イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「みんなの朝ドラ」読了

2019年05月01日 | 2019読書
木俣冬 「みんなの朝ドラ」読了

著者は、「おら、あまちゃんが大好きだ」の著者である。

通勤時間が短くなって朝の連ドラをリアルタイムで見ることができるようになった。見ることができるようになったといっても、いままでは録画をしてまでも見ようという意欲があったわけではない。休みの日に家にいてたまたま放送時間にテレビの前に座っていたら見るくらいのものだから、ストーリーがわからなくてウチの奥さんに解説をしてもらって観るくらいだった。しかし、朝の連続テレビ小説の記念すべき100作目をリアルタイムで見ることができているというのは何かの啓示に違いないと思うのだ。なんと幸運なことだろう。

歴代のヒロインたち、松島菜々子、小林綾子、松嶋菜々子、北林早苗(この人は小さかった頃のなつにサツマイモをあげるだけのチョイ役だったが・・)、小林綾子、岩崎ひろみ、もうすぐ山口智子や比嘉愛未、貫地谷しほりも出演予定だそうだ。もうこうなっては、朝ドラのアベンジャーズと言っても過言ではないのだから観ないわけにはいかない。(と、この文章を書いている間に比嘉愛未が登場してしまった。)
それがリアルタイムで観ることができるのだ。僕はひょっとしてBSと地上波でストーリーが異なることがあるのではないかと気が気でならず、それを見守るために朝から両方観ているのだ。

僕はこのブログのなかでもたびたび「あまちゃん」のことを話題にしているけれども、世間が再び朝ドラに注目しはじめたので僕もついでににわかファンになったのではないというとことは主張しておきたい。
朝ドラとの出会いは「鳩子の海」からだった。この本のデータによると、1974年放送で、平均視聴率は47.2%。僕のおばあちゃんが朝ドラが大好きで、泊りに行くといつも午前8時15分になると必ず見ていた。そこからが朝ドラとの出会いのスタートだったのだ。ヒロインの藤田三保子が「Gメン75」に出演していたときは、ああ、「鳩子の海」の人だ!と思ったくらいだ。それからずっと見ていたかというとそうでもなかったのだが、再び熱中してしまったのが「澪つくし」だった。柴田恭平が戦死する回は、大学からこれを見るために朝一の授業だけ受けて舞い戻り、時間に間に合うよう和歌山駅から原チャリをブッ飛ばしてしていたら白バイに一時停止無視で捕まり、結局大切な回を見損なってしまったという悲しい思い出がある。あの頃、我が家にはビデオデッキというものがなかったのだ。
あとはちょろちょろ見たり見なかったりで結局、「あまちゃん」で火が点いたということは僕も単なるミーハーでしかないということか・・・。

この本は、朝の連続テレビ小説を、草創期から「ひよっこ」までをそれぞれの時代の世相、女性の価値観の変化に照らし合わせて解説している。とくに2010年以降のドラマについての解説が詳しい。
人気の朝ドラではあるけれども、「鳩子の海」の時代は40%以上というのが当たり前であったのが、「てるてる家族」以降は下降線をたどり始める。それが上昇に転じたのはその2010年の「ゲゲゲの女房」からになる。放送時間が少し早くなって見やすくなったということもあるのだろうが、そこにはやはり時代を映すSNSの登場がある。リアルタイムで発せられる視聴者の反応がさらに話題を呼ぶようになる。僕が三たび朝ドラに関心を持ち始めたのもきっとこのころであったように思う。

朝ドラを制作するうえでの三原則というものがあるそうだ。それは、「明るく、元気に、さわやかに。」であり多かれ少なかれ、ほぼどのドラマにも組み込まれている。そのうえで、それぞれの時代の女性の典型的な生き方、もしくは脚本家がいち早く捕えた女性の生き方の変化を題材に物語は描かれる。
それは、夫の成功のためにひたすら尽くす女性像であったり、職業を持ちそこで成功をおさめる女性の一代記であったりする。時代が進むとシングルマザーも現れ、生涯独身を貫くヒロインも現れる。震災以降はただ、平凡に生きただけのヒロインも。朝の時間帯にはそぐわない不倫のエピソードもはさまれるようになってきた。舞台になる時代はそれぞれ異なるけれども、そこにはその時代時代が求める、もしくは認めたい女性像ある。


