夢は見るものだということは誰でも知っている。
いや、見るというのは正確ではなく、「観る」ものだ。
肉眼で見る・・ではなく、内面意識で観ている・・わけだ。
それを心の眼で見ているといってもいい。
昔から”心眼”といわれているそれだ。
何を観ているのかといえば、明らかに物質形ではない。
目ざめて意識が起きだした世界で、五万とある物質といわれる諸形態ではない。
なぜならば、そのときあなたの肉体はスヤスヤ眠っているからだ。
これは誰かに確認してもらう必要もなければ、何も数式で証明する必要はない。
”わたしの存在”の形式そのものだからだ。
それで、夢で見ているのは何だろうか?
随分とアヤフヤで、あり得ないようなストーリー展開や、
日常のマインドから見れば論理的でもない場合が多く、
したがって、憶える気にもならないものが多いはずだ。
というか、”現実的”でないために、憶えていないのである。
つまり見ていても、認識していない・・、
”心ここにあらずして、何をか見いださんや・・”なのである。
そんなこと聞いてないよ!・・だ。(笑)
逆に、熱心に夢を覚えている人もいて、夢占いや夢予知という形に昇華して、
何事か意味ありそうな情報として、現実に応用しようとする人もいる。
よく言えば、つまり夢にも・・意味があることに気付いているともいえようか。
それは、夢見によって現実の在り方を解こうとしたり、
夢見によって未来を推し量ろうとすることでもあり、
現実生活のすそ野を広げる行為といえるかもしれない。
ちなみに、夢見の意識状態は、肉体の五感情報の窓以外のルートであり、
リモートビューイングや霊視などと近い意識状態でもある。
脳波でいえば、シータ波前後の意識レベルだ。
夢での予知なども良くあるわけだが、大体が当たるも八卦、当たらぬも八卦である。
肝心なのは・・当たる当たらない、妥当か妥当でないか・・ではなく、
夢とは・・”意識表面に浮上した”情報である・・ということだ。
それら、まったく個人的な事柄から、人類集合意識までの壮大なものまで、
つまりは、無意識レベルのものが、意識レベルに浮上したということだ。
・・・
知覚範囲が拡大した、気づきが増大した・・ともいえよう。
あるいは意識レベルが上昇し、見晴らしが良くなった、
普通は見えないものが見えるようになった・・ともいえよう。
だからと言って霊的に偉くなった・・わけではない。
では、夢では何を観るのか?といえば、
まず、自分の「こころ」「想念・記憶」を観ているのである。
夢をよく覚えている人ならば、これがわかるはずである。
つまり、
日常での印象や、裏で気になっていること、心配など、
そういうものが夢の物語に複合化されている。
意識レベルによっては、前世とか、他生の記憶なども出てくるはずだ。
はめえパズルと気づけるならばしめたものだが、
”こころを観る・・”という意識レベルに気づかない場合には、
もう、何が何だか・・ということになる(笑)
潜在意識下では、時空の制約がないために、
つまり意識レベルが異なるために・・、
覚えてもいない幼少期の夢や、考えてもいない何者かの姿や、
あり得ないような恐れなども出てくるものだ。
つまりは、その人の”こころ模様”が物語化して現れているのである。
それも実に様々なものが複合して表れているために、
何が何だか・・のような夢物語になる場合が多いのだ。
漠然と「こころ」と言っているが、決して軽く扱うわけにはいかない。
なぜならば、
”こころ”が・・・夢見や現実世界の展開模様を決めるものだからだ。
あなたはロボットではないわけだ。
こころとは・・想念の集合体。
その想念が、その世界を展開しているのである。
個人も、集団も人類も・・・その心、想念で不可思議につながっているわけで、
それを集合意識と言っている。
夢を見るとは、超簡単に言えば、
自己という、パソコンの記憶ファイルをランダムに開いているとでも言えよう。
なにせ、夢だからと言っていい加減に扱っているがゆえだ。
記憶ファイル・・とは心・・のことである。
さらにその記憶ファイルとは、
今回生まれた後の経験と思考、感情だけとは限らない。
なので、さらに訳が分からない夢となることもあるだろう。
・・
こころ・・記憶、魂・・は同じレベルのものだ。
それは、活きた想念・・その中には過去も、現在も、未来もある。
いわゆる、現実を生きる、体験する物語を創る、
あるいは生まれ変わる・・のは、魂・想念集合体である。
普通の夢とは、そういう想念をランダムに観る行為だ。
さらに、この現実生活というものも、同じく、
肉体という存在形態に備わる五感が”追加”された・・観察行為なのである。
そして、現実や夢を・・・観ているものは”誰”なのか?
そう・・、わたしだ・・!
