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イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「禅とジブリ」読了

2021年03月24日 | 2021読書
鈴木敏夫 「禅とジブリ」読了

スタジオジブリのプロデューサーである鈴木敏夫が禅宗の僧侶の方々と対談集だ。
その対談を通して、ジブリ作品に込められた思いや生きるということなどについて語っている。

スタジオジブリの作品には確かに、“生きること”について考えさせられるものが多い、キャッチコピーがずばり、「生きろ!」なんていうものもあるくらいだ。
それが宮崎駿や高畑勲の意思なのか著者の意思なのかはわかないけれども、若いころから禅に興味をもっていた著者の思いも十分に入っていることには間違いはないだろう。
「生きろ!」というコピーは著者が考えたそうだ。

そんな著者がもっとも重要だと考えているのは、今を生きることの大切さである。これは道元の教えの中にも書かれているが、時間というのはその瞬間瞬間がスライスされたような状態で積み重なっているだけで、前後の関係があるようで実は独立をしている。だから今をきちんと生きるということが一番重要だと考えている。今をきちんと生きるといくことが重なって一つの人生になってゆくというのである。
禅の言葉では、「即今目前」、「茫筌」というような言葉で表現されている。
「即今目前」は文字のとおり、今、目の前にある時間だけを大切にしろという意味だ。「茫筌」は“ぼうせん”と読むそうだが、「筌」は魚を獲る道具のことで、魚を得たら、その道具のことは忘れろという意味だそうだ。
どちらも、どんなつらいこと、楽しいこともその日1日だと思えば耐えられるし、浮かれることはないというような解釈になる。
それを著者はこんな言葉で言っている。「過去も未来も、自分の力ではどうすることもできない。変えることができるのは“今”だけなのである。」
かといって、この世の中は生きづらいことが多すぎる。自分の思うようにならないことも多い。かといってなにもせずに漫然としているわけにはいかない。
だから、「この世は捨てたもんじゃないけれども、先のことを考えずに今のことをちゃんとやらねば。」ともいうのである。
なかなか耳が痛い言葉である。実は、今のことをきちんとやっていくということほど難しいことはない。
正岡子規は、「禅の悟りとはどんな場合でも平気で死ぬことだと思っていたがそれは間違いで、どんな場合でも平気で生きていることだとわかった」と言ったそうだが、平気で生きていくためには他人からとやかく言われないような術を考えなければならない。それがきちんと生きていくということのひとつだとすればそれがどれだけ難しいことかということがわかってくる。

そして、今を生きるということに繋がってくるのだろうけれども、「死を思うこと」の大切さということも語っている。対談者のひとり、臨済宗円覚寺派管長である横田南嶺老師は子供のころに同級生が亡くなったことに対して、大きな衝撃を受ける。そして、死に対する回答を求めたいと思うようになり、キリスト教や天理教の教会にも通ったそうだ。そして禅寺である老師の姿を見て、直感的に、これだ!と思ったそうだ。えらくませた子供であると思うけれども、だれでも人生のなかで一度はそんなことを思う時があるのではないだろうか。著者も若くして姉を亡くしたときのそんなことを思ったそうだ。
僕自身も20年ほど前によく一緒に釣りに行っていた上司が亡くなったときに人は絶対に死ぬんだ。そんなことを思った。それからは、とりあえずは自分がやりたいことは我慢せずにやっておこうと思うようになった。それは仕事や家族を守ることではなく、ただ、遊ぶことであったというのが下級市民の考えることで、著者は、生きていくことは人のために何かすることであると悟ったそうである。
しかし、遊ぶことを優先してしまうと他人からとやかく言われてしまう。そうなってくると平気で生きることも、今のことをきちんとやっていくこと(一般的に思われるようなきちんとした生き方)ができなくなる。堂々巡りだ・・。
そんなときは座禅でも組むとなにか悟れるようなことが思い浮かぶのだろうか?横田老師は、座禅をするだけで生きてゆけるのだから禅僧という生き方はなんともすばらしいと思ったそうだが、そんな境地までいこうと思ったら残りの人生の期間では間に合いそうにない。
道楽というのは、生業を楽しむというのが本来の意味だそうだが、そんな思いを持ったことがない。だからずっと何かにおびえながら生きていくしかないのかと、そんなことを考えるしかなかったのである。