そして究極の朝ドラが、「あまちゃん」だ。これはもう、誰もが認めるものだろう。この本の解説では、ドラマの出演者のなかの”影武者”たちにスポットを当てている。若き頃の春子さんを筆頭に、安部ちゃん、ユイちゃんでさえも東京に出ることがなかったという点ではやはり物語の中では”影”を演じていると言えなくもないというのである。その影たちもおっとどっこい、自分たちも力の限りに生きているのだという強力な生命力があのドラマの大きな魅力のひとつであったと考えると合点がいく。

どちらにしても、「あまちゃん」は日本のドラマの価値観を変えてしまったという意味ではキリストの誕生にも匹敵するのではないかと僕は考えるのだ。「あまちゃん」の前に「あまちゃん」は無く、「あまちゃん」の後ろにも「あまちゃん」はない。日本のドラマは「あまちゃん」を境にして語られ、「あまちゃん」の放送された2013年はドラマ紀元0年と言ってもよいのである。
当然、ここでは、能年玲奈はキリストであり、「あまちゃん」全体は聖書である。そうすると、キリストが死をもっておこなったように、能年玲奈は自らの名前を失うことによって人民の心の中に永遠に生き続けるのである。あの騒動は必然であったともいえるのだ。


現在放送中の「なつぞら」ははたしてどうだろうか。先に書いた通り、100作目ということでNHKも万全の態勢で臨んでいるということはよくわかる。ただ、脚本は、「てるてる家族」の大森寿美男だ。視聴率が低下し始めた時期の最初の脚本家であるというところが気になる。「てるてる家族」はあれはあれで面白かったといえば面白かったけれども・・。
しかし、そんな低視聴率の脚本家でも最初の2週は感動ものだった。朝ドラヒットの法則通り戦争時代を生き抜く幼いヒロインを見事に描き切っていた。なつの子役の粟野咲莉とそれにも増して草刈正雄の演技が光っている。そのセリフにも強烈な重みを感じるのだ。

「我慢せず言いたいことを言う。言わないと生きてゆけなかった。言える相手があるということは恵まれている。」
同じく、「それはお前が搾った牛乳から生まれたものだ。よく味わえ。ちゃんと働けば、必ずいつか報われる日が来る。報われなければ、働き方が悪いか、働かせる者が悪いんだ。そんなとこはとっとと逃げ出しゃいいんだ。だが一番悪いのは、人がなんとかしてくれると思って生きることじゃ。人は、人を当てにする者を助けたりはせん。逆に自分の力を信じて働いていれば、きっと誰かが助けてくれるものじゃ。」
というセリフなどは連ドラ史に残る名セリフだと思うのだ。いっそのこと、この2週でドラマを打ち切っていれば稀有の名作という誉れを手にすることができたのかもしれない。

それゆえに3週目以降が残念だ。なつが東京に向かうための必然をあまりにも見え見えに作り出しているように見えて仕方がない。そして、コメディなのか、シリアスなドラマなのか、どうも中途半端な気がしてならない。そこを草刈正雄がなんとかうまくまとめているという印象が強いのだ。

なつが絵を描くことが好きだという設定はよいにしても、演劇部に唐突に入部するというのはどうなんだろうか?そこはアキちゃんが突然北三陸高校の潜水土木科へ突然転入するというエピソードへのオマージュかもしれないが、将来、クリエーターを目指すのだということを露骨に示しすぎている。見る側もそこまできっちり明示してくれなくてじんわりわかっていきたいと思っているのではないだろうか。
「あまちゃん」へのオマージュというと、FFJのクラブ歌を熱唱するシーンは南部ダイバーの歌、なつが自転車に乗りながら叫ぶシーンも同じくアキちゃんが失恋したシーンへのオマージュに違いないと思うのはぼくが「あまちゃん」にあまりにも傾倒しすぎているからだろうか。

どちらにしても今の流れは物語全体がなつをむりやり東京へ向かわせようという伏線が見え見えになっている。そうなるのは番宣でわかってはいるのだが、そこはうまく描き切ってもらいたい。脚本が少々悪くても、広瀬すずちゃんと草刈正雄の魅力で十分に乗り切ってくれるだろう。朝ドラには三原則のほかに、”幼なじみと結婚する”、”対照的な性格のライバルが出現する”という法則があるそうだ。なつにはあまりにもたくさんの幼なじみがいる。いったい誰と結婚することになるのだろうか?門倉君でないことは確かだろうが・・。そしてライバルは・・・。今は夕見子がそのライバルのようだが、東京編で新しいライバルが出現するのか、今週もなんだかドタバタな展開でスタートしたけれども、「まれ」のような行き当たりばったりのドタバタで終わってほしくはない。これからの展開に期待するのだ。
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