稲垣栄洋 「古池に飛びこんだのはなにガエル?短歌と俳句に暮らす生き物の不思」読了
著者の本を読むのは4冊目だ。この本もたまたま書架で目にして面白そうなタイトルだと思って借りてみたらこの人の本であった。
農学博士、雑草学者という肩書のほか、コスモス短歌会会員という肩書も持つらしい。40歳を過ぎてから短歌を始めたそうである。ひとつに秀でたひとは何でもできるようだ。そして、なんと僕よりも4歳も若い。
この本は短歌や俳句に登場する生物は具体的にはなんという名前の生物だったのか、また、その歌や句の作者はその生物のどんな特徴を捉えてその作品をものしたのか。元々短歌や俳句というのは自然の情景を織り込んだものが多いというかほとんどがそうなのだか作者たちが捉えた情景を著者はさらに生物学の視点から掘り進んでゆく。蘊蓄の塊であり、そんなことがあったのかと感心させられる。
この先は取り挙げられた歌や句とそこに登場する生物の蘊蓄を箇条書きにして記録しておきたいと思う。
「初蝶や 菜の花なくて 淋しかろう」 夏目漱石
この句の「初蝶」はモンシロチョウだ。モンシロチョウは菜の花の周りをよく飛んでいるが花の蜜を吸うためではない。卵を産むためだけに飛んでいるのである。モンシロチョウの幼虫はアブラナ科の植物の葉しか食べることができない。アブラナ科の植物はシニグリンというカラシ油成分を防御物質として蓄えているがモンシロチョウの幼虫はこれを無毒化することができる。しかし、他の植物が持つ防御物質は無毒化できない。たくさんの防御物質に対応しようというのは非効率的だから無理にそういうことをしないのである。
そして、モンシロチョウもこの物質を足の先端で探知して幼虫に食べさせられる植物かどうかを確認しているらしい。
そして、モンシロチョウは一ヶ所にひとつしか卵を産まないそうだ。だからかなり広範に飛び回っているのである。
白菜やレタス、キャベツ、大根、カリフラワー、ブロッコリーは似ても似つかない植物だがすべてアブラナ科の植物だ。これらの植物の花は全部同じ形をしていて、菜の花にそっくりである。多分、根菜以外の野菜というのはほぼすべてアブラナ科の植物なのじゃないかと思ってしまうほどだ。
これはこの本の蘊蓄ではなく、僕が叔父さんの畑の中で知ったネタである。
ちなみにモンキチョウの幼虫はマメ科の植物の葉しか食べないそうである。
その他、蝶の鱗粉を取ってしまうと羽は透明だそうだ。トンボやハチと同じなのである。不思議なことにこの鱗粉を取ってしまうとうまく飛べなくなってしまうらしい。
「花びらの 垂れて静かや 花菖蒲」 高浜虚子
ハチを呼び寄せたい植物は紫色をしていることが多い。ハチは飛ぶ力が強いのでたくさんの花を回ることができるので花粉をたくさんの花に届けることができる。しかもハチは同じ種類の花を回ることができる。ハチミツにはレンゲやアカシアというような植物の種類ごとの商品があるのはこの性質があるからだ。
花のほうもハチに花粉を運んでもらうためにたっぷりの蜜を用意していて、しかもハチにだけ蜜を与える工夫をしている。
花菖蒲もそんな花の構造をしている。下に垂れ下がった花びらには黄色い模様がある。この模様はガイドマークと呼ばれハチに蜜のありかを示すサインとなっている。ハチはこのガイドマークを目指して下の花びらに着陸する。ガイドマークに従ってハチが下の花びらと上の花びらの間を中へともぐりこんでいくとその奥に蜜が隠されている。その通り道には雌しべと雄しべが配置されているのである。
ハチの立場に立ってみれば、複雑な構造を解いて密にありついたのだから同じ構造の花に行くと間違いなく蜜にありつける。別の花だとまた最初から花の構造を解かねばならないので非効率という訳なのである。
「パンジーの 畑蝶を呼び 人を呼ぶ」 松本たかし
