酒井隆史 「ブルシット・ジョブの謎」読了
著者は、以前に読んだ、「ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論」の翻訳者のひとりだ。
社会学、社会思想が専門ということだが、この人独自のブルシット・ジョブに対する見解が展開されているのかと思っていたが、翻訳した本の解説書というような趣であった。それじゃあ別に読むほどのものではなかったのかもしれない、この本こそブルシットじゃないかと思ってしまったがとりあえずは読んでみた。
しかし、内容は現代社会を反映したデストピア論的な深刻な内容であった。
ブルシット・ジョブについておさらいをしてみると、ブルシット・ジョブとは、『被雇用人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でさえある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、被雇用者は、そうでないととりつくろわねばならないと感じている。』というものだ。主に管理部門の業務がそれに該当するという。
管理部門・・、確かに、直接的な生産をしていないという意味ではそう言えるし、ほとんど人の見る人のいない資料作りや仕事のための仕事(会議のための下打ち合わせ、アホな部下をおだてる。)など、自分でも何をやっているのかというものはたくさんあった。それでも、まあ、これをやらねば前に進まないというものでもあったと思う。それよりも、自分の属している業界自体がブルシットだったのだからどうしようもない。著者がいう、ブルシットではない仕事というのは、いわゆる、エッセンシャル・ワーカーと言われる人たちが担う仕事だ。その人たちがいないと世の中が回らないというようなもの、医療、運輸、教育、そういった分野だ。僕の居た、そして、今いる分野というのはそれとはまったくかけ離れている。それが無くなったとしてもだれもおそらく困らないだろう。困るとすればこの、魂も何もない物体にどうしたら感情移入ができるのか僕にとってはまったく理解ができない人たちだけだろう。
ブルシットな業界の子会社でブルシットな業務を遂行するためにブルシットな仕事をやっている僕はブルシットの3乗人間であるのだ。
しかし、ブルシット・ジョブをしている人たちとそうでない人たちの収入をみてみると、こうした仕事をやっている人は概して社会的な評価が高く、それなりの報酬をもらっている。それに対して、社会に意味のある仕事をやっている人、おそらくかれらがいなければこの世界は回っていかないか、あるいは多数の人にとって生きがいのない世界になってしまうような仕事をやっている人たちは、低い報酬や労働条件に苦しんでいて、しかもますます、かれらの労働条件は悪化している。という事実がある。それでもエッセンシャルな仕事をしている人々は、「社会へ貢献する」ためという、ある意味、矜持だけでそんな労働条件に耐えている。そして、その究極が女性の家事労働であり、それがジェンダー問題へとつながっているのだと著者はいう。
一方で、ブルシット・ジョブが生まれる原因を、著者は、「周期的激発性」がなくなった労働環境と、ネオリベラリズムにあるという。
周期的激発性とは、かつて、労働市場というものがなかったはるか昔、人間は生きるために必要なものを採取し、生産するとき以外は働くということはなかった。例えば、ちょっと極端だが、鮭が川を上ってくるときに一気に鮭を獲り、稲の穂が実る頃に一気に収穫をする。その時は激発的に働くがそれ以外の時には働かないという周期的な労働をおこなっていた。
狩猟採集民は獲物が来ないと寝ているし、農業でも農繫期と農閑期に分かれていたのである。
これが「周期的激発性」な労働と呼ばれ、そのような労働環境の時代は、最小の「労働」と最大の「余暇」の中で自由に生きられる豊かな社会であった。
それが、資本(豊かな自然といってもいいかもしれない)と労働が切り離されることによって、労働者は自分の時間を賃金と引き換えに売り渡すことになった。
だから、その時間は労働をしなければならない。たとえすることがなくても・・。ということになる。こういう発想は、じつは人間の歴史の中ではきわめてマイナーな、しかもごく最近生まれた常識であり、習慣でしかないのである。
