気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

意識の話(40)この世の私とは「1つの人格想念」

2017-11-03 05:24:23 | 真我実現シリーズ
人は皆、この世界のどこかに生まれ、そして育つ過程で、その”人となり”を形成する。
普通に、人格だとか個性だとか、個人だとか言われているものだ。
”それは何か?といえば、

生まれてからの経験と思考と感情の「記憶」である。
「記憶」があるから・・”私”という人格意識が持続している。
だから、”私個人”とは記憶であるといって良い。


人格とは・「記憶」で維持されているものだ。
それは想念であり、「私は・・・である」という認識の記憶なのだ。
あれを経験した、あの頃はこうだった、こう思った、恥ずかしかった、
楽しかった、つらかった・・・それらの集合記憶である。

それが「人格」を構成しているのだ。
つまりそれは「想念形」であり、決して物質形ではないことがわかるはずだ。
そして、それは単なる記憶ではなく、
想念として再生可能な”活きた記憶”なのである

想念とは、”高次元的な波動域の情報”のようなものだ。
目には見えないけれど、あなたの意識の中に・・実際・・存在している。
そうではないか?
今でも・・そうだ。

意識が、物体・物量・金勘定の観念で毒されている場合、
自らの想念・マインド・こころが・・・観えない。

霊的時代は・・マインド・こころを超えた時代のことである。

思考、想念は・・頭脳で・・神経組織が・・ピキピキ造るものではない(笑)。
アイデアや発想がどこから来るのか?
頭脳細胞が勝手に作っているという嘘は、だれが言っているのだろうか?

意識の向ける矛先に・・現れるのが・・思考・発想だ。
集中して意識を向けるとアイデア・発想となり、
それが漠然、適当だと去来する雑念となる。

人生、生きていることとは、それ、
身体体験を通して、様々な思いや感情を経験している。
それらの経験記憶の集合が「想念の束」であり、魂とも言ってよい。

時空を超えた・・想念の束・・魂・・である。

「魂」は前世などの記憶を宿すといわれるが、
それは「想念の束」膨大な記憶であるといえよう。

魂には、様々な人格の記憶もあるがゆえに、人間として生誕できるのだ。
そして、常に・・・今ある・・わたしが主人公・・なのである。

潜在的な記憶があるがゆえに、それが次第に目ざめてくる・・・
この世に生まれて何年も経たないうちに、「わたし」という自己認識が生じるのである。

それは毎朝、深い眠りから次第に目覚めるようなものだ。
深い眠り・・半覚醒(夢見)・・覚醒(この世)・・、
普遍的な・・意識のサイクルに気づけるだろう。

真実は、気づけば・・いつも身近に存在しているもの。
身近というよりも、いつも・・わたし自身のことである。
他人ばかり、他者の姿、それら大勢の集合、あるいはその環境事物を、
追いかけまわしても、決して気づけないものだ。

真実は・・それぞれの・・わたし・・の中にある。

それは・・肉体ではなく、
”意識”の観点から見なければ皆目わからない。

意識には、大きく3つの層があるといえようか。
・・・
●深い眠りでは・・「わたし」意識がない、無、つまり表層意識がない。
●浅い眠り・夢見・・では「わたし」意識はあるが、この世的意識ではない。
そう、夢も実際マジに、その夢の世界を経験しているものだ。
●目ざめた後は、・・再びこの世という、現実世界に舞い戻る。いつもの朝だ。
と同時に、肉体の存在を知覚し、同じ世界にアンカーを下す。

その一定の時空内での(肉体・精神の)経験が人生であり、
その記憶がその時の人格となり、
さらにはその人格の記憶が普遍的なサーバーともいえる「魂」に記憶される。
したがって、魂とは・・想念の束のようなものである。
魂には・・様々な経験記憶、様々な人格記憶も含まれる。

それらの総合したもの・・魂・・メカニズム表現でいえば意識サーバーともいえようか。
無数の人格記憶は・・・あなた・・という広大な魂・意識のなかで、
混然一体となって・・さらに大きな人格的な叡智ともなっている。
ハイアーセルフ、高次の自己・・守護霊・・呼び方は何でもいい。

ロバート・モンローはそれを I THERE とも呼んだ。
(そちらの・・わたしたち・・)
あるいは、魂は活きた想念だと言ってもいいだろう。

したがって、誰にでも・・
ハイアーセルフ・あるいは霊(誤解が多い言葉だが)があるというより、
それが本質なのである。
「えー、どこにいるの?」ではなく、あなたが”それ”だということだ。