パンジーはいろいろな花の色の品種があるが、原種であるワイルドパンジーは紫いろと黄色と白色の花びらが混ざっている。パンジーも花菖蒲と同じように複雑な構造をしていて、ハチだけを呼び寄せる構造をしている。
パンジーの上の花びらは紫色をしていて「旗弁」と呼ばれ、遠くの昆虫に花の存在をアピールする。下の花びらにはガイドマークの模様があり横の花びらは潜ってゆく昆虫をガードする役割をしているそうだ。蜜を奥深くに隠すために「距」というツボ状の筒が後ろに張り出している。茎は花の中心に付いていてやじろべえのようにバランスを保っている。
しかし、蝶はこの構造を無視して長いストローのような口で蜜だけを吸う。花の中には入っていかないので花粉も運ばない。蝶というのはほとんどの花にとって泥棒のようなものらしい。
「萱草の 一輪咲きぬ 草の中」 夏目漱石
蜜泥棒の蝶を利用して花粉を運ばせているのが萱草(カンゾウ)だ。蝶は長いストローで雄しべを通り越して蜜を吸うが、萱草は平たく大きく開いた花に雄しべと雌しべを長く伸ばしている。萱草の花に止まろうとした蝶はどうしても体に花粉を付けてしまう。
蝶は飛翔力が高く、広範囲に花粉を運ぶ。だから萱草はポツンと1輪だけ咲いていることができるのである。
萱草というと僕の中では山菜のイメージしかないが花の季節にはオレンジ色の花を咲かせる。赤に近いオレンジ色は波長が長いので遠くからでも目立つ。蝶を呼び寄せるための策がオレンジ色なのである。
萱草の花とユリの花は形がよく似ている。ユリも萱草とおなじ戦略で蝶を呼び寄せる。萱草はもともとユリ科の植物として分類されていたが遺伝子の解析技術が進んでツルボラン科に変更された。種類が違っても同じようなデザインの生物が生まれるのを「収斂進化」という。
「何候(なにぞろ)ぞ 草に黄色の 花の春」 服部嵐雪
紫色の花はハチを呼ぶが、黄色の花はアブを呼ぶ。春には黄色の花が目立つが、これは最初に活動を始めるのがアブの仲間で、そのアブたちはが黄色い花を好んで訪れるからだそうだ。しかし、アブはハチほど賢くないので同じ花を選択して訪れることはできずところかまわず訪れてしまう。だから黄色い花は近いところに集まって咲くことでアブに同じ花を訪れさせようという戦略を取っている。
「戯奴(わけ)がため、我が手もすまに、春の野に、抜ける茅花(つばな)ぞ、食(め)して肥えませ」 紀小鹿
茅という名前からは天神祭りの時に天満宮の入り口に置かれる丸い輪っかを思い出すだけだが、よく見る雑草の名前だった。サトウキビの仲間だそうで、若い穂をかじるとほんのり甘い味がするそうだ。これはいちど試してみたい。
「古池や 蛙飛びこむ 水の音」 松尾芭蕉
この本のタイトルにもなっているが、このカエルはツチガエルだったと言われている。当時の詩歌の世界ではカエルというとカジカガエルのことを詠むというのが常識であったそうだ。鳴き声が確かに雅だからそうなるのだろうが、松尾芭蕉はあえて古い池とツチガエルを詠んだ。それが画期的だったそうだ。
芭蕉はカエルを詠んだのではなくカエルが跳びこむかすかな音も聞こえるほどの静寂を詠んだのだということである。これは、「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」にもつながる詠み方なのである。
ちなみにこのセミはニイニイゼミだと結論づけられているそうだ。
「兎も 片耳垂るる 大暑かな」 芥川龍之介
兎は“うさぎ”と読むと変な字余りのようになってしまうが字足らずでいいらしい。
兎が走るとき、耳はどうしているかというと、立てて走っているそうだ。空気抵抗がないように畳んで走っていそうだがそれは間違いだそうだ。ウサギの耳は放熱板の役割をしていて長い耳を風に当てて耳を流れる血液を冷やしているらしい。
「蠅とんで くるや箪笥の 角よけて」 京極杞陽