それはおそらく、ヨーロッパで産業革命が起こった頃ということになるのだと思うが、だから、当初の労働争議というのは、労働時間を減らして余暇を獲得するというのが大きな争点であった。
しかし、労働者こそ価値の源泉であるという発想から、経営者こそが創造の源であり価値を生産するというそれまでの常識を転換させることに資本家が多大な努力を投入した結果、労働者はただの消費者となり、消費領域での「保障」や「自由」を求めるようになり、「自由時間の増大」は忘れられてゆく。これを「フォーディズム的妥協」という。生きるために働くことが働くために生きるということに変わってしまったのだ。
こうして、最小の「労働」と最大の「余暇」というものが資本主義社会の中で消えてゆくことになるのだが、それに拍車をかけたのが、ネオリベラリズムなのであると著者はいう。ネオリベラリズムとは、すべての社会活動(公共の福祉を含めて)を市場原理(=競争原理)に委ねてしまおうという考えだ。日本での郵政民営化や地下鉄の民営化などがその典型である。普通、競争原理が働くと無駄なものが一掃されるはずなのだが、競争原理が働くためにはすべてのものを計測可能にしなければならない。すなわち、すべての社会活動を貨幣価値に置き換える作業が必要になる。これはすなわち、管理部門の肥大につながり、ブルシット・ジョブの増大という結果をもたらしたというのである。ブルシット・ジョブは仕組まれた結果だというのである。
著者もちょっとラディカルなところがあるようで、自身が教授を務める大阪府立大学と大阪市立大学の統合問題に触れ、これを推し進めた大阪維新の会をこのネオリベラルの筆頭だと指摘している。大阪維新の会が大阪府と大阪市の行政を独占したときから、公務員はちょっと煙草を吸っているだけでサボっていると揶揄されたという。世間の目をも効率化という尺度に変えてしまったのだ。大学の統合についても、教育はエッセンシャルな部分であるのだから、効率という尺度で見てはいけないのだというのが実は著者がこの本で一番主張したかったのではないかと思えなくもないほどである。
その大学に通っていた身からすると、統合しようがしまいが何の感慨もないし、今はどうか知らないが、怠惰に過ごしている僕自身も含めた大学生しか通っていなかった大学は確かにブルシットだと維新の会に軍配を上げたくもなる。
そして、その打開策として、ベーシックインカムという考えが提案される。この辺は元本と同じである。
ベーシックインカムが導入されると、労働者は無意味で苦痛な労働を進んでやろうとはしなくなる。そうするとそこでの労働単価は高くなる。効率化が最優先の経営者はそういった仕事を積極的に自動化するよう努力する。そうすると必然的にブルシット・ジョブは消滅するというのだ。エッセンシャルワークはどうなるかというと、「社会へ貢献する」という人間本来の心情があるかぎり、たとえボランティアであってもそれを進んでやろうとする人たちは現れるし、イノベーションも同じである。今でも市井のなかでコツコツととんでもないイノベーションを目指している人たちが大勢いるのだというのだ。
その例として、「となりの人間国宝さん」を揚げているのが府立大の教授らしいといえば教授らしいが、そこにはあまり説得力ないような気がする。
それに、シェーカー教団くらいの規模なら、「相互にケアし健康で豊かで、不安や恐怖にさいなまされることのない、ストレスからも解放された生活」を送ることができるかもしれなが、それを国家単位で実現させることができるかどうかというのにも疑問が残る。
その大学の経済学部を卒業した僕から見ると、人間はそんなに勤勉でもないし、社会貢献を意識しているとは思えない。人間とは基本的に怠惰だ。生きることが保証されると人は何もしなくなってしまうのではないかと思うのだが、著者はその点については、すでに4割の労働者はブルシット・ジョブをやっているのだから、その分の労働者がいなくても世の中はちゃんと回るのだというのだ。さすが、単位ギリギリで卒業したポンコツ学生と本物の教授とでは視点に雲泥の差がある。しかも、それがコロナ禍のなかで実証されたではないかというのだ。確かに、飲み屋が休業していても、僕が適当に休んでいても世の中はパニックにはならなかった。
