吉村青春ブログ『津屋崎センゲン』

“A Quaint Town(古風な趣のある町)・ Tsuyazaki-sengen”の良かとこ情報を発信します。

2006年12月28日〈津屋崎学〉019:桃中軒雲右衛門と「新泉岳寺」

2006-12-28 10:34:22 | 郷土史

●写真①:東京・高輪の「泉岳寺」の寺号と墓砂を分霊として譲り受け、建立された「新泉岳寺」

      =福津市津屋崎天神町で、2006年8月6日午前6時30分撮影

琢二と清の郷土史談義
『津屋崎学』

第19回:2006.12.28
  桃中軒雲右衛門と「新泉岳寺」


清 「おいしゃん(叔父さん)、今年もあと3日を残すだけになったね。12月14日、福津市津屋崎天神町の万松山新泉岳寺=写真①=で、約300年前の赤穂浪士討ち入りの義挙をたたえる〈義士祭〉=写真②=が催されたのに初めて行ったっちゃが、約70人も参列者がいて、感動したばい。旧暦の元禄15年(1702年)に大石内蔵助ら赤穂浪士が吉良上野介の屋敷に討ち入った日のことが、津屋崎でも年に1回、新泉岳寺で話題になるっちゃね」


写真②:万松山新泉岳寺で催された赤穂浪士討ち入りの義挙をたたえる〈義士祭〉
     =福津市津屋崎天神町で、2006年12月14日午前11時30分撮影

琢二 「新泉岳寺は、津屋崎の観光開発を手がけた実業家、児玉恒次郎氏が桃中軒雲右衛門=写真③=の義士を扱った浪曲に感動し、四十七士を祭っている東京・高輪の泉岳寺の寺号と墓砂を分霊として譲り受けて建立した。そのへんの経過は、福津市が新泉岳寺の境内入り口に建てた案内標示の解説文=写真④=に次のように書かれとる。

〈渡半島に活洲場(いけすば)を開設するなど、町の観光開発に熱心だった故児玉恒次郎氏が大正2年(1913年)に建立(創設)した赤穂四十七士の墓です。
 福本日南の『義士銘々伝』を浪曲師として有名な桃中軒雲右衛門の語りで全国に広めた児玉氏の功績が認められ、東京高輪の泉岳寺から特別に許可を受け、寺号と47人の義士の墓砂を分霊として持ち帰ったものです。
 毎年、12月14日の討ち入りの日には、児玉氏の親族などにより義士祭が行われており、法要やそばの接待が行われています〉

福本日南は、今の西日本新聞の前身だった九州日報の社長兼主筆だ。ところで、この桃中軒雲右衛門が、津屋崎の天神町に住んどったのを知っとうや?」
清 「何も知らん。第一、桃中軒雲右衛門どころか、浪曲というのもよう知らんもん」


写真③:明治40年代に爆発的な人気を得た名浪曲師・桃中軒雲右衛門
     =06年12月27日、田中香苗氏著『津屋崎風土記』から複写
    
琢二 「浪曲は浪花節とも言い、明治時代初期から始まった演芸三味線の伴奏に合わせて節を付けて歌う部分と、語りの部分を一人で演じる寄席演芸たい。〈浪花節だよ、人生は〉と言われるように、義理人情の世界を題材にした演目が多い。明治時代の初期に、大阪の芸人浪花伊助が新しく売り出した芸が大うけして、その名前から〈浪花節〉と名付けられた。以後、明治40年代に一世を風靡した桃中軒雲右衛門や二代目広沢虎造の活躍で戦前まで全盛を迎えた。私の若いころは、広沢虎蔵の浪曲、『清水次郎長伝』なんかが、NHKラジオ放送の番組で流されとったから、〈旅行けば、駿河(するが)の国に茶の香り…〉などと、語り口調を真似して唸ったもんや」


写真④:福津市が建てた案内標示に書かれた「新泉岳寺」の解説文
     =「新泉岳寺」境内入り口で、06年10月28日午前10時58分撮影


清 「へー。それで、桃中軒雲右衛門は、どげな浪曲をやっとったとね」
琢二 「桃中軒雲右衛門は群馬県出身で、父親は吉川繁吉といい、祭文語りをしていた。雲右衛門は、松の盆栽と金屏風を両側に置いた舞台で、富士山のように裾にゆくほど左右に広がるテーブル掛けの席の立ち高座で語る舞台演出を考案し、浪花節人気を高め、浪界の宗家とか、浪聖とも呼ばれた。修行中に静岡県で東中軒という駅弁当屋で空腹をしのいだため、富士山よりも上にある雲のように雲から上はないような芸人になりたいと願って、26歳だった明治25年(1892年)に祭文語りの二代目繁吉を桃中軒雲右衛門と改名した。雲右衛門の語りは、腹の底から唸り出すような祭文調の美声で〈人生わずか五十年、二十五年は寝て暮らす、朝寝十年、うたた寝十年、残り五年を居眠りすれば、人生しまいにゃゼロとなる〉の語り出しが、当時の庶民に大受けしたそうたい」