ハエの飛翔力の秘密は2枚しかない翅である。昆虫はふつう4枚の翅を持っている。ハエは素早く翅を動かすために後ろの翅を棒状の「平均棍」という器官に変化させた。この平均棍を使って飛行を安定させている。飛行中のハエが(意識的にであれ,突風にあおられてであれ)急に向きを変えると、平均棍の柄の部分がねじれ、そこにつながった神経終末の束がねじれを感知し,その情報が脳に送られ,ハエは適切に対応して飛行を安定させる。ジャイロスコープのような動きをしているのである。
ハエの翅は1秒間に数百回も動いている。だから五月蠅いのである・・。
「朝露に 咲きすさびたる 月草の 日くたつなへに 消ぬべく思ほゆ」 作者不詳
月草とはツユクサのことである。朝露に濡れる時間帯に花が咲いているからツユクサと呼ばれるのかと思ったら、葉の先端に「水孔」と呼ばれる小さな穴があって、夜の間に余分な水分をこの孔から排出している。この水分が水滴となってツユクサは濡れている。朝露ではなかったのである。
ツユクサは花の形も変わっている。蛍草と呼ばれたり、鈴虫草、蜻蛉草と呼ばれたりもする。
その理由はツユクサの花は蜜を持たないからだ。ツユクサにやってくるアブは花粉を餌にするためにやってくる。ツユクサの花の一番奥には黄色の雄しべが三つ並んでいる。青い花びらに黄色の雄しべは映える。この鮮やかな黄色でアブを引き寄せる。しかし、この3本の雄しべには花粉がほとんどない。これはおとりなのである。本命はその前にある目立たない雄しべである。しかし、アブもバカではないので鮮やかな雄しべがおとりであると気づくやつもいるので本命の花粉をたべてしまう。しかし、ツユクサはまだその上をいく。本命の本命は別にあるのだ。実は花の前面には目立たない地味な雄しべがあと2本ある。おとりの2段構えでアブをだますのである。
蛍草という名前が詠まれている句として、
「朝風や 蛍草咲く 蘆の中」 泉鏡花
が紹介されている。
「向日葵の 一茎一花 咲きとほす」 津田清子
人間の改良によって目的とする一つの部位が大きくなることを「ヒマワリ効果」と呼ぶそうだ。ヒマワリの野生種はコスモスみたいに一つの茎にたくさんの花を咲かせるそうだが、利用部位を大きくするために一つの茎に一つだけ花を咲かせるように改良したのである。
他には人参(野生種の根はほとんど太らない。)、ナシ(原種のヤマナシは小さな実しか実らせない)、イネ(収穫量を増やすために種子が大きくなるように改良された)などがある。イネは実ってもコメを地面に落とさないが、あれも「非脱粒性突然変異」を起こした株を選別してモミが落ちないように改良されている。頭を垂れるのは自然界では不自然なのである。
「恋しくば 尋ねきてみよ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉」 作者不詳
これは安倍晴明の母親が作ったとされる歌で、その母親は信太の狐だということである。
名は「葛の葉」と言ったそうだが、当時、クズの葉は「裏見葛の葉」と呼ばれていた。クズの葉は葉の裏が白く見えるので裏側が見えるとよく見えるからだそうだ。クズの葉は夏の盛りには自ら葉を立てて裏側を見せるらしい。これは光が強すぎると光合成の能力を超えてしまい、かえって害になってしまうからだそうだ。この仕組みは葉の付け根にある「葉枕」というコブのような器官にある水の圧力を調整することで葉を動せるようになっているそうだ。
「梨食うて すっぱき芯に いたりけり」 辻桃子
ナシの芯はすっぱい。種子を守るためだそうだが、スイカやメロンなどは種子の周りはかなり甘い。植物が甘い果実を実らせるのは鳥に食べさせて遠くへ種を運ぶためである。
リンゴやナシの原種は果実が小さく、鳥が丸呑みする。りんごやナシはバラ科の植物であるが、彼らは子房を膨らまして甘くなる植物と違った戦略をとっている。食べられたあとで消化されてしまっては困るので種子の周りを守る構造を発達させた。同じくバラ科の梅やモモもかたい殻を作って中の仁と呼ばれる本当の種を守っている。