しかし、経済学部卒業生としてもうひとつ反論させてほしい。経済成長の根源は無駄な消費がなされることがひとつの前提としてあるはずだ。ベーシックインカムを主として生きてゆくというのは、最低限のライフラインで生きてゆくということに等しい。もちろん、そんな中にもささやかな幸せを見つけることができるというのは僕自身の体験からもわかることであるが、バブルの崩壊からこっち、無駄な消費の象徴である百貨店の売り上げが減少することに比例して日本の景気が落ち込んでいったのも事実だ。
だからそこにはブルシットでも仕方がないので空回りしながらでも経済成長を目指さねばならないと思うのだが、著者はそこにも、富と技術と知の蓄積されたこの時代では、現状を維持してゆくだけでも十分文化的で安全な生活が送れるはずだというのだ。う~ん、確かに言われてみればそのとおりだ。釣具もある程度の品質を超えればそれ以上の品質は必要ないということと同じかもしれない。
それに加えて、あらたなイノベーションはとなりの人間国宝さんが起こしてくれるので安心していればいいのかもしれない。
もう、窓際サラリーマンであるということが大きな理由なのだろうが、僕も最小の「労働」と最大の「余暇」のなかでサラリーマン生活を送っている。おそらく1日の3割はまともな業務をやっていない。ネットサーフィンをしているか、次の休日の天気を調べていたりする。
僕はブルシットな仕事はやる気がないという、この本でいうとまことにまっとうな生き方をしているのかもしれない。この職場にきてから、昔からやっていた定型的な仕事をかなり自動化してやったのでその分時間が余ってきたというのもあるが、そんなことをやっていると、前からここにいた人たちは自分の仕事を盗られたと思うようだ。表計算ソフトの使い方もわからないのでそれに参加できない。僕も、ここまで何も知らない人たちには教えることは不可能だと思っている。なんとか昔の方法に戻そうとやっきになって電卓をたたいたりもしているようだが、そんなことを見ていると、ブルシット・ジョブが生まれるというのは、わが社の場合、ネオリベラリズムなどというものではなく、単にパソコンを使いこなせないからという理由だけじゃないのかしらと思えてくるのだ。
著者は、以前に読んだ、「ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論」の翻訳者のひとりだ。
社会学、社会思想が専門ということだが、この人独自のブルシット・ジョブに対する見解が展開されているのかと思っていたが、翻訳した本の解説書というような趣であった。それじゃあ別に読むほどのものではなかったのかもしれない、この本こそブルシットじゃないかと思ってしまったがとりあえずは読んでみた。
しかし、内容は現代社会を反映したデストピア論的な深刻な内容であった。
ブルシット・ジョブについておさらいをしてみると、ブルシット・ジョブとは、『被雇用人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でさえある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、被雇用者は、そうでないととりつくろわねばならないと感じている。』というものだ。主に管理部門の業務がそれに該当するという。
管理部門・・、確かに、直接的な生産をしていないという意味ではそう言えるし、ほとんど人の見る人のいない資料作りや仕事のための仕事(会議のための下打ち合わせ、アホな部下をおだてる。)など、自分でも何をやっているのかというものはたくさんあった。それでも、まあ、これをやらねば前に進まないというものでもあったと思う。それよりも、自分の属している業界自体がブルシットだったのだからどうしようもない。著者がいう、ブルシットではない仕事というのは、いわゆる、エッセンシャル・ワーカーと言われる人たちが担う仕事だ。その人たちがいないと世の中が回らないというようなもの、医療、運輸、教育、そういった分野だ。僕の居た、そして、今いる分野というのはそれとはまったくかけ離れている。それが無くなったとしてもだれもおそらく困らないだろう。困るとすればこの、魂も何もない物体にどうしたら感情移入ができるのか僕にとってはまったく理解ができない人たちだけだろう。
ブルシットな業界の子会社でブルシットな業務を遂行するためにブルシットな仕事をやっている僕はブルシットの3乗人間であるのだ。
