気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

意識の話(45) 夢と眠り その2

2017-11-16 05:08:10 | 真我実現シリーズ
人間は肉体、こころ、魂だということに気づいている人もいるだろう。
あるいは、人生・生活、存在とは、
様々な諸現象と、それを知覚認識する働きで作られていることも理解可能だろう。
そう・・知覚しているのが・・わたし・・である。

意識の進化というか、気づきの拡大に伴い、
肉体、物質、物量で終始していることから”意識的”に脱して、
魂・こころの観点から見ることが極めて重要である。

意識を・・外側の現象世界から、中心にひきもどすこと。
台風の外側の暴風雨、荒れ狂う刺激の世界も良いのだが、
その中心の空(くう)あればこそだと・・気づくということだ。

世界を観ているのは・・誰なのか?
生きているのは・・誰なのか?
幸や不幸を感じているのは誰なのか?
苦痛や快楽を味わうのは誰なのか?
考えるのは誰なのか?
生きているのは誰なのか?
死ぬとされるのは誰なのか?
生まれるのは誰なのか?
笑うのは誰なのか?
泣くのは誰なのか?

大勢の世間ではない。
目の前の物体ではない。
会社のトップではない。
どこかの大統領ではない。
火山や地震ではない。

そして、身近な私の肉体ではない。
もっと身近な思考・感情ではない。

それらはすべて・・
<わたし>の・・・知る・感じる”対象”なのである。

そのわたし・・が内面といわれるものだ。

多くの人は、幼いころから仕方なく、
世間一般の観念に合わせて、
わたしを・・単に頭脳を持つ肉体個人だとして育てられた。
そして、若いころには様々な疑問があったとしても、
あとは知らない、とにかく目先を生きるだけだと・・、
そういう風に流されていくわけだが、

世間一般の人生の惰性、慣性そのままならば、
それらの人生の繰り返しが、
時空間、時代、地域を超えて輪廻転生という形で引き継がれる。

I AM THAT i am.だからだ。
自己創造は、宇宙すべてがそうであり、
あなたやわたしも・・例外ではない。、

それぞれのわたしは・・至高の存在である証拠だ。
わたしは・・在る・・創造の根源のその息吹だ。

しかしながら、それ自体に気づかないのは、
自らの何たるかを・・真剣に知ろうとしないからである。

わたしはね・・世の中の多くを知っているよ・・とする場合も、
対象、現象の多くを観察し、考察していることを示すが、
それを観察・考察している・・当事者・・わたし・・のことはどうだろうか?

その・・わたし・・を観察することは、
あらゆるすべての・・
より根源の方向に気づいてゆくということなのだ。

それをより高次元の方向というのも、何か階層、階級的なイメージがあるものの、
それは無限なる・・わたしの本質に気づいてゆくということだ。
肉体の突然変異の進化のことではない。

わたしは男だ女だ、身長は、性格は、生年月日は・・、
それらで簡単にわたしを規定してそれがすべてだと、
いったい他者の誰が責任証明できるのか?

わたしは・・在る・・ではないか。

様々に立ち現れては消えてゆく現象を追いかけるのではなく、
それを認識している、知覚している、
もっと根源的な・・意識・・という観点からの話である。

あらゆるすべてに”気付いて”いる・・働きがなくて・・
どうして現象が、そこにあると認知できるのか・・
いいや出来はしない・・ということだ。

宇宙創造は創造物だけが勝手にワーワー騒いでいるだけではなく、
それを観察・観照するからこそ、そこに宇宙があると知ることができる。
たとえば、
あなたが絵や彫刻やあるいは写真、小間物、文章などを創作する、
出来上がり具合を見て評価する・・、良いの悪いの、もっとここが・・、
それと本質的には同じことである。

・・・
さて、夢の話だが、

夢を見ているときは、”わたし”感覚は明らかに存在しているが、
それがアバウト、おぼろげではあっても、
いわゆる現実と全く異なる環境にあって、
それでも何か真剣に対応しているはずである。

夢の中の環境や色々な人たちが居て、以心伝心でやり取りしていながら、
あなたは何事かを経験しているわけだが、
「これは夢だ」とは思っていないだろう。
不思議なことに、「これは夢だから・・」とは思っていないのだ。
「へっ、夢だからね」とは扱わないはずだ(笑)。