リンゴやナシは子房を発達させて甘い果実を作っているのではなく、「花托」と呼ばれる花の付け根の部分が子房を包み込むように太ったもので、子房が発達した「真果」に対して「偽果」と呼ばれている。
「生きて仰ぐ 空の高さよ 赤蜻蛉」 夏目漱石
赤トンボという名前のトンボはない。20種類くらいの小型の赤蜻蛉の総称だそうだ。
トンボには竿の先に止まる種類と、竿にぶら下がって止まる種類のものがある。竿の先に止まるトンボの代表格はアキアカネである。どうして竿の先に止まるのかというと、体を温めるためだそうだ。変温動物のアキアカネは気温が低くなる夕方になると時々体を温めないと動けなくなるらしい。止まる向きも決まっていて、必ず夕日の方向に対して横向きになるように止まっているそうだ。これが一番効率よく日を浴びることができるからだ。太陽光が強い夏の間は体温が上がりすぎるので上から照りつける太陽に対して尻尾の先をまっすぐに立てて逆立ちをするように止まるそうである。赤蜻蛉というと秋の虫のように思うが、夏の間も飛んでいるのだけれども赤くないのでこの季節には赤蜻蛉はいないと思われているだけである。赤いのは婚姻色だそうだ。
アキアカネと対照的に飛ぶのが好きなトンボはウスバキトンボである。熱帯産のトンボで春になると中国大陸から飛んでくるらしい。日本で卵を産んで次の世代が生まれると夏の終わりころに群れをなして飛び回るそうだ。お盆の頃に目立って来るので「精霊とんぼ」とも呼ばれる。
このトンボはまた中国に帰っていくのかどうか、その謎はこの本には書かれていなかった。
「きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかも寝む」 藤原良経
ここでいう「きりぎりす」とはコオロギのことである。現在キリギリスと呼ばれている昆虫の鳴き声は「チョン ギース」だが、コオロギは「キリキリ」と鳴くのでなんとなくキリギリスのほうが当たっているような感じがする。まあ、万葉の時代には秋に鳴く虫は全部コオロギと呼ばれていたそうだからなんでもコオロギだったのだ。というのも、秋に鳴く虫というのは鳴き声は聞こえても姿が見えないのですべて同じ名前で呼んでいたのである。
江戸時代になって、虫かごに入れて虫の音を楽しむようになりその時に混同してしまったのではないかという説がある。
マツムシとスズムシも平安時代は今とは逆に呼ばれていたそうだ。
「旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる」 松尾芭蕉
枯野の元になっているのはススキなどのイネ科の植物だ。ケイ酸というガラス質の物質を葉や茎に蓄積しているので腐ることなく立ち尽くしている。確かに早春の生石山に行ってもススキだけが立ち枯れている。焼いてくれないとワラビを採るのに難儀するのである・・。
都会にいるより海や山、川にいるほうが好きだから植物や昆虫、動物などはいっぱい見るけれどもほとんどその名前を知らない。その生態はというともっと知らない。こういうのをなんちゃってナチュラリストというのだろう。
そういう知識を知っていると、きっと見えているだけの自然の姿が違って見えるに違いない。
ついこの前見たトンボはずっと飛び回っていたからウスバキトンボだったのだろう。
ツユクサはまだ港に咲いているかもしれないから花びらの形をじっくり観察してみたいと思う。
これは何にでも言えることだろうけれども、見えているのと見ているのでは大違いである。よく考えたら、見えているだけであったものを見ているのだと錯覚したままここまで来てしまったと思う。
だから、4歳も年下の人が書いた本に感心するしかないのである・・。
