気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

世界・宇宙という「夢」 その4

2019-03-02 13:30:48 | 語り部の章
私は子供ころに父親に連れられて、怪談映画を観に行った記憶があるが、
子供ながら、そのオドロオドロさに耐えきれず、客席の後ろにじっと隠れたまま、
決してスクリーンを見ようとはしなかった(笑)、
今では懐かしい記憶だが、それが人によって創られた「恐怖の物語」であるとわかっていたならば、その歪(いびつ)な観念や恐れの表現に辟易しつつも、
恐怖に色付けされた感情の嵐に巻き込まれずに、適当にやり過ごすことができただろう。

幻想、仮想現実とはそういうものだ。
同じく、この世界・宇宙さえも(宇宙)意識の創り出す幻想なのである。
・・・

誰でもそうだが、人が夢を記憶できるほど意識内面に注力できる段階ならば、
夢を見ているときは、大概その時は、それが夢だと思っていないことを”知って”いる。
つまり目の前の現実として、いや意識の知覚世界として、
真剣に ”夢中で”対応しているのが常だ。

そうではないか?
この現実という世界も、同じく、意識が観ているものに過ぎないと理解できるはずである。

理解とは単に言葉、概念を知ることではなく、悟ること。
悟るとは・・ほかでもなく・・”わたし-自身が--それ”だと気づくことだ。


見る・聞く・嗅ぐ・味わう・触れるという、
苦痛と快感を伴う実にリアルな身体感覚、そしてそれに反応する脳マインド・こころによって、これこそが現実だと思い込み、その思い込み・集合信念によって、
この世界での観察母体であるはずの肉体の、その出現(生誕)と消滅(死)のサイクルにはまりこむのだ。

意識の投射する、同じような”信念体系”の世界に繰り返し、夜に寝て、また朝起きるように、非顕現と顕現の間を行き来することが・・輪廻転生と言えよう。



意識は、認識・知覚対象を”現実”とみなす性質があり、
それがマーヤと言われる神(マインド)の創り出す、仮想現実というリアルな物語となる。


知覚するとは、意識の働きであり、それ自体によって、
意識の対象である・・・世界・宇宙が顕現しているということだ。

人生において、真に探究すべきは、無限に拡散する”物的現象世界”でもなく、
様々に変幻する”こころ、思考、マインド”の世界でもなく、
それらすべてを自身の中に内包しているところの、・・真なる・・わたし自身の本質だ。

その探求過程を、魂の進化や悟りへの道などと呼んで良いだろうし、
またそれに執着する必要もないと思う場合もあるだろうが、

下りに下った、今の次元世界では、朽ち果てる肉体を自身だと思い込み、
その中でまどろんでいる魂・意識が多いのかもしれないし、
またそういう視点、観点すら探し当てていないのかもしれない。

しかしながら、夢を観る者に終わりがなくとも、
見ている夢の物語自体には、はじめと終わりがあると知らねばならない。


毎日眠り、毎日目覚める・・その意識のプロセス、
無意識から意識への変遷と”同時に”起きる世界の出現と消滅という、
顕現と非顕現のサイクルを、誰もみな、
いつも、常時・・目撃していながら・・気づかず素通りしている。

多くの人が、どこか「自分は単に肉体だ」と信じ込んでいるため、
毎日の生活の基本は、ただ単に、体が眠って、目覚めるだけと思っているし、
また自分たちの肉体の生存のための、飴と鞭でできた社会的システムに、
我勝ちにはまり込んでいることも多いかもしれない。

気づけばかなりな悪夢のようなシステムであるが、
そこには、何もせずとも気づかずとも、自動的に許されるような
つらい奉公にもいつか来る”年季明け”等は無いとも言えよう。

なぜならば、
自身が仮想現実を映し出している元締めであるからには、
それぞれ、わたし自身以外に、誰も・・その解除を行えないからである!

I AM THAT I AM.

こういう話も、どこか荒唐無稽な「夢物語」と思うだろうか。
あるいは現実だと思うだろうか?

夢の物語の中で、わたしたちはどこからきて、どこへ行くのだろうか?

そして、その夢を・・観ているのは・・誰だろうか?


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