これはつまり、夢見の意識では、
日常の目覚めた後の現実生活の思考形態が、
そのまま出ているわけではないことを示す。

常識からすべてを、あれこれ判断しているわけではないわけだ。
・・
もしそうであれば、これが現実とは違う単なる夢だ・・と、
完全に認識しているはずである。
夢での意識は、現実での意識と違うというよりも、
現実での様々な観念が・・希薄になっているということだ。

現実という目覚めた後の日常生活で培った様々な常識観念が、
夢見という意識レベルでは、
それが希薄になっているということである。

意識・・わたし・・は・・存在していることを知っているが、
わたしが・・在ることは自覚しているが、
こころ模様、様々な観念の覆いが少ないということだ。

夢見の状態は、その意識レベルが異なっている・・ともいえよう。
その時の”身体”の脳波を、外部の人が測定したならば、
確かに脳波測定では・・シータ波が優勢になっている。
またそれは、瞑想時の脳波に近いとも言われている。

あるいは、その状態は霊能力、超能力、遠隔認識、リモートビューイングなど、
そういう意識的能力が起きる状態ともいわれている。
(これはもちろん、教科書的公認情報ではないが・・)

エジソンは様々な発明を行ったが、常に意識して眠りの状態、
詳しく言えば半覚醒意識に入っていたといわれている。
既成の常識観念の被い、障りのない意識に移行していたということだ。
自らの意識を、創造のより根源に近いレベルに移行せしめる努力をしていたということだ。
99%の努力は、何も汗水たらす肉体努力だけではない。

誰に言われるわけもなく、気づくことは、
意識の状態、あるいは意識レベルは、目覚めと夢見の間では違うということだ。
意識は意識であっても、その知覚対象、様相、可能性などが違うのである。

眠りや夢というものを全く価値のないものとする、
世間一般の観念の中で終始している間は、この事実になかなか気づかない。

24時間といわれる常在の経験において、
目覚めた後の、それぞれの”わたし”の世界は、
わたし意識の現象化された世界である。

色即是空の「色」であり、つまり諸現象ひいては世界、宇宙だ。
なので、現実が、現実が・・と騒ぐ世界とは、
色・色・・・つまり”いろいろ”なのである。

しかしながら、そればかりに終始していれば、
外部刺激ばかりに巻き込まれ、
肉体感覚以外は、何が何だかであり、
どうして世界は酷いのか?・・
なぜ彼はあーなんだろう・・、
なぜ、私は幸せではないのだろう・・・
でも、いつかきっと幸せになるだろう・・、
そんなことで終始するかもしれない。

そして、
それすらも・・わたしが在る・・が故である。

外側の観念から自分を規定し、わたし以外の何かになること、
あるいは物質・肉体の中で、永久に惰眠することは決してできない。

なぜならば、
わたしは・・・常在・・・時空を超えて在る・・
わたしは、わたし・・なのであるからだ。






意識の話(44)夢と眠り その1

2017-11-14 05:34:10 | 真我実現シリーズ
わたしとは、・・意識、気づき・・その働きそのものである。
それは物体という対象物、観念という思考対象などではない。
また巡らす思考そのものでもない。
それらすべてを生じさせるものであり、また同時にその観察者である。

私たちが、高次元の存在・・という、スピリチュアルな表現は中途半端であり、
すべての”ひとつ”の”根源”からの自己表明そのもの・・というべきものだ。

すべての・・わたしたちは、時間空間を超えた、
つまりそれを自らに内包した・・・至高の実在である。

すべては意識・・の視点から見なければならない。
今までのように、
外側から見た肉体・個体の視点から見た自己像は、
ようやくだが、ある意味で卒業せねばならない。
---、

我々の常時存在形式である24時間のうち、
夢も目覚めた後と同じく・・・やはり”意識”が見るものだ。
直接・・・”わたし”・・が見ているはずだ。
体が見るものではないし、頭脳が見ているわけではない。

多くの人はいつも、肉体の外から自分を規定している。
身長、体重、性別、・・etc 。

子供のころからそうだ。親もそういう扱いをするし、
社会もそういう風にみている、みんなで仲良く・・だ。
なので、自分が肉体・個体だと思い込む。

全ての観察が内面から、起きているにもかかわらず、
思考や感情が「意識」の働きであるにも関わらずだ・・。

学のあると自認している人は、自分は頭脳だ、と言って、
後は知らん顔である。
後で誰かが証明するだろう・・とする。

だから、「わたしとは何か?」という本質的な問いに対して、
答える事さえはばかられ、
良くて身体のことしか、思いつかない。
「え、?わたし・・って、それ何の話?」
すべての発生源である・・わたし・・は想定外に置かれている。