著者の本を読むのは4冊目だ。この本もたまたま書架で目にして面白そうなタイトルだと思って借りてみたらこの人の本であった。
農学博士、雑草学者という肩書のほか、コスモス短歌会会員という肩書も持つらしい。40歳を過ぎてから短歌を始めたそうである。ひとつに秀でたひとは何でもできるようだ。そして、なんと僕よりも4歳も若い。
この本は短歌や俳句に登場する生物は具体的にはなんという名前の生物だったのか、また、その歌や句の作者はその生物のどんな特徴を捉えてその作品をものしたのか。元々短歌や俳句というのは自然の情景を織り込んだものが多いというかほとんどがそうなのだか作者たちが捉えた情景を著者はさらに生物学の視点から掘り進んでゆく。蘊蓄の塊であり、そんなことがあったのかと感心させられる。
この先は取り挙げられた歌や句とそこに登場する生物の蘊蓄を箇条書きにして記録しておきたいと思う。
「初蝶や 菜の花なくて 淋しかろう」 夏目漱石
この句の「初蝶」はモンシロチョウだ。モンシロチョウは菜の花の周りをよく飛んでいるが花の蜜を吸うためではない。卵を産むためだけに飛んでいるのである。モンシロチョウの幼虫はアブラナ科の植物の葉しか食べることができない。アブラナ科の植物はシニグリンというカラシ油成分を防御物質として蓄えているがモンシロチョウの幼虫はこれを無毒化することができる。しかし、他の植物が持つ防御物質は無毒化できない。たくさんの防御物質に対応しようというのは非効率的だから無理にそういうことをしないのである。
そして、モンシロチョウもこの物質を足の先端で探知して幼虫に食べさせられる植物かどうかを確認しているらしい。
そして、モンシロチョウは一ヶ所にひとつしか卵を産まないそうだ。だからかなり広範に飛び回っているのである。
白菜やレタス、キャベツ、大根、カリフラワー、ブロッコリーは似ても似つかない植物だがすべてアブラナ科の植物だ。これらの植物の花は全部同じ形をしていて、菜の花にそっくりである。多分、根菜以外の野菜というのはほぼすべてアブラナ科の植物なのじゃないかと思ってしまうほどだ。
これはこの本の蘊蓄ではなく、僕が叔父さんの畑の中で知ったネタである。
ちなみにモンキチョウの幼虫はマメ科の植物の葉しか食べないそうである。
その他、蝶の鱗粉を取ってしまうと羽は透明だそうだ。トンボやハチと同じなのである。不思議なことにこの鱗粉を取ってしまうとうまく飛べなくなってしまうらしい。
「花びらの 垂れて静かや 花菖蒲」 高浜虚子
ハチを呼び寄せたい植物は紫色をしていることが多い。ハチは飛ぶ力が強いのでたくさんの花を回ることができるので花粉をたくさんの花に届けることができる。しかもハチは同じ種類の花を回ることができる。ハチミツにはレンゲやアカシアというような植物の種類ごとの商品があるのはこの性質があるからだ。
花のほうもハチに花粉を運んでもらうためにたっぷりの蜜を用意していて、しかもハチにだけ蜜を与える工夫をしている。
花菖蒲もそんな花の構造をしている。下に垂れ下がった花びらには黄色い模様がある。この模様はガイドマークと呼ばれハチに蜜のありかを示すサインとなっている。ハチはこのガイドマークを目指して下の花びらに着陸する。ガイドマークに従ってハチが下の花びらと上の花びらの間を中へともぐりこんでいくとその奥に蜜が隠されている。その通り道には雌しべと雄しべが配置されているのである。
ハチの立場に立ってみれば、複雑な構造を解いて密にありついたのだから同じ構造の花に行くと間違いなく蜜にありつける。別の花だとまた最初から花の構造を解かねばならないので非効率という訳なのである。
「パンジーの 畑蝶を呼び 人を呼ぶ」 松本たかし
パンジーはいろいろな花の色の品種があるが、原種であるワイルドパンジーは紫いろと黄色と白色の花びらが混ざっている。パンジーも花菖蒲と同じように複雑な構造をしていて、ハチだけを呼び寄せる構造をしている。