では、その”わたし”とは・・何か?
いや、見るというのは正確ではなく、「観る」ものだ。
肉眼で見る・・ではなく、内面意識で観ている・・わけだ。
それを心の眼で見ているといってもいい。
昔から”心眼”といわれているそれだ。
何を観ているのかといえば、明らかに物質形ではない。
目ざめて意識が起きだした世界で、五万とある物質といわれる諸形態ではない。
なぜならば、そのときあなたの肉体はスヤスヤ眠っているからだ。
これは誰かに確認してもらう必要もなければ、何も数式で証明する必要はない。
”わたしの存在”の形式そのものだからだ。
それで、夢で見ているのは何だろうか?
随分とアヤフヤで、あり得ないようなストーリー展開や、
日常のマインドから見れば論理的でもない場合が多く、
したがって、憶える気にもならないものが多いはずだ。
というか、”現実的”でないために、憶えていないのである。
つまり見ていても、認識していない・・、
”心ここにあらずして、何をか見いださんや・・”なのである。
そんなこと聞いてないよ!・・だ。(笑)
逆に、熱心に夢を覚えている人もいて、夢占いや夢予知という形に昇華して、
何事か意味ありそうな情報として、現実に応用しようとする人もいる。
よく言えば、つまり夢にも・・意味があることに気付いているともいえようか。
それは、夢見によって現実の在り方を解こうとしたり、
夢見によって未来を推し量ろうとすることでもあり、
現実生活のすそ野を広げる行為といえるかもしれない。
ちなみに、夢見の意識状態は、肉体の五感情報の窓以外のルートであり、
リモートビューイングや霊視などと近い意識状態でもある。
脳波でいえば、シータ波前後の意識レベルだ。
夢での予知なども良くあるわけだが、大体が当たるも八卦、当たらぬも八卦である。
肝心なのは・・当たる当たらない、妥当か妥当でないか・・ではなく、
夢とは・・”意識表面に浮上した”情報である・・ということだ。
それら、まったく個人的な事柄から、人類集合意識までの壮大なものまで、
つまりは、無意識レベルのものが、意識レベルに浮上したということだ。
・・・
知覚範囲が拡大した、気づきが増大した・・ともいえよう。
あるいは意識レベルが上昇し、見晴らしが良くなった、
普通は見えないものが見えるようになった・・ともいえよう。
だからと言って霊的に偉くなった・・わけではない。
では、夢では何を観るのか?といえば、
まず、自分の「こころ」「想念・記憶」を観ているのである。
夢をよく覚えている人ならば、これがわかるはずである。
つまり、
日常での印象や、裏で気になっていること、心配など、
そういうものが夢の物語に複合化されている。
意識レベルによっては、前世とか、他生の記憶なども出てくるはずだ。
はめえパズルと気づけるならばしめたものだが、
”こころを観る・・”という意識レベルに気づかない場合には、
もう、何が何だか・・ということになる(笑)
潜在意識下では、時空の制約がないために、
つまり意識レベルが異なるために・・、
覚えてもいない幼少期の夢や、考えてもいない何者かの姿や、
あり得ないような恐れなども出てくるものだ。
つまりは、その人の”こころ模様”が物語化して現れているのである。
それも実に様々なものが複合して表れているために、
何が何だか・・のような夢物語になる場合が多いのだ。
漠然と「こころ」と言っているが、決して軽く扱うわけにはいかない。
なぜならば、
”こころ”が・・・夢見や現実世界の展開模様を決めるものだからだ。
あなたはロボットではないわけだ。
こころとは・・想念の集合体。
その想念が、その世界を展開しているのである。
個人も、集団も人類も・・・その心、想念で不可思議につながっているわけで、
それを集合意識と言っている。
夢を見るとは、超簡単に言えば、
自己という、パソコンの記憶ファイルをランダムに開いているとでも言えよう。
なにせ、夢だからと言っていい加減に扱っているがゆえだ。
記憶ファイル・・とは心・・のことである。
さらにその記憶ファイルとは、
今回生まれた後の経験と思考、感情だけとは限らない。
なので、さらに訳が分からない夢となることもあるだろう。
・・
こころ・・記憶、魂・・は同じレベルのものだ。
それは、活きた想念・・その中には過去も、現在も、未来もある。
いわゆる、現実を生きる、体験する物語を創る、
あるいは生まれ変わる・・のは、魂・想念集合体である。
普通の夢とは、そういう想念をランダムに観る行為だ。
さらに、この現実生活というものも、同じく、
肉体という存在形態に備わる五感が”追加”された・・観察行為なのである。
そして、現実や夢を・・・観ているものは”誰”なのか?
そう・・、わたしだ・・!
では、その”わたし”とは・・何か?
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