それよりも、私が見る、聞く、感じる・・
その対象の変幻する様や、その創造過程に夢中なのである。
つまり外の世界が面白く多様で、また暗く・悲惨なことに気づくが、
その気づきの根源である・・わたし・・を観ていない・・。

3次元世界というのは、時空間の事物の動きが重要で、
人間さえもその中の動き物に落とし込んでしまう生き方、
それを知覚し、対象と認識している・・当の主体・・
観察する・・意識の次元軸が・・なかったとも言えよう。

-------
熟睡中も、夢に見入っている場合も、
そのとき、意識的実在感としての「肉体」は無い。

夢で何かを経験している場合の身体は・・何か、有るようで無いものだ。
あるいは、意識の視点だけがある・・そんな感じかもしれない。

また、
完全熟睡しているときには、知覚感覚がないため
肉体も実感しなければ、こころの働きもない。
熟睡とは・・無意識状態であると言われる。



そうではないか?
意識から見たとき、
・・そのとき・・<私個人>身体も、存在していない・・のである。

えー?存在していない?
「馬鹿言うな、私は眠っているだけだと・・」そう言うだろうし、
あなたが目ざめてから、誰かそばにいる人が、
「あんたよく眠っていたね~」というだろうが、

そのとき・・、熟睡しているとき、
それを認識している・・誰もいない・・のだ。
そのとき、
肉体もなければ、マインド・こころ・思考もない。

後で、あれは熟睡中だった・・というのだ。
熟睡時には、意識の視点から見れば・・私は存在していない・・

(つづく)

意識の話(43)夢とは何か その3

2017-11-08 05:58:32 | 真我実現シリーズ
夢とは何かといえば、それは見るものだ、いや観るものである。

肉眼で直接見る・・ではなく、それを含んだ意味合いである「観る」だ。
観察、観賞、・・である。
映画を観るのと変わらない。

観察とは”知覚”によって起きるものだ。
さらに、”知覚”とは、知ること、覚ること・・
つまり”意識”行為だ。

断っておきたいが、
意識・・は計量、測定する対象ではなく、
対象認識の働きである。
重さも大きさも、質量密度もない。
だから存在しない・・とパリサイ人は言うが・・(笑)

存在そのものを・・存在せしめている働き・・知覚、気づき
それを無視しているということだ。
すぐそばにある・・深い闇とでも言えよう。

自己自身に気付かず、自己の観る、見る対象ばかりを集め、
値付けし、売り買いするゲームに夢中ということだ。

誰が・・目の前の景色を見ているのか?
何が・・世界を知るのか?
何が・・宇宙を観測、観察しているのか?

知覚・観察している当の者は、影も形もないが、
影や形を・・知覚対象として存在させる・・!

目や、耳が直接「わたしは見ている、聞いている」とは言わない。
それは観察”器官”だ。
そうではないか?

それでは何が、”誰が”観ているのか?といえば、
わかった風な物知り達は、頭脳だ・・というのだ。
脳内の神経細胞が枝葉を伸ばし、交差し、
様々な電気的な情報を組み合わせていることが観察されるため、
それが頭脳である、頭脳が見ている、聞いているというのだ。

あなたも知っているだろう。
動物と人間の違いは、頭脳の違いにあると・・。

昨今は処理速度や記憶容量、内部アルゴリズムの進化した、
人工的な頭脳が人間を超えたとか・・
これで早く売り買いできれば、多くを知れば、支配が容易だとか、
乗り遅れるとまずいだとか、・・経済、経済とは言っているが
要は金もうけや物質・人間支配の道具の意図がありありであって、

つまるところ、そんなことに利用される頭脳は、
宇宙の摂理から言って、当たり前のように、
「たまったものではない・・」と判断するだろう。(笑)



なぜならば、そこには・・人間を人間以下に扱おうとする思想が、
すでに色濃く反映されているからだ。
人類文明が自らを壊そうとする行為であることに、気づけないのだ。

ここまで来れば、旧来の文明はそう長く持たないことがわかる。
残念ながら、・・いや、それもまた良いかもしれない。
あらゆるものが変化変遷するのが、相対世界の常だからだ。
これも当たり前だ。

