中から
ある時ある朝、
皇居を歩いて1周したことがある。

皇居はどこも厳重、攻めることは不可能。
でも1っか所だけ無防備なところがあった
それが半蔵門。
他の門はみな橋で掛かっているのに、ここの門だけは土手。
門も小さく厳重ではない。

こんな門すぐに破れそうに思った。
でも「日本史の謎は地形で解ける」という本を読んで初めて分かった。
実は今では裏門みたいな雰囲気だけど、昔はこの門が正門だったのだ。
皇居の正門というとそれは誰でも思う、そう二重橋。
でも昔は違う。

メーンストリートに面したところが正門。
二重橋の先は当時は海しかなかった。
というわけで甲州街道に面した半蔵門が正門。
通りやすくするように橋でなく土手にした。
その代わり警備を厳重に、当時の警察や近親の大名や譜代大名の屋敷を配備した。

なるほどなるほど、納得。
今でもこの門を使うのは天皇陛下とか宮内庁の正式の使者とからしい。
門の前には今でも警視庁があるらしい。