●写真①:宮地嶽神社境内に建てられている「六百俵の碑」
=福津市宮司で、2007年1月18日午前10時17分撮影
・琢二と清の郷土史談義
『津屋崎学』
第21回:2007.1.23
六百俵の碑
清 「おいしゃん(叔父さん)、元旦に福津市宮司の宮地嶽神社へ初詣でしてきたばってん、今年は初詣で客が多かったばい」
琢二 「警察発表では、正月三が日の宮地嶽神社への参拝客は105万人やった。九州では、太宰府市の太宰府天満宮の201万人に次いで2番目に多かったそうだ。どっちも福岡県の神社たい。ところで、宮地嶽神社参道の最初の石段を上がった境内南側に、〈六百俵の碑〉=写真①=があるとを知っとうや?」
清 「ヘー、知らんやった。何の記念碑かいな」
琢二 「表側に〈六百俵之碑〉と大きく刻まれ、裏側には宮司の区民一同で建てたいきさつが彫られとる。碑のそばに福津市が建てた説明盤=写真②=には、次のように解説してある。
〈徳川時代の半ばごろまで、ここ宮司村は、砂混じりの痩(や)せた農地が多く、常に水不足に悩まされるなど、農家は苦しい生活をせまられていました。
しかし、村民は互いに助け合い、農業のほか、わら細工製造等に励むかたわら、11歳以上の村民総出で溜池(林口池)を造って水不足の解消に努め、年貢米はいつも一番に納めたということです。
また、天明5年(1785年)の大飢饉(だいききん)の時も、宮司村だけは年貢米の返上を願い出ず完納しました。
このようなことから、時の藩主は宮司村を他村の模範として表彰し、寛政2年(1790年)褒美(ほうび)として米六百俵を贈りました。
村民は、この栄誉を後世に永く伝承するとともに、村の繁栄を願って、褒美の一部をもって村内の出生児に産着を贈ることとし、現在もこの習わしが続けられています。
大正8年(1919年)、これらの先人の偉業を讃えるため、記念碑が建てられました〉
写真②:六百俵の碑について解説している説明盤
=福津市の宮地嶽神社で、07年1月18日午前10時16分撮影
清 「なるほど。よう分かった。当時は、宮司村やったとやね」
琢二 「宮司村は明治42年(1909年)、津屋崎町と合併して新しい津屋崎町になった」
清 「藩主が、村民に米六百俵を贈るなんて、めったにない栄誉やったんやろうね」
琢二 「旧津屋崎町が編纂した『津屋崎町史 通史編』によると、黒田藩の家老久野下記から賞せられ、宮司村の一年間の年貢の石数873俵に近い600俵もの米を与えられたそうだ。
表彰状に当たる褒状の文章を要約して紹介すると、〈庄屋忠右衛門は、村行政も正しく行い、村中が助け合って精を出したため、凶作があっても年貢軽減を願い出なかった。さらに、宮司村は、風紀が正しい村であり、かつ困窮者を助ける仕組みもあったので、離散する者もなかった〉と評価。さらに〈溜池新築には、村中で取り組み、11歳以上の延べ2,600人が働き、旱ばつもなくなった。倹約を守り、常日ごろから行いも正しく、農業に励む宮司村の風紀は、類まれなものである。格別に賞として宮司村110軒に対し、米600俵を与える〉とべた褒めだな。
当時の村民は465人。現代風に言えば、〝お上〟の官に頼らず、村の民の力を結集した村落共同体の成功例といえるたい。当時は、徳川第11代将軍家斉の時代だ。その前の第10代将軍家治が治めた明和、安永時代はそれ以前の元禄時代の華美遊惰の風潮を受け継いで風紀が乱れた世相だったようだ。その後、1783年から88年まで天明の大飢饉が諸国を襲った時代だけに、黒田藩は風紀を正し、農業に精を出した村民を民の模範と表彰したわけだ」
清 「今も治山治水が大事と言われるけど、昔の宮司村の人たちは旱ばつ対策だけでなく、倹約や風紀など暮らしぶりまで本当に偉かったとやね」
宮地嶽神社(福岡県福津市宮司):◆交通アクセス=〔電車・バスで〕西鉄宮地岳線宮地岳駅下車、徒歩10分。JR鹿児島線福間駅下車、西鉄バス津屋崎橋行きか、神湊波止場行きで10分の「宮地岳宮前」で下車し、徒歩5分〔車で〕九州自動車道古賀インターから約20分。駐車台数1200台。問い合わせは、宮地嶽神社(0940-52-0016)へ。
宮地嶽神社境内〈六百俵之碑〉の位置図