ところで、・・わたしは・・その相対世界の中の物体なのか?
考える・・動きもの・・動く物・・なのか(大笑)。

外から入ってくる様々なメディアの情報は、
もっともらしく、優し気に、法的制度も添えて、
わたしが・・肉体個人であることを繰り返し繰り返し宣伝している。
その中で仮に死んだとしても、だれも責任を持つことはできない。(笑)
当たり前だ・・。
古くから・・地獄・極楽などというが、どちらも両極であり、
まったくこの世界の中にはまり込んでいる図式を言っている。

簡単に言えば、
広大無辺たる意識・神・・が、何者かに自己投入・個人化して、
またその肉体個人の集団が、自己崩壊を仮に体験するような、
稀有なゲームを行っている・・そんな世界であったといえようか。

ここでよく言うように、
感覚付き立体映画の中に自己投入し、自らを忘れ、
毎回毎回、何が何だかの人生からスタートする、
そんな世界であったといえるだろう。

実にリアルで、詳細精緻、記録大量・・な、仮想現実世界なのである。
あなたが神であるがゆえに、こういう世界を創ることができるわけだ。
それは夢と本質的に変わりない。
夢も、生活も、整備された情報が異なるものの、

観ていることには変わりがないからだ。



・・・

夢を観ているのはだれだろう?
生活空間の様々な物事を見ているのは誰だろう?
宇宙を観ているのはだれなのだ?
いや何が、世界や宇宙や、身の回りを観ているのだろうか?

誰が、それを観察しているのだろうか?
頭脳が・・観察、知覚している・・というが、
それは情報処理機関の働き、あるいは機能、アルゴリスムの
なるほどね・・という、一つの科学的な?説明である。

しかしながら、そういういうのは誰か?
誰か?というと、あなた私、彼?という肉体個人のイメージがあるが、
まったくそうではない。
ここに”次元”の違いがある。

高い低い・次元とは・・宇宙人様?の世界のことではない(笑)。

・・
観ているのは・・わたし以外にないが、
その<わたし>は、肉体の中にいると考えている・・、

あるいはもっと詳細な説明を使って、頭脳の中にいると想定する、
あるいは”その全体”という肉体個人だと・・そう「想って」いることに、
・・・それに、気づけるだろうか?

実は・・これも「想念」なのである。

わたしとは、観察・知覚する働きそのもの、<意識>と気づくか?
あるいは、肉体の中にいる個人と「考える」か?

ここに次元の違いがある。
簡単に言えば、次元とは、観察の視点である。
観察とは・・意識がするものだ。

意識の上に波立つのが・・・想念である。
実に複雑な波模様、こころ模様だ。

そして、
想念によって・・形が、容が現されている。
宇宙さえも、壮大な想念の描く物質的幻影である。
幻影といっても、見る聞く感じることができる・・それだ。

あなたがいればこそ、
あなたの・・・想念・・の世界が無限に展開するのだ。

そして、
神・真我、呼び方はなんでも、
それが・・創出した・・魂・意識は・・想念の壮大な、活きた常在の記憶である。
それが・・夢・・創造、宇宙だ。

それを観ているのは、誰か?

・・・


さすがに先達の句には、実に味わい深いものがある。

露とおち、
露と消えにし わが身かな
難波のことも
夢のまた夢





意識の話(42)夢とは何か その2

2017-11-06 06:22:52 | 真我実現シリーズ
夢は見るものだということは誰でも知っている。
いや、見るというのは正確ではなく、「観る」ものだ。
肉眼で見る・・ではなく、内面意識で観ている・・わけだ。

それを心の眼で見ているといってもいい。
昔から”心眼”といわれているそれだ。

何を観ているのかといえば、明らかに物質形ではない。
目ざめて意識が起きだした世界で、五万とある物質といわれる諸形態ではない。
なぜならば、そのときあなたの肉体はスヤスヤ眠っているからだ。

これは誰かに確認してもらう必要もなければ、何も数式で証明する必要はない。
”わたしの存在”の形式そのものだからだ。

それで、夢で見ているのは何だろうか?
随分とアヤフヤで、あり得ないようなストーリー展開や、
日常のマインドから見れば論理的でもない場合が多く、
したがって、憶える気にもならないものが多いはずだ。

というか、”現実的”でないために、憶えていないのである。
つまり見ていても、認識していない・・、
”心ここにあらずして、何をか見いださんや・・”なのである。
そんなこと聞いてないよ!・・だ。(笑)

逆に、熱心に夢を覚えている人もいて、夢占いや夢予知という形に昇華して、
何事か意味ありそうな情報として、現実に応用しようとする人もいる。
よく言えば、つまり夢にも・・意味があることに気付いているともいえようか。