しかし、ブルシット・ジョブをしている人たちとそうでない人たちの収入をみてみると、こうした仕事をやっている人は概して社会的な評価が高く、それなりの報酬をもらっている。それに対して、社会に意味のある仕事をやっている人、おそらくかれらがいなければこの世界は回っていかないか、あるいは多数の人にとって生きがいのない世界になってしまうような仕事をやっている人たちは、低い報酬や労働条件に苦しんでいて、しかもますます、かれらの労働条件は悪化している。という事実がある。それでもエッセンシャルな仕事をしている人々は、「社会へ貢献する」ためという、ある意味、矜持だけでそんな労働条件に耐えている。そして、その究極が女性の家事労働であり、それがジェンダー問題へとつながっているのだと著者はいう。
一方で、ブルシット・ジョブが生まれる原因を、著者は、「周期的激発性」がなくなった労働環境と、ネオリベラリズムにあるという。
周期的激発性とは、かつて、労働市場というものがなかったはるか昔、人間は生きるために必要なものを採取し、生産するとき以外は働くということはなかった。例えば、ちょっと極端だが、鮭が川を上ってくるときに一気に鮭を獲り、稲の穂が実る頃に一気に収穫をする。その時は激発的に働くがそれ以外の時には働かないという周期的な労働をおこなっていた。
狩猟採集民は獲物が来ないと寝ているし、農業でも農繫期と農閑期に分かれていたのである。
これが「周期的激発性」な労働と呼ばれ、そのような労働環境の時代は、最小の「労働」と最大の「余暇」の中で自由に生きられる豊かな社会であった。
それが、資本(豊かな自然といってもいいかもしれない)と労働が切り離されることによって、労働者は自分の時間を賃金と引き換えに売り渡すことになった。
だから、その時間は労働をしなければならない。たとえすることがなくても・・。ということになる。こういう発想は、じつは人間の歴史の中ではきわめてマイナーな、しかもごく最近生まれた常識であり、習慣でしかないのである。
それはおそらく、ヨーロッパで産業革命が起こった頃ということになるのだと思うが、だから、当初の労働争議というのは、労働時間を減らして余暇を獲得するというのが大きな争点であった。
しかし、労働者こそ価値の源泉であるという発想から、経営者こそが創造の源であり価値を生産するというそれまでの常識を転換させることに資本家が多大な努力を投入した結果、労働者はただの消費者となり、消費領域での「保障」や「自由」を求めるようになり、「自由時間の増大」は忘れられてゆく。これを「フォーディズム的妥協」という。生きるために働くことが働くために生きるということに変わってしまったのだ。
こうして、最小の「労働」と最大の「余暇」というものが資本主義社会の中で消えてゆくことになるのだが、それに拍車をかけたのが、ネオリベラリズムなのであると著者はいう。ネオリベラリズムとは、すべての社会活動(公共の福祉を含めて)を市場原理(=競争原理)に委ねてしまおうという考えだ。日本での郵政民営化や地下鉄の民営化などがその典型である。普通、競争原理が働くと無駄なものが一掃されるはずなのだが、競争原理が働くためにはすべてのものを計測可能にしなければならない。すなわち、すべての社会活動を貨幣価値に置き換える作業が必要になる。これはすなわち、管理部門の肥大につながり、ブルシット・ジョブの増大という結果をもたらしたというのである。ブルシット・ジョブは仕組まれた結果だというのである。
著者もちょっとラディカルなところがあるようで、自身が教授を務める大阪府立大学と大阪市立大学の統合問題に触れ、これを推し進めた大阪維新の会をこのネオリベラルの筆頭だと指摘している。大阪維新の会が大阪府と大阪市の行政を独占したときから、公務員はちょっと煙草を吸っているだけでサボっていると揶揄されたという。世間の目をも効率化という尺度に変えてしまったのだ。大学の統合についても、教育はエッセンシャルな部分であるのだから、効率という尺度で見てはいけないのだというのが実は著者がこの本で一番主張したかったのではないかと思えなくもないほどである。
その大学に通っていた身からすると、統合しようがしまいが何の感慨もないし、今はどうか知らないが、怠惰に過ごしている僕自身も含めた大学生しか通っていなかった大学は確かにブルシットだと維新の会に軍配を上げたくもなる。
