多田満 「センス・オブ・ワンダーへのまなざし~レイチェル・カーソンの感性 」読了
「センス・オブ・ワンダー」という言葉はレイチェル・カーソンが提唱した、神秘さや不思議さに目を見はる感性が人が生きてゆくうえで絶対的に必要である。ということを表現したものであるけれども、この本はこの言葉をさらに掘り下げ、人は自然とのかかわりの中でどうあるべきか、そしてどう生きるべきかということを論じている。
第一儀の「センス・オブ・ワンダー」はカーソンが提唱したとおりであるが、それをさらに発展させて、内なる自分の感性への働きかけ、そして外部とのかかわりの中でのセンス・オブ・ワンダーまで発展させなければならないと言う。
この本の著者もやはり東日本大震災と原発事故に言及している。とくに原子力発電というおそらくは自然界の中においてまったく異質なもの、それは「沈黙の春」の中に出てくる化学合成された農薬や殺虫剤と同じであるけれども、そういうものに対して警戒感を抱く感性を持たなければならないと警鐘を鳴らす。人は原子力というような、「外部性」というような、生態圏に属するものの存在原理では決定不可能であるというようなものに不安や恐れをもたらさないわけにはいかないという。殺虫剤、遺伝子操作というものも同じような位置付けである。
そして人と人とのかかわりの中での生き方、そういうものにも言及している。
人は人とのかかわりがなければ生きてはいけない。これを、地球上でこれほどまでに繁栄した人類は、「物」も「心」も分かち合って他者への思いやりをはぐくんできた。それゆえ、われわれ一人ひとりの人格もまたその半分は他者なのである。という表現で表している。そこにはお互いを敬愛する心、そういうものが必要だと説いている。
しかしながら、この日本で、すべての場所でこのようなことが実践できるのか。エネルギーというものは人が快適に生きてゆこうと思えば思うほど必要な分量が増える。電気自動車が本格的に普及し始めたとき、世界中でどれだけの電気が必要になるのだろう。それを再生可能エネルギーでまかなうことができるのだろうか?ほとんどの人たちは総論は賛成だろうが、各論的には不便な生活を強いられたくないと思うのではないだろうか。
人とのかかわり、これも会社組織なんかに所属していると敬愛の心を持って、れわれ一人ひとりの人格もまたその半分は他者なのである。というような認識で生きるということがいかに難しいものかということを思い知らされる。家族でさえもどこまで信じていいのかが分からなくなっていうこの現状で・・。
多分、すでに社会という単位があまりにも大きくなりすぎて人がセンス・オブ・ワンダーという感性をのびのびと発揮できる広さを超えてしまっているのが原因だと思う。人が生きる範囲としてはグローバル=地球規模というのはあまりにも広すぎるのだ。
著者の目は大気圏、さらに宇宙までにも広がってゆくけれども、縦にはどれだけ高くなっても人のセンス・オブ・ワンダーは働き続けることができる。心の問題も自らの心の内それは宗教の部類にも入るのかも知れないけれどもどれだけ深くなってもやはり感性を働き続けることができる。しかし、横への広がりには限界がある。僕はよく、自虐的に半径10キロメートルで生きていると言っているけれども、実はその距離感と人間関係くらいまでしか自分らしく生きていける範囲はないのではないだろうかとつくづく思うのだ。
縄文以前の昔から、人々は自らが歩ける範囲の中で生活し、そこで何百年と暮らした後にその中の数人が(それは変人だったのかどうかは知らないが。)新天地を求めて旅立った。新しいものを手にいれるためには旅立ちというものが必要であるということはよく解るけれども、世の中のすべての人たちがそうしなければならないと方向付けられてしまうとセンス・オブ・ワンダーどころではなくなってしまう。
仕事のできないサラリーマンの言い訳でしかないのもよく解るけれども、まったく方向違いのことを言っているわけではないとも思っているのだ。
「センス・オブ・ワンダー」という言葉はレイチェル・カーソンが提唱した、神秘さや不思議さに目を見はる感性が人が生きてゆくうえで絶対的に必要である。ということを表現したものであるけれども、この本はこの言葉をさらに掘り下げ、人は自然とのかかわりの中でどうあるべきか、そしてどう生きるべきかということを論じている。
第一儀の「センス・オブ・ワンダー」はカーソンが提唱したとおりであるが、それをさらに発展させて、内なる自分の感性への働きかけ、そして外部とのかかわりの中でのセンス・オブ・ワンダーまで発展させなければならないと言う。
この本の著者もやはり東日本大震災と原発事故に言及している。とくに原子力発電というおそらくは自然界の中においてまったく異質なもの、それは「沈黙の春」の中に出てくる化学合成された農薬や殺虫剤と同じであるけれども、そういうものに対して警戒感を抱く感性を持たなければならないと警鐘を鳴らす。人は原子力というような、「外部性」というような、生態圏に属するものの存在原理では決定不可能であるというようなものに不安や恐れをもたらさないわけにはいかないという。殺虫剤、遺伝子操作というものも同じような位置付けである。
そして人と人とのかかわりの中での生き方、そういうものにも言及している。
人は人とのかかわりがなければ生きてはいけない。これを、地球上でこれほどまでに繁栄した人類は、「物」も「心」も分かち合って他者への思いやりをはぐくんできた。それゆえ、われわれ一人ひとりの人格もまたその半分は他者なのである。という表現で表している。そこにはお互いを敬愛する心、そういうものが必要だと説いている。
しかしながら、この日本で、すべての場所でこのようなことが実践できるのか。エネルギーというものは人が快適に生きてゆこうと思えば思うほど必要な分量が増える。電気自動車が本格的に普及し始めたとき、世界中でどれだけの電気が必要になるのだろう。それを再生可能エネルギーでまかなうことができるのだろうか?ほとんどの人たちは総論は賛成だろうが、各論的には不便な生活を強いられたくないと思うのではないだろうか。
人とのかかわり、これも会社組織なんかに所属していると敬愛の心を持って、れわれ一人ひとりの人格もまたその半分は他者なのである。というような認識で生きるということがいかに難しいものかということを思い知らされる。家族でさえもどこまで信じていいのかが分からなくなっていうこの現状で・・。
多分、すでに社会という単位があまりにも大きくなりすぎて人がセンス・オブ・ワンダーという感性をのびのびと発揮できる広さを超えてしまっているのが原因だと思う。人が生きる範囲としてはグローバル=地球規模というのはあまりにも広すぎるのだ。
著者の目は大気圏、さらに宇宙までにも広がってゆくけれども、縦にはどれだけ高くなっても人のセンス・オブ・ワンダーは働き続けることができる。心の問題も自らの心の内それは宗教の部類にも入るのかも知れないけれどもどれだけ深くなってもやはり感性を働き続けることができる。しかし、横への広がりには限界がある。僕はよく、自虐的に半径10キロメートルで生きていると言っているけれども、実はその距離感と人間関係くらいまでしか自分らしく生きていける範囲はないのではないだろうかとつくづく思うのだ。
縄文以前の昔から、人々は自らが歩ける範囲の中で生活し、そこで何百年と暮らした後にその中の数人が(それは変人だったのかどうかは知らないが。)新天地を求めて旅立った。新しいものを手にいれるためには旅立ちというものが必要であるということはよく解るけれども、世の中のすべての人たちがそうしなければならないと方向付けられてしまうとセンス・オブ・ワンダーどころではなくなってしまう。
仕事のできないサラリーマンの言い訳でしかないのもよく解るけれども、まったく方向違いのことを言っているわけではないとも思っているのだ。
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