それは、夢見によって現実の在り方を解こうとしたり、
夢見によって未来を推し量ろうとすることでもあり、
現実生活のすそ野を広げる行為といえるかもしれない。

ちなみに、夢見の意識状態は、肉体の五感情報の窓以外のルートであり、
リモートビューイングや霊視などと近い意識状態でもある。
脳波でいえば、シータ波前後の意識レベルだ。

夢での予知なども良くあるわけだが、大体が当たるも八卦、当たらぬも八卦である。
肝心なのは・・当たる当たらない、妥当か妥当でないか・・ではなく、
夢とは・・”意識表面に浮上した”情報である・・ということだ。

それら、まったく個人的な事柄から、人類集合意識までの壮大なものまで、
つまりは、無意識レベルのものが、意識レベルに浮上したということだ。
・・・
知覚範囲が拡大した、気づきが増大した・・ともいえよう。
あるいは意識レベルが上昇し、見晴らしが良くなった、
普通は見えないものが見えるようになった・・ともいえよう。
だからと言って霊的に偉くなった・・わけではない。



では、夢では何を観るのか?といえば、
まず、自分の「こころ」「想念・記憶」を観ているのである。

夢をよく覚えている人ならば、これがわかるはずである。
つまり、
日常での印象や、裏で気になっていること、心配など、
そういうものが夢の物語に複合化されている。

意識レベルによっては、前世とか、他生の記憶なども出てくるはずだ。

はめえパズルと気づけるならばしめたものだが、
”こころを観る・・”という意識レベルに気づかない場合には、
もう、何が何だか・・ということになる(笑)


潜在意識下では、時空の制約がないために、
つまり意識レベルが異なるために・・、

覚えてもいない幼少期の夢や、考えてもいない何者かの姿や、
あり得ないような恐れなども出てくるものだ。

つまりは、その人の”こころ模様”が物語化して現れているのである。
それも実に様々なものが複合して表れているために、
何が何だか・・のような夢物語になる場合が多いのだ。

漠然と「こころ」と言っているが、決して軽く扱うわけにはいかない。
なぜならば、
”こころ”が・・・夢見や現実世界の展開模様を決めるものだからだ。
あなたはロボットではないわけだ。

こころとは・・想念の集合体。
その想念が、その世界を展開しているのである。
個人も、集団も人類も・・・その心、想念で不可思議につながっているわけで、
それを集合意識と言っている。

夢を見るとは、超簡単に言えば、
自己という、パソコンの記憶ファイルをランダムに開いているとでも言えよう。
なにせ、夢だからと言っていい加減に扱っているがゆえだ。

記憶ファイル・・とは心・・のことである。
さらにその記憶ファイルとは、
今回生まれた後の経験と思考、感情だけとは限らない。
なので、さらに訳が分からない夢となることもあるだろう。
・・
こころ・・記憶、魂・・は同じレベルのものだ。
それは、活きた想念・・その中には過去も、現在も、未来もある。

いわゆる、現実を生きる、体験する物語を創る、
あるいは生まれ変わる・・のは、魂・想念集合体である。

普通の夢とは、そういう想念をランダムに観る行為だ。
さらに、この現実生活というものも、同じく、
肉体という存在形態に備わる五感が”追加”された・・観察行為なのである。

そして、現実や夢を・・・観ているものは”誰”なのか?

そう・・、わたしだ・・!

では、その”わたし”とは・・何か?





意識の話(41)夢とは何か・・その1

2017-11-05 05:58:16 | 真我実現シリーズ
すべては意識である・・と聞いたことがあるだろう。
すべてが意識?・・・どういう意味?だろうか。

意識とは、わたしが「意識している」状態といっていい。
そうではないか?

何かを”意識”している。
何かに”気づいて”いることだ。
人は四六時中、何かを”意識”している。


街中を歩く、仕事場で人と話す、金勘定をする、買い物をする
物を食べる、トイレで排出する、映画を観る、散歩する・・
それらすべてにおいて何事か意識している。
しかしながら多くが漠然と、”意識”しているのである。

ここがきわめて重要なことなのだが、・・
それに”気づいているか?”といえば、
ほとんど意識はしているが、その”意識に”気づいていないのだ。
意識していることに・・・それ自体に気づく・・ことだが、
この世界に生じてから、何十年も気づかない場合がある。

あなたはどうだろうか?
この微妙なところ・・自分の意識自体に・・気づいているか?