パンジーの上の花びらは紫色をしていて「旗弁」と呼ばれ、遠くの昆虫に花の存在をアピールする。下の花びらにはガイドマークの模様があり横の花びらは潜ってゆく昆虫をガードする役割をしているそうだ。蜜を奥深くに隠すために「距」というツボ状の筒が後ろに張り出している。茎は花の中心に付いていてやじろべえのようにバランスを保っている。
しかし、蝶はこの構造を無視して長いストローのような口で蜜だけを吸う。花の中には入っていかないので花粉も運ばない。蝶というのはほとんどの花にとって泥棒のようなものらしい。
「萱草の 一輪咲きぬ 草の中」 夏目漱石
蜜泥棒の蝶を利用して花粉を運ばせているのが萱草(カンゾウ)だ。蝶は長いストローで雄しべを通り越して蜜を吸うが、萱草は平たく大きく開いた花に雄しべと雌しべを長く伸ばしている。萱草の花に止まろうとした蝶はどうしても体に花粉を付けてしまう。
蝶は飛翔力が高く、広範囲に花粉を運ぶ。だから萱草はポツンと1輪だけ咲いていることができるのである。
萱草というと僕の中では山菜のイメージしかないが花の季節にはオレンジ色の花を咲かせる。赤に近いオレンジ色は波長が長いので遠くからでも目立つ。蝶を呼び寄せるための策がオレンジ色なのである。
萱草の花とユリの花は形がよく似ている。ユリも萱草とおなじ戦略で蝶を呼び寄せる。萱草はもともとユリ科の植物として分類されていたが遺伝子の解析技術が進んでツルボラン科に変更された。種類が違っても同じようなデザインの生物が生まれるのを「収斂進化」という。
「何候(なにぞろ)ぞ 草に黄色の 花の春」 服部嵐雪
紫色の花はハチを呼ぶが、黄色の花はアブを呼ぶ。春には黄色の花が目立つが、これは最初に活動を始めるのがアブの仲間で、そのアブたちはが黄色い花を好んで訪れるからだそうだ。しかし、アブはハチほど賢くないので同じ花を選択して訪れることはできずところかまわず訪れてしまう。だから黄色い花は近いところに集まって咲くことでアブに同じ花を訪れさせようという戦略を取っている。
「戯奴(わけ)がため、我が手もすまに、春の野に、抜ける茅花(つばな)ぞ、食(め)して肥えませ」 紀小鹿
茅という名前からは天神祭りの時に天満宮の入り口に置かれる丸い輪っかを思い出すだけだが、よく見る雑草の名前だった。サトウキビの仲間だそうで、若い穂をかじるとほんのり甘い味がするそうだ。これはいちど試してみたい。
「古池や 蛙飛びこむ 水の音」 松尾芭蕉
この本のタイトルにもなっているが、このカエルはツチガエルだったと言われている。当時の詩歌の世界ではカエルというとカジカガエルのことを詠むというのが常識であったそうだ。鳴き声が確かに雅だからそうなるのだろうが、松尾芭蕉はあえて古い池とツチガエルを詠んだ。それが画期的だったそうだ。
芭蕉はカエルを詠んだのではなくカエルが跳びこむかすかな音も聞こえるほどの静寂を詠んだのだということである。これは、「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」にもつながる詠み方なのである。
ちなみにこのセミはニイニイゼミだと結論づけられているそうだ。
「兎も 片耳垂るる 大暑かな」 芥川龍之介
兎は“うさぎ”と読むと変な字余りのようになってしまうが字足らずでいいらしい。
兎が走るとき、耳はどうしているかというと、立てて走っているそうだ。空気抵抗がないように畳んで走っていそうだがそれは間違いだそうだ。ウサギの耳は放熱板の役割をしていて長い耳を風に当てて耳を流れる血液を冷やしているらしい。
「蠅とんで くるや箪笥の 角よけて」 京極杞陽
