イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「一歩を越える勇気」読了

2018年06月06日 | 2018読書
栗城史多 「一歩を越える勇気」読了

著者は無酸素単独登頂で世界の高峰に挑む登山家であった。先月、8度目のエベレスト登頂失敗の後、下山途中に遭難死した。凍傷で指を9本失うような無謀ともいえる登り方やベテランとは思えない技術、インターネットを使った生放送にこだわるなど批判的に語る人もいたそうだ。(凍傷になったのはインターネット中継のためにパソコンのキーボードを操作したためらしい。)
そういえばそんな人をテレビで見たことがあったなというのをこのニュースを見て知ったくらい記憶にはなかった。

この本は登山家がどうして山を目指すようになったのか、そしてなぜ山に登るのかを登山家自身が書いたものである。2009年、最初のエベレスト登山が失敗に終わるまでを書いている。

登山をするようになったきっかけはあまりにも他愛のないものであったけれども、それを確固たるものにしたのは、ひとつは著者の母親の死であったそうだ。
著者の母親は著者が高校生の頃に亡くなったそうだが、そのときの最後の言葉が「ありがとう」であったことから、自分もありがとうと言える人生を歩みたい。そしてもうひとつは自分の無謀とも思える行動に勇気をもって立ち向かう姿をみせることによって人々に元気を与えたいという気持ちからで、インターネットでの中継を試みるというのもその共感を高めるためであったということだ。
自身も書いているけれども、登山をするには体力も持久力も人並み外れているというほどではなかったそうだが、その熱意でスポンサーや仲間を動かしてここまできた。
最後は無謀な試みであったのかどうかは知らないけれども「ありがとう」とつぶやくことができたのだろうか・・。

「かつて仕事は自己実現であった。」そうだ、すくなくとも団塊の世代のひとたちまではそう考えていた。だから休日出勤、深夜までの残業をいとわず働き続けることができたのだととあるコラムに書かれていた。著者は単独無酸素で世界の高峰に登ることが自己実現であった。自己実現したいものがあるのは幸せで他人の批判をどこ吹く風とやり切れるのは幸せだ。
やり切ったという感慨、そういうのはどういうときに思うのだろうか。サラリーマンなら、やっぱり、この会社のここの部分は俺が作ったのだと思うのだろうか。しかし、それは目で見えるものなのだろうか?
ぼくにはそれがわからないのである。多分、物をつくる仕事であればこれだけ完成度の高いものを作り、それが顧客に支持されればそれが自己実現されたことになるのであろうが、それがない。
勤続30年で社業に貢献してくれましたと言われてもまったくピンと来ない。



今は通勤時間を含めて、睡眠時間を除くとおそらく人生の半分以上の時間を会社のためにささげているのであるので、そこで自己実現がなされないというのはひょっとしなくてもなんとも悲しいことではないのだろうかと思わせる1冊であった。
唯一の救いは、この本の出版社がサンマーク出版というちょっと胡散臭い出版社であるということだけであった・・。

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