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イレグイ号クロニクル Ⅱ

魚釣りの記録と読書の記録を綴ります。

「古寺巡礼」読了

2014年03月01日 | 読書
和辻哲郎 「古寺巡礼」読了

大正8年の初版からいまだに読まれている元祖仏女のバイブルだ。
フェノロサや岡倉天心のように仏像や絵画、建築を芸術と捉えて評価をしているのだが、う~ん、こういうのは芸術といっていいのだろうか。
普通の彫刻や絵画と宗教、信仰の対象となっているものはちょっと違うのではないかと思う。
確かに完成度や表現力というものは芸術と評価してもなんらおかしくはないのだろうが、その完成度と表現力はずっと昔からの人々が、「本当の極楽浄土とはどんなところなのだろうか、きっとこんなところだ。」と想像力をめぐらせてそれを形にしていった結果がその姿であったのではないだろうか。真実を見たい。きっとこうだ。という思いが作り出したものならそれは芸術ではなくて、人の想いの結晶であって背後にある宗教の教えを理解してからでないと評価をしてはいけないような気がする。
仏像を彫ったのは芸術家ではなく職人であったと思う。僧侶や貴族が自分の想う極楽浄土や仏の世界はこんな感じだというイメージを伝えてそれを具現化する人だったはずだ。京都や奈良、そのほかかつて都があった場所では貴族や裕福な人々が資産を生かして賢覧豪華、精巧なものを造っただろうが、地方に行くと簡単な木彫りのそれも表情のわからないような仏像しかなかったとしてもそれで仏の世界を想像することができればそれでいいのだ。
ギリシャ彫刻の流れからガンダーラ、中国を経てどんな形態の変化があったかなんていうのは学問として研究していただければいいのだが、それは形而下の話であって、形而上的にはきっと何の問題にもならない。

「見仏記」という本はそういう意味では邪道かも知れないがここまでいってしまうとこれはこれで面白い。しかし、正攻法でこれは芸術だと言われると、いやこれは宗教だと言いたい。

だから僕もまだまだ仏像を拝むという資格はないのだ。