(ピンの立っている所)
=福津市宮司で、2007年1月18日午前10時17分撮影
・琢二と清の郷土史談義
『津屋崎学』
第21回:2007.1.23
六百俵の碑
清 「おいしゃん(叔父さん)、元旦に福津市宮司の宮地嶽神社へ初詣でしてきたばってん、今年は初詣で客が多かったばい」
琢二 「警察発表では、正月三が日の宮地嶽神社への参拝客は105万人やった。九州では、太宰府市の太宰府天満宮の201万人に次いで2番目に多かったそうだ。どっちも福岡県の神社たい。ところで、宮地嶽神社参道の最初の石段を上がった境内南側に、〈六百俵の碑〉=写真①=があるとを知っとうや?」
清 「ヘー、知らんやった。何の記念碑かいな」
琢二 「表側に〈六百俵之碑〉と大きく刻まれ、裏側には宮司の区民一同で建てたいきさつが彫られとる。碑のそばに福津市が建てた説明盤=写真②=には、次のように解説してある。
〈徳川時代の半ばごろまで、ここ宮司村は、砂混じりの痩(や)せた農地が多く、常に水不足に悩まされるなど、農家は苦しい生活をせまられていました。
しかし、村民は互いに助け合い、農業のほか、わら細工製造等に励むかたわら、11歳以上の村民総出で溜池(林口池)を造って水不足の解消に努め、年貢米はいつも一番に納めたということです。
また、天明5年(1785年)の大飢饉(だいききん)の時も、宮司村だけは年貢米の返上を願い出ず完納しました。
このようなことから、時の藩主は宮司村を他村の模範として表彰し、寛政2年(1790年)褒美(ほうび)として米六百俵を贈りました。
村民は、この栄誉を後世に永く伝承するとともに、村の繁栄を願って、褒美の一部をもって村内の出生児に産着を贈ることとし、現在もこの習わしが続けられています。
大正8年(1919年)、これらの先人の偉業を讃えるため、記念碑が建てられました〉
写真②:六百俵の碑について解説している説明盤
=福津市の宮地嶽神社で、07年1月18日午前10時16分撮影
清 「なるほど。よう分かった。当時は、宮司村やったとやね」
琢二 「宮司村は明治42年(1909年)、津屋崎町と合併して新しい津屋崎町になった」
清 「藩主が、村民に米六百俵を贈るなんて、めったにない栄誉やったんやろうね」
琢二 「旧津屋崎町が編纂した『津屋崎町史 通史編』によると、黒田藩の家老久野下記から賞せられ、宮司村の一年間の年貢の石数873俵に近い600俵もの米を与えられたそうだ。
表彰状に当たる褒状の文章を要約して紹介すると、〈庄屋忠右衛門は、村行政も正しく行い、村中が助け合って精を出したため、凶作があっても年貢軽減を願い出なかった。さらに、宮司村は、風紀が正しい村であり、かつ困窮者を助ける仕組みもあったので、離散する者もなかった〉と評価。さらに〈溜池新築には、村中で取り組み、11歳以上の延べ2,600人が働き、旱ばつもなくなった。倹約を守り、常日ごろから行いも正しく、農業に励む宮司村の風紀は、類まれなものである。格別に賞として宮司村110軒に対し、米600俵を与える〉とべた褒めだな。
当時の村民は465人。現代風に言えば、〝お上〟の官に頼らず、村の民の力を結集した村落共同体の成功例といえるたい。当時は、徳川第11代将軍家斉の時代だ。その前の第10代将軍家治が治めた明和、安永時代はそれ以前の元禄時代の華美遊惰の風潮を受け継いで風紀が乱れた世相だったようだ。その後、1783年から88年まで天明の大飢饉が諸国を襲った時代だけに、黒田藩は風紀を正し、農業に精を出した村民を民の模範と表彰したわけだ」
清 「今も治山治水が大事と言われるけど、昔の宮司村の人たちは旱ばつ対策だけでなく、倹約や風紀など暮らしぶりまで本当に偉かったとやね」
宮地嶽神社(福岡県福津市宮司):◆交通アクセス=〔電車・バスで〕西鉄宮地岳線宮地岳駅下車、徒歩10分。JR鹿児島線福間駅下車、西鉄バス津屋崎橋行きか、神湊波止場行きで10分の「宮地岳宮前」で下車し、徒歩5分〔車で〕九州自動車道古賀インターから約20分。駐車台数1200台。問い合わせは、宮地嶽神社(0940-52-0016)へ。
宮地嶽神社境内〈六百俵之碑〉の位置図
(ピンの立っている所)