写真①:芭蕉と大垣の関わりが詳しく分かる「奥の細道むすびの地記念館」
=岐阜県大垣市船町2丁目で、2012年10月5日午後1時15分撮影
〈尾張・美濃・飛騨・町歩きスポット〉3
:奥の細道むすびの地
「奥の細道」むすびの地――。俳聖松尾芭蕉が江戸時代初期の元禄2年(1689年)3月、江戸・深川から奥州・北陸の名所、旧跡を巡り、同15年(1702年)に俳諧紀行「奥の細道」を世に出したことは知っていましたが、この旅の終焉地が岐阜県垣市ということは市発行の「市街地散策マップ」を見るまで失念していました。
私は今回の〈尾張・美濃・飛騨〉旅行で10月5日午後、大垣市船町2丁目の市立「奥の細道むすびの地記念館」=写真①=を訪問。「奥の細道」を旅路ごとに区切り、関連資料や映像を紹介する常設展示室がある「芭蕉館」を見学し、芭蕉と大垣の関わりを詳しく学べました。
芭蕉は元禄2年9月、約5か月の「奥の細道」の旅を大垣で終え、〈蛤のふたみに別行秋そ〉と詠んで、水門川の船町港から舟で桑名へ下りました。
旅姿の芭蕉=写真②=が初めて大垣を訪れたのは貞享元年(1684年)、「野ざらし紀行」の旅の途中。ともに京都の北村季吟の門下生だった俳友・谷木因を訪ねるためでした。その後も含め、つごう4回にわたる芭蕉の大垣訪問は、大垣十万石の城主戸田公の文教奨励もあって藩士らを中心に盛んだった大垣俳壇に新風を吹き込み、「蕉風」俳諧が美濃一円に広がり、美濃俳諧としての基礎が固まったという。
写真②:顔枠に自分の顔を入れて旅姿の芭蕉風に記念撮影できる看板
=「奥の細道むすびの地記念館」入口で、5日午後1時15分撮影
大垣市は、「奥の細道」むすびの地として、また中山道と東海道を結ぶ美濃路大垣宿の宿場町としての歴史・文化の蓄積を感じさせる建造物など、残したい景観を有する建造物を市景観遺産に指定、保全・管理に努めるなど、歴史的な遺産を大切に守りながら、近代的な文化の香り高いまちづくりに取り組んでいます。わが福津市も、〈津屋崎千軒〉を核にして、文化の香り高いまちづくりを目指してほしいと強く共感を覚えました。
「奥の細道むすびの地記念館」のフロアに、袖に「芭蕉元禄の街 大垣」のキャッチコピー入りの法被をはおり、芭蕉をイメージした頭巾姿の〝大垣市マスコットキャラクター・「おがっきい」〟が乗った「おおがきたらい舟」=写真③=が置かれているのが目に付きました。関ケ原合戦の折、たらいに乗って戦火を逃れたという伝説に基づく、全国的にも珍しい「たらい舟」で、水門川の観光川下りに使われるという。福岡県の水郷・柳川の川下りの〝どんこ舟〟と違って、数人しか乗れそうにない丸い「たらい舟」もスリリングで楽しめるのではと思いました。
写真③:〝大垣市マスコットキャラクター〟が乗った「おおがきたらい舟」
=「奥の細道むすびの地記念館」で、5日午後1時20分撮影
大垣市は地下水が豊富で、おいしい水に恵まれ、〝水の都・おおがき〟と呼ばれています。深さ150㍍から水温14度の地下水が湧き出る自噴井を活用、広場を整備した「名水大手いこ井の泉」(同市郭町2丁目)=写真④=では、ボトルに水を汲み入れる市民の姿も見られました。ひしゃくで一口飲んでみると、まろやかな水でした。
写真④:深さ150㍍から地下水が湧き出る「名水大手いこ井の泉」
=大垣市郭町2丁目で、5日午後2時40分撮影
大垣市墨俣町墨俣にある豊臣秀吉出世の地・「すのまた城」=写真⑤=にも立ち寄りました。織田信長の美濃攻めに際し、木下藤吉郎が永禄9年(1566年)、一夜で築いたと伝えられる一夜城にちなみ、同市がその跡地に当時の砦のような城ではなく、城郭天守を備えた(豪華すぎる)六階建てコンクリート製の「墨俣一夜城歴史資料館」として建設、周辺は「一夜城址公園」として整備されています。
写真⑤:豊臣秀吉出世の地・「すのまた城」(歴史資料館)
=大垣市墨俣町墨俣で、5日午後4時5分撮影