ハエの飛翔力の秘密は2枚しかない翅である。昆虫はふつう4枚の翅を持っている。ハエは素早く翅を動かすために後ろの翅を棒状の「平均棍」という器官に変化させた。この平均棍を使って飛行を安定させている。飛行中のハエが(意識的にであれ,突風にあおられてであれ)急に向きを変えると、平均棍の柄の部分がねじれ、そこにつながった神経終末の束がねじれを感知し,その情報が脳に送られ,ハエは適切に対応して飛行を安定させる。ジャイロスコープのような動きをしているのである。
ハエの翅は1秒間に数百回も動いている。だから五月蠅いのである・・。
「朝露に 咲きすさびたる 月草の 日くたつなへに 消ぬべく思ほゆ」 作者不詳
月草とはツユクサのことである。朝露に濡れる時間帯に花が咲いているからツユクサと呼ばれるのかと思ったら、葉の先端に「水孔」と呼ばれる小さな穴があって、夜の間に余分な水分をこの孔から排出している。この水分が水滴となってツユクサは濡れている。朝露ではなかったのである。
ツユクサは花の形も変わっている。蛍草と呼ばれたり、鈴虫草、蜻蛉草と呼ばれたりもする。
その理由はツユクサの花は蜜を持たないからだ。ツユクサにやってくるアブは花粉を餌にするためにやってくる。ツユクサの花の一番奥には黄色の雄しべが三つ並んでいる。青い花びらに黄色の雄しべは映える。この鮮やかな黄色でアブを引き寄せる。しかし、この3本の雄しべには花粉がほとんどない。これはおとりなのである。本命はその前にある目立たない雄しべである。しかし、アブもバカではないので鮮やかな雄しべがおとりであると気づくやつもいるので本命の花粉をたべてしまう。しかし、ツユクサはまだその上をいく。本命の本命は別にあるのだ。実は花の前面には目立たない地味な雄しべがあと2本ある。おとりの2段構えでアブをだますのである。
蛍草という名前が詠まれている句として、
「朝風や 蛍草咲く 蘆の中」 泉鏡花
が紹介されている。
「向日葵の 一茎一花 咲きとほす」 津田清子
人間の改良によって目的とする一つの部位が大きくなることを「ヒマワリ効果」と呼ぶそうだ。ヒマワリの野生種はコスモスみたいに一つの茎にたくさんの花を咲かせるそうだが、利用部位を大きくするために一つの茎に一つだけ花を咲かせるように改良したのである。
他には人参(野生種の根はほとんど太らない。)、ナシ(原種のヤマナシは小さな実しか実らせない)、イネ(収穫量を増やすために種子が大きくなるように改良された)などがある。イネは実ってもコメを地面に落とさないが、あれも「非脱粒性突然変異」を起こした株を選別してモミが落ちないように改良されている。頭を垂れるのは自然界では不自然なのである。
「恋しくば 尋ねきてみよ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉」 作者不詳
これは安倍晴明の母親が作ったとされる歌で、その母親は信太の狐だということである。
名は「葛の葉」と言ったそうだが、当時、クズの葉は「裏見葛の葉」と呼ばれていた。クズの葉は葉の裏が白く見えるので裏側が見えるとよく見えるからだそうだ。クズの葉は夏の盛りには自ら葉を立てて裏側を見せるらしい。これは光が強すぎると光合成の能力を超えてしまい、かえって害になってしまうからだそうだ。この仕組みは葉の付け根にある「葉枕」というコブのような器官にある水の圧力を調整することで葉を動せるようになっているそうだ。
「梨食うて すっぱき芯に いたりけり」 辻桃子
ナシの芯はすっぱい。種子を守るためだそうだが、スイカやメロンなどは種子の周りはかなり甘い。植物が甘い果実を実らせるのは鳥に食べさせて遠くへ種を運ぶためである。
リンゴやナシの原種は果実が小さく、鳥が丸呑みする。りんごやナシはバラ科の植物であるが、彼らは子房を膨らまして甘くなる植物と違った戦略をとっている。食べられたあとで消化されてしまっては困るので種子の周りを守る構造を発達させた。同じくバラ科の梅やモモもかたい殻を作って中の仁と呼ばれる本当の種を守っている。