そして、その打開策として、ベーシックインカムという考えが提案される。この辺は元本と同じである。
ベーシックインカムが導入されると、労働者は無意味で苦痛な労働を進んでやろうとはしなくなる。そうするとそこでの労働単価は高くなる。効率化が最優先の経営者はそういった仕事を積極的に自動化するよう努力する。そうすると必然的にブルシット・ジョブは消滅するというのだ。エッセンシャルワークはどうなるかというと、「社会へ貢献する」という人間本来の心情があるかぎり、たとえボランティアであってもそれを進んでやろうとする人たちは現れるし、イノベーションも同じである。今でも市井のなかでコツコツととんでもないイノベーションを目指している人たちが大勢いるのだというのだ。
その例として、「となりの人間国宝さん」を揚げているのが府立大の教授らしいといえば教授らしいが、そこにはあまり説得力ないような気がする。
それに、シェーカー教団くらいの規模なら、「相互にケアし健康で豊かで、不安や恐怖にさいなまされることのない、ストレスからも解放された生活」を送ることができるかもしれなが、それを国家単位で実現させることができるかどうかというのにも疑問が残る。
その大学の経済学部を卒業した僕から見ると、人間はそんなに勤勉でもないし、社会貢献を意識しているとは思えない。人間とは基本的に怠惰だ。生きることが保証されると人は何もしなくなってしまうのではないかと思うのだが、著者はその点については、すでに4割の労働者はブルシット・ジョブをやっているのだから、その分の労働者がいなくても世の中はちゃんと回るのだというのだ。さすが、単位ギリギリで卒業したポンコツ学生と本物の教授とでは視点に雲泥の差がある。しかも、それがコロナ禍のなかで実証されたではないかというのだ。確かに、飲み屋が休業していても、僕が適当に休んでいても世の中はパニックにはならなかった。
しかし、経済学部卒業生としてもうひとつ反論させてほしい。経済成長の根源は無駄な消費がなされることがひとつの前提としてあるはずだ。ベーシックインカムを主として生きてゆくというのは、最低限のライフラインで生きてゆくということに等しい。もちろん、そんな中にもささやかな幸せを見つけることができるというのは僕自身の体験からもわかることであるが、バブルの崩壊からこっち、無駄な消費の象徴である百貨店の売り上げが減少することに比例して日本の景気が落ち込んでいったのも事実だ。
だからそこにはブルシットでも仕方がないので空回りしながらでも経済成長を目指さねばならないと思うのだが、著者はそこにも、富と技術と知の蓄積されたこの時代では、現状を維持してゆくだけでも十分文化的で安全な生活が送れるはずだというのだ。う~ん、確かに言われてみればそのとおりだ。釣具もある程度の品質を超えればそれ以上の品質は必要ないということと同じかもしれない。
それに加えて、あらたなイノベーションはとなりの人間国宝さんが起こしてくれるので安心していればいいのかもしれない。
もう、窓際サラリーマンであるということが大きな理由なのだろうが、僕も最小の「労働」と最大の「余暇」のなかでサラリーマン生活を送っている。おそらく1日の3割はまともな業務をやっていない。ネットサーフィンをしているか、次の休日の天気を調べていたりする。
僕はブルシットな仕事はやる気がないという、この本でいうとまことにまっとうな生き方をしているのかもしれない。この職場にきてから、昔からやっていた定型的な仕事をかなり自動化してやったのでその分時間が余ってきたというのもあるが、そんなことをやっていると、前からここにいた人たちは自分の仕事を盗られたと思うようだ。表計算ソフトの使い方もわからないのでそれに参加できない。僕も、ここまで何も知らない人たちには教えることは不可能だと思っている。なんとか昔の方法に戻そうとやっきになって電卓をたたいたりもしているようだが、そんなことを見ていると、ブルシット・ジョブが生まれるというのは、わが社の場合、ネオリベラリズムなどというものではなく、単にパソコンを使いこなせないからという理由だけじゃないのかしらと思えてくるのだ。
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