たとえて言えば、
あなたは・・本店から辺境の時空間に”出向して・・
自分が誰かを忘れ切った・・社長兼出向担当だ。(笑)
ところが実は、壮大な英知を宿した魂・意識なのである。

この世界の存在する深い意味は、そこにある。
最も過酷で、かつ最も目覚ましい・・意識の拡大がなされる時空世界。
それが・・この世といえようか。

あなたも、わたしも・・
よくもまあ、こんな愚かしい世界に出向出来たものである(笑)。
そうではないか?
しかしながら、それを果敢に為す者こそ、
壮大な英知を宿した魂・意識でなくて何だろう。


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これは余談だが、
記憶が薄まれば、ぼけ老人とか、認知症といわれるように、
自分がなんだったかさえも、定かではなくなる。
今の高齢者社会ではそれが嫌というほど増えている。
そうではないか?


それは、今の表層次元世界・・現実意識からの退避とも言えるだろう。
まるで潮が引くように現実意識から引いてゆく。
それらは偶然の成り行きではなく、また、肉体・頭脳の劣化が本質ではなく、
意識内面での退避行動であるといってもいいだろう。

「あー、疲れたよ、もういいだろう・・」
自分でも気づかぬ内面のマインドにも原因があるだろう。

もちろん、このようなマインドから、
さらに一線を越える意識成長が望まれるのだが、
その魂の成長度によってさまざまな段階もあるということだ。

あるいは、肉体維持の医療や技術は進んだものの、
意識内面の進化がなされず、また、精神・肉体環境自体も
次第に生きにくい時代になってしまったが故である
と言えるかもしれない。

高齢者社会とは、本来、人生の英知を獲得した人たちが増え、
国家社会のありかたに深みを増すということなのだが、
全くそうはならず、英知が無視され、命さえ金換算、物質換算され、
どこかに退蔵されてしまう愚かしいシステムに成り下がった感もあろう。

文明が進歩したのは、物質・機械文明部分だけであって、
精神とか、こころとか・・・そんなの「なんぼのもんじゃい・・」(笑)
聖書の中のパリサイ人ばかりになったような雰囲気では、
もういいだろう・・という精神が出てきても誰も責められない。

まず「王、金田、広岡」だ。(古いな~笑)
お金がなければどうにもならん、金さえあれば便利で安楽だ・・、
あれがおいしい、これがうまい・・肉体の安楽や快楽が得られる・・、
そんな”経済”植民地的風潮が席巻しているということだ。
まずこれがなくては・・で人生終始しかねない時代、

いくらがんばれ、がんばれ・・といっても、
魂にとって意味がなくなれば、呆けて退避と、
そういうことにもなるではないか。

忘れることで・・・退避する・・
ある種の自己防衛ともいえようか。

しかしながら、生まれてからずーっと、がんばれがんばれで、
幼児期にも味わえなかったかもしれない一種の甘えを、
最後に経験しようとしているひとの、その傍で、
共同生活、共同創造している人達はなかなかに大変である。

・・・

常識では、まっさらの赤子から次第に人格が形成される、
それは環境によって異なってくるという話になっている。
環境次第・・・だと言われているわけだ。
そうではなかったかか?

自分の記憶では、学校などでは小さいころから唯物論的な教育が行われ、
人間は物質だから、その物質系の生化学反応によって人格が形成される、
そういう話を・・・漠然と・・確実に仕込まれてきたように思える。
あなたはどうだったか?
・・・
そこで得られる信念とは、
自分が物質肉体であり、他者も皆そうであり、それぞれ別個の肉体存在である。
そして、その肉体の生命が終われば、すべて終わる・・。
そういう風なものである。

今でも社会全般でそういう流れを、繰り返し繰り返し発信している。
これが普通だ、これが正常だ、これが当たり前だと・・、
気づけばそこにはあまりにも遅い進歩しか見られない。

物を加工するのは難しくないが、こころを自らで変化させるのは、
実にむつかしいことだと、あなたはもう気づいていることだろう。

最も過酷で、かつ最も目覚ましい・・
魂・意識の拡大がなされる時空世界。
それが・・この世といえようか。

実に素晴らしい世界ではないか?

しかしながら、すべて世界は変化することをその旨とし、
宇宙が涙ながらに?用意した、
この過酷な想念と現象、その表現の可能性の世界は、
ようやくその役目を終えようとしている。

そして、最後の放出バザールのようなカルマの噴出がなされるのも、
この世ならではの事と、心得るべきなのかもしれない。