気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

わたしとは何か(18) 空(くう)より来たるもの

2015-12-20 08:06:46 | 新たなる地平線
人は皆、「魂・意識」「こころ」「肉体」という相があり、

三位一体で示すことが出来る「意識生命体」であると言えよう。

人間は、死んだら終わりの単なる肉体なんかではない。


今この世界には、まずこの事実を認識すべく、様々な情報やメッセージが出てきている。

非常に稀有な時代、特別な時が来ていることに、

出来るだけ多くの眠れる魂達が、明確に気づく必要がある。

銭・金・物・地位や名誉や、世界の動乱など、全く意味がないことも知っておくべきである。

・・・

古来より、この世界の社会的マトリクスの中で夢を見ている人々が、

まずその夢から覚めるために、

いわゆる低次元から高次元への意識的探究をしてきた、つまり意識的解脱である。

3次元マトリクスからの離脱、解脱の代表的なものは、

肉体身⇒ 精神・こころ⇒ 魂 への拡大・上昇ルートである。

その推進力は意識の進化によって生ずるということ。

物・銭・金、地位や名誉、様々な事物への執着は逆に降下への力となる。

誰にでも適応される、わかりやすく言えば意識の力学のようなものである。

・・・

今、誰でもそこに居て、ここに居て、自らの有様を観ることが・・その梯子となる。

例えばジャックと豆の木の物語は、天へと至る意識的「梯子」を示している。

芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の物語も、それを示している。

だが、天とは物理的な空間のどこか・・ということではない。

だからといって、今までのここ、この時空間ということでもない。


誤解が出そうな表現かも知れないが、それは次元と言ってもいいかもしれない。

今、ここ・・このような時空間ではなく、お花畑でいっぱいの時空間でもなく、

そういう外側に投影される世界というものではなく、


真のわたし・・あるいは空(くう)だ。

空(くう)だからこそ、何にでもなりどんな経験も可能。

真の自由ともいえる。


それなくしてどんな存在もありえない、それ、

それは空(くう)と呼ばれる、無限の包容であり、

無限の可能性であり、

従って、感情的意味合いを含むかもしれない、

無条件の、無限の愛とも呼ばれる、それだ。

真のわたしを指し示すものは・・それ。

1億円で買えるようなものじゃない(笑)


いつでもどこでも常に在って、それに気づかない部分を残していることを、

人は皆、生命は皆「魂の進化の途上にいる」・・という表現をしている。

いま在るわたし・・を真剣に観ることは、

その進化という、魂の聖なる遊びを思い出す事だ。

誰でも子供の時の遊びは実に楽しかったはずである。



言葉や知的表明は、あくまでも方向指示器でしかなないが、

今ここで、人間とは何か、わたしとは何か?という問いかけの、

その答えの方向を指し示すとするならば、このようになるかも知れない。

・・

①肉体、物質表現体は、

「肉眼で見る」ことが出来る「わたし」の部分、

つまり五感で感知できる次元の「わたし」のことだとも言えよう。

いわゆる肉体身である。

誰でも大切に思っているその肉体の部分(物理相)だ。

見る・聞く・感じるという五感で感じる「自分」という「存在感」でもある。

飯を喰う、排出する、歩く、景色を見る・・等という動きのことであり、

普通はそれが生きている事、いわゆる現実生活としているものだ。

人が動き回って、何かをしていることを・・現実生活と呼んでいる。

そうだろう?

しかしそれらすべては実体ではなく、存在感、単なる五感の情報、感触なのである。


わたしの物理相とは、肉体そのものというより、

肉体による存在感、臨場感というべきものである。


②精神・こころ(マインド)は、

それらの行為に対して’意識的に気付いている’「わたし」の部分である。

五感で感じる様々なことに・・気付いている「わたし」の

・・・様々な意識的反応・・が、つまり、こころ・マインドと言われるものだ。

あれは嫌いだ、好きだ、正しい、違う・・などというこころの反応。

当然それ自体は、肉眼では見えない。


③魂・意識は、

そのこころ・マインドの反応・動きに対して

’意識的に気づいている’「わたし」の部分である。

「肉体身」の経験や反応に気付いているのが、「こころ」であり、

さらにその、「こころ」の反応に気付いているのが「魂」である。


魂という名づけが適当かどうかは別として、物質や時空間に左右されないもの、

わたしの「本質」としての無限性のことを「魂」と言うならば、


それは、肉体やこころ、マインドを超えているからこそ、

それを観ている、気づいていることが出来る・・。


あなたが自分の体を見ており、そして、こころやマインド観ていることが、

あなたが’それ’であるという証なのだ。

当然ながら、物的証拠を見せろという物言いが、

まったく見当違いも甚だしいことがわかるに違いない。

自らが、それなのに、どうして他所から証拠を持ってくる必要がある?



空に高く上がった鳥が、地上を一気に見渡すことが出来るように、

次元を上がるほど、その下位というか。それを含む「部分」を観ることができる。


肉体・物質顕現相は、マインド・想念の相に含まれており、

マインド・想念の相は、魂あるいは「意識」に含まれているということだ。

そういう言わば質的な相の違いを次元の違いと言って良いだろう。

今ここに重なって在るのが次元相であり、何処かの別の時・場所ではない。


わたしが物でもなく、肉体単体でもなく、

精神やこころの反応そのものでもなく、

それらに気付いている・・意識・・と言って良いそれ、

それで満ち満ちているのが、空(くう)なのだ。

満ち満ちているのが空(くう)というそれ、

嗚呼、空っぽ、ああ何もない、・・あれくれ、これよこせ・・

違うだろう(笑)


空(くう)が無ければ、何物も、何事も起こり得ない。

あらゆる全ては、何でもないもの、言わば空(くう)であり、

空(くう)であるからこそ、何でもそこに有ることが出来る。


空(くう)に不可思議にも、意識が生じ、意図や想いとなり、

それが運動・エネルギーを生じて森羅万象、現象、肉体身としても現れる。


万物は皆 空(くう)より生じ、空(くう)に還る。

これが我々の日常、毎日の生活、社会や国家や、ひいては地球、宇宙大自然の、

全ての元にある現実、真実である。


一体全体、なにがどうしたというのか?

常に、こころは騒ぎ、様々な観念の世界を創り上げるけれども、

それは空(くう)に投影されたる、こころの影法師で遊んでいるようなもの。

それはそれは、実に楽しい遊びなのである。


そう、宇宙の全ては、ただあるがままの創造であり、

何かありそうで、何かあってもなくても、何も問題なく、

大も小もなく、低いも高いもなく、多いも少ないもなく、

死ぬも生きるもなく、怖いも怖くないもない。

死んだらようやく悟れるということもなく、生きているのが地獄ということでもない。


全ては空(くう)というカンバスに、

マインド、こころが描き出す様々な物語なのである。


人も皆、元は、空(くう)であるからこそ、そこに、ここに出現しているのだ。


万物は皆 空(くう)より生じ、空(くう)に還る。

これが我々の日常、毎日の生活、社会や国家や、ひいては地球、宇宙大自然の、

全ての元にある現実、真実である。


何でもないものが、全てであり、

あらゆる全ては、何でもないもの。


あっけらカーンとした空(くう)を曇らせているのは、

その空に浮かぶ黒雲という、

あなたの、こころ・マインドの不安なるざわめきだけである。


意識の点が、そのこころという黒雲の中から出て行くことが出来れば

無限の空に、ぽっかり浮かぶ雲の景色全体をも観ることが出来るだろう。







本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。