清 「なかなか名調子の台詞やね。で、雲右衛門は、いつごろ福岡県に来たっちゃろうか」
琢二 「日本で孫文を支援して〈辛亥革命〉を支えた革命家となる前に、浪花節で自伝を語り歩いていた弟子で熊本県生まれの宮崎滔天(とうてん)の紹介で九州日報に売り込み、明治36年(1903年)6月、日露戦争前の軍国主義日本の武士道鼓吹を目的に、義士伝『神埼与五郎東下り』を博多で旗上げ興行し、息の長い名調子で聴衆を酔わせ、大入りの好評を博した。明治40年(1907年)には東京の本郷座で総髪、紋付袴姿で『義士伝』を口演、約1か月の大入りを続け、名声は日本国中に広まった」
清 「津屋崎に住んだいきさつは?」
琢二 「海が好きで時々、津屋崎には遊びに来ていたらしい。大正4年(1915年)ごろ、喉頭病の療養のためか、天神町の鐘川商店の近所に弟子と一緒に住んどったが、大正5年に43歳で病死したそうだ」


清 「津屋崎の〈義士祭〉=写真⑤=は、どういう歴史があると?」
琢二 「以前の〈義士祭〉は、地元の郷土史家らで組織した〈四十七士をしのぶ会(古野卯平会長)〉が昭和50年(1975年)から主催し、記念塔前で、羽織に鉢巻姿の討ち入り装束の会員と市民らが参加しての法要や、仏教婦人会、吟詠グループによるご詠歌や詩吟を披露。このあと、同会から墓参者に義士が討ち入り前に食べたという〝討ち入りそば〟約千杯や、縁起ものの目刺しが振る舞われとったが、会結成10年を経た昭和60年(1985年)に、会員の高齢化や、『地域の人たちへの義士の心の理解も深まった』として会を解散。翌61年以降の法要は、児玉家にバトンタッチされている。


写真⑤:「津屋崎義士祭」の旗や幟が立つ新泉岳寺
    =天神町で、06年12月14日午前11時01分撮影

清 「今年の〈義士祭〉は、曇り空の下、午前11時から四十七士の各墓=写真⑥=に線香が立てられた境内で法要が行われた。福津市宮司にある真言宗・〈海心寺〉の吉原泰祐住職らが記念塔前で読経し、参列者が次々と焼香した。児玉家を代表して津屋崎の京塚萬次郎さんが『皆様のご協力で、義士祭を毎年続けていきたい』と挨拶しとんしゃった。このあと、『刃傷松の廊下』などの詩吟や剣舞=写真⑦=が披露され、なかなか良かったよ。正午から境内に張られたテントの席で、参列者に振る舞われた〝討ち入りそば〟=写真⑧=をいただいたばってん、おいしかったばい」


写真⑥:「新泉岳寺」境内に建てられた四十七士の墓
    =天神町で、06年12月14日午前11時02分撮影


写真⑦:四十七士の墓の前で披露された剣舞
      =「新泉岳寺」で、06年12月14日午前11時44分撮影

琢二 「おい、おい。そばを食べるのが目的やないぞ。義士たちには、武士の一分(いちぶん)が大事なことやったということを理解せんとな。今の世の中、利ばかりがもてはやされて、義がないがしろにされとる。いじめの問題も、卑怯な真似をするのは、武士の恥だという心構えがあれば、少なくなろう。日本人のバックボーンであるいい意味の武士道を子供の時から教育せんといかんばい」


写真⑧:境内に張られたテントの席で、参列者に振る舞われた〝討ち入りそば〟
     =新泉岳寺で、06年12月14日午後0時10分撮影


万松山新泉岳寺(福岡県福津市津屋崎天神町):◆交通アクセス=〔電車・バスで〕西鉄宮地岳線津屋崎駅下車、徒歩5分。JR鹿児島本線福間駅下車、西鉄バス津屋崎橋行きに乗って「津屋崎駅前」で下車し、徒歩5分〔車で〕九州自動車道古賀インターから約25分。

福津市・「新泉岳寺」位置図
 福津市津屋崎天神町の「新泉岳寺」位置図
        (ピンが立っている所)
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