リンゴやナシは子房を発達させて甘い果実を作っているのではなく、「花托」と呼ばれる花の付け根の部分が子房を包み込むように太ったもので、子房が発達した「真果」に対して「偽果」と呼ばれている。
「生きて仰ぐ 空の高さよ 赤蜻蛉」 夏目漱石
赤トンボという名前のトンボはない。20種類くらいの小型の赤蜻蛉の総称だそうだ。
トンボには竿の先に止まる種類と、竿にぶら下がって止まる種類のものがある。竿の先に止まるトンボの代表格はアキアカネである。どうして竿の先に止まるのかというと、体を温めるためだそうだ。変温動物のアキアカネは気温が低くなる夕方になると時々体を温めないと動けなくなるらしい。止まる向きも決まっていて、必ず夕日の方向に対して横向きになるように止まっているそうだ。これが一番効率よく日を浴びることができるからだ。太陽光が強い夏の間は体温が上がりすぎるので上から照りつける太陽に対して尻尾の先をまっすぐに立てて逆立ちをするように止まるそうである。赤蜻蛉というと秋の虫のように思うが、夏の間も飛んでいるのだけれども赤くないのでこの季節には赤蜻蛉はいないと思われているだけである。赤いのは婚姻色だそうだ。
アキアカネと対照的に飛ぶのが好きなトンボはウスバキトンボである。熱帯産のトンボで春になると中国大陸から飛んでくるらしい。日本で卵を産んで次の世代が生まれると夏の終わりころに群れをなして飛び回るそうだ。お盆の頃に目立って来るので「精霊とんぼ」とも呼ばれる。
このトンボはまた中国に帰っていくのかどうか、その謎はこの本には書かれていなかった。
「きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかも寝む」 藤原良経
ここでいう「きりぎりす」とはコオロギのことである。現在キリギリスと呼ばれている昆虫の鳴き声は「チョン ギース」だが、コオロギは「キリキリ」と鳴くのでなんとなくキリギリスのほうが当たっているような感じがする。まあ、万葉の時代には秋に鳴く虫は全部コオロギと呼ばれていたそうだからなんでもコオロギだったのだ。というのも、秋に鳴く虫というのは鳴き声は聞こえても姿が見えないのですべて同じ名前で呼んでいたのである。
江戸時代になって、虫かごに入れて虫の音を楽しむようになりその時に混同してしまったのではないかという説がある。
マツムシとスズムシも平安時代は今とは逆に呼ばれていたそうだ。
「旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる」 松尾芭蕉
枯野の元になっているのはススキなどのイネ科の植物だ。ケイ酸というガラス質の物質を葉や茎に蓄積しているので腐ることなく立ち尽くしている。確かに早春の生石山に行ってもススキだけが立ち枯れている。焼いてくれないとワラビを採るのに難儀するのである・・。
都会にいるより海や山、川にいるほうが好きだから植物や昆虫、動物などはいっぱい見るけれどもほとんどその名前を知らない。その生態はというともっと知らない。こういうのをなんちゃってナチュラリストというのだろう。
そういう知識を知っていると、きっと見えているだけの自然の姿が違って見えるに違いない。
ついこの前見たトンボはずっと飛び回っていたからウスバキトンボだったのだろう。
ツユクサはまだ港に咲いているかもしれないから花びらの形をじっくり観察してみたいと思う。
これは何にでも言えることだろうけれども、見えているのと見ているのでは大違いである。よく考えたら、見えているだけであったものを見ているのだと錯覚したままここまで来てしまったと思う。
だから、4歳も年下の人が書いた本に感心するしかないのである・・。
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