さらに、あなたの意識によって、
あなたの世界が投影されていることに・・気づくか・・だ。

他人が、社会が・・ワーワーと騒いでいることで、
あなたがそこに存在しているのではなく、
まったくの真逆が真実で、

あなたが・・在る・・ことで、
意識していることで・・世界がその存在を顕していること、
それに気づいているか?ということ。

気づかなければ、何も認識できないということだ。
当たり前だが、ここに重大な意味がある。

すべてのもとにあるのが・・意識だ。
物質と称されるものは、その対象「物」に過ぎない。


眠り、夢見、起床後の生活・・、これがこの世の存在の形式だが、
そのすべて、四六時中、常時・・あるのはなんだろうか?

例えば、多くの人は、
眠りと夢見は・・ほとんど無視しているかもしれない。
起床して後の現実生活・・
朝起きて、歯磨きして、慌ててご飯食べて、行ってらっしゃい・・、

TVでもそうやって人々を押し出してゆく。
現実をしっかり生きて、しっかり稼げと・・(笑)

普通はそういうことを真に受けて、現実という生活だけに
「意識」を集中してきただろうか。

そうやって意識は、夢見の時にもある・・ことを忘れている。
夢の話は単なる夢だとしているわけだ。

夢の時も、それがどんな状況であろうともガチ、真剣だ。(笑)
これは単なる夢だと・・自覚しつつ見ているわけではない。
悪夢で必死に目覚めたことも何度もあるだろう。

それが夢だと・・現実と違うから、別にどうということはない・・と、
そうは思わないことに気づくだろうか。
「へへーん、これは夢だから・・どうでもいいや・・」とは思わない。
なぜか、夢もその時には真剣そのもではなかろうか・・。
それは、
意識にとっては、夢も現実もまったく同じに捉えているということだ。

ただ、夢というのが、世間で非常に軽い扱いのため、
多くの人がそれに気づいていない。
あるとしても、なんとなくの夢占いとかそんなものだ。
夢にどんな真実もない・・単なる「夢」としているわけだ。

それは、自分のことを物理的肉体だと・・信じ込んでいるため、
物理的?な世界だけが事実であるとしているためだ。
・・・
しかしながら、「意識」から見れば、夢も”意識で”知覚しているわけで、
現実という五感というセンサーの中間介在がないだけで、
それも知覚・認識に違いないのである。

「だって、夢なんかいい加減じゃない」・・
「現実とめちゃめちゃ乖離しているじゃない、意味あるの?」
と感じているのは、元来、
その夢がいい加減なのものという・・潜在的な信念によるのである。
それもこの世の、常識的無知という流れに沿ったものである。

自己の内面をサーチするようになった人ならば、

夢というのも、意識の経験であることがわかるだろう。
いい加減であやふやで、とっぴな組み合わせ物語であっても、
それは意識している・・知覚し、経験し、気づいている対象に相違ない。
それがパズルのような、アヤフヤで非論理的なものであってもだ。
実際、夢があやふやと感じているのは、
意識が主に3次元的意識経験フィールドに”閉じ込められている”と、
そういうことなのである。

夢のパズルも、実のところ、
意識が拡大しなければわからないのである。

多次元世界と言われるのが、別の物理世界のことだと勘違いしている場合、
これもまた、大きさ、重さなどの物質次元の意識に固定されていることを示すものだ。

夢も、その他の夢のような経験も、
いわゆる現実と同じく、”意識”の経験なのであればこそ、
”夢なんかいい加減”何の価値もない、
”覚えていない”という意識的行為でゴミ箱に捨てることは、
実に無知蒙昧で、もったいない・・常識信念であるといえようか。

そしておなじみの、この現実世界というのも、
五感という肉体機能を介在した、意識の経験に過ぎない。

すべての背後にあるのが・・意識、気づきである。

「私は肉体存在でしかない」という信念であれば、
意識内面に、そういう想念が覆っていれば、
当然ながら、
肉体の五感の世界だけが真実であると錯覚するのだ。

そのような錯覚の中でオロオロしてはいけない。
また逃げ隠れる必要もない。

「あなただけはと信じつつ♪・・♬・・」と、しがみつく必要もなければ、
「おら、こんな村嫌だっ」と逃避する必要もありはしない。

つまるところは、
現実生活も、そして夢も・・「意識」の知覚経験なのである。

ここ世界が唯一の・・真実ではないように、
また、だからと言って夢の世界が、これこそは真実・・でもない。

それらを見ている、観ている・・者は・・誰か?




(つづく)