気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

わたしとは何か (19)自らを分けること

2015-12-27 06:50:10 | 新たなる地平線
この世界の72億人が最も重要なものとしているのは何かといえば、

間違いなく、また当然ながら・・・「自分」のことである。

なんだかんだで悩むのも「自分」がいればこそで、

それを何とか良くしよう、維持しようとすることであるし、

今までも苦労をしてきたのは、ひとえに自分の為と周囲の身近な人の為、

他者との軋轢も、またおバカな戦いも、またその「自分」を守ろうとするためだ。
・・・

そう、無意識的か意識的か、大か小かは別として、

また着眼点の違いはあるとしても、あなたも最も重要なのは「自分」に違いない。

そして「自分」とは、一般的概念で言えば「私個人」ということになる。

・・・
人類は今まで一体何をやっているのかと言えば、「自分」達つまり個々人の生存と安楽さを維持・追求するということだ。

自己保身も自己主張も、あるいは自己逃避もまったく自分の、その為。

私個人が大切だから、それを守らなければということで、様々な行為をしてきたというわけ。

あまつさえ、なんだか知らないが、他人から自分を守らなければという風な競争のなかに居たようでもある。

話は全く逸れるけれど、

欧米的的価値観の世界は、特に戦争に負けた後の日本は、皆がそういう競争や頑張りで、銭・金・物稼ぎを出すための経済植民地だったということだ。

oh no!

日本は戦争に負けて、アーラ不思議、民主国家にされちゃった・・ではなく、投資と回収の効率の良い経済植民地にされていたということだった。

それと気づきにくい、姿の小ぎれいな奴隷のような事をやっていたとも言えるだろう。

今でも頑張ってそれをやろうとしている部分もいるようだが、

これら何も陰謀論ではなく、陰の謀(はかりごと)ばかりで出来ていたのが今までの世界。

なるほど、こういう面からも目覚めなければならないわけ。

そう、陰謀論ではなく、陰謀だらけ、嘘の宣伝だらけで出来ていたのが、

今までの3次元的閉塞世界なのである。



・・・

個人が大事、個人が重要という、バラバラの個体で出来たのが烏合の衆、

烏合だから、それをコントロール、支配しなければならないという、ある意味で必要悪が許されてきた。

国家・政府、世界組織、企業連合、利益団体、全てコントローラの部品のようなもの、

それらは全て、自分達の物質的利益の追求団体であって、烏合の衆全体の幸福など、はなから眼中にない。

烏合の衆は待てども待てども、何も来ないことにそろそろ気付いているはずだ。

ところが、その支配という必要悪どうしが、行き着くところまで肥大化してしまい、

最大の利益獲得のための最後のバトルを始めている状況に来ているという話だ。


二つに一つの勝負は、いつも最後になって出てくるものだ。

白と黒の、陰と陽の、虚々実々の「対消滅」プロセスは、すでにもう始まっているし、

まともに世界ウオッチしている識者はそれに気づいているはずだ。

「マジ?えー、どうなってしまうのか~?!」・・みたいな。


・・・

俺が!・・私が!・・という、個人が大事、個人が重要という、バラバラの個体で出来たのが烏合の衆、

しかしながら、その個人という「私」達・・が、根本的に言って、

実は幻想・・、実際には存在していないとしたらどうだろうか。

個人は存在していない??・・

「え?いくら何でも、そればかりはあるはずもない!・・」と思う。


現に、『今ここに私がいるという感覚』は、どうあっても事実だと感じているため、

私個人が幻想など、とてもとても(笑)、

どんな証拠があって?等と思うかもしれない。


でもそれは幻想なのだ・・、ということを理解できるならば、

どんな個人的不満や不幸ともおさらば出来るだろう。

悲しい映画を観終わっても、ずっと泣いている人がいる?わけはなかろう。


幻想である個々人、バラバラ別個の個人同士が競い、争い、誤解し、ぶつかり、いがみ合い、罵り合う事で、不幸や不満や悲しみが生まれているということに気付けるだろうか。

幻想が、さらに不都合な幻想を作り出して、その幻想を見て大騒ぎしている幻想の個人。

あなたは笑えないか?

・・
でも、でも・・、

私という個人が幻想だなんて、信じられないかもしれない。

それでも、それは事実なのである。(ほんとうか?)

信じる信じないは、思考の癖であって、すぐに治らないかもしれないが、

事実は曲げられない・・、そうだろう?


ところで、幻想とは、ぼんやりしたアヤフヤなイメージということではなく、

単に、それが形や現象の移り変わりという意味だ。

ぼんやりした霞ではないが、常に移り変わる個人という現象、

それが、俺が・・私よ、あんただ、彼だという個々人なのだ。


そのものが実体などではないもの、それつまりを幻想と言っている。

そう、「想い」が創る実にリアルに見えるところの「幻」の現象だ。

それが、私個人というもの。


自分という「個」人は、そう、「宇宙・全体から分離した自分」という幻想。

宇宙・全体とは隔絶した、別個の実体とでも思っているからこそ、

何かが不安で、恐ろしく、自己を守らなければならないとなる。


宇宙大生命の饗宴のなかで生かされているのではなく、

個々が必死て生きてゆかねばならないと勝手に思い込むこと、

それが集団発生することで、個々人という生存バトルの世界が造られる。

それが今までの地球という学習場だった。


おいおい、天地万物があって、わたしは生きている・・という事実を、

どうして忘れたんだろう?

これこそ、ある意味で・・奇跡と言えるもの。

なんとまあ、この時空はそういう学習場でもあったわけだ。


全体が畳み込まれた部分と見える、人間という意識体が、

いつかそれがちっぽけな肉体個人に特化し、

体重何kg、身長何cm、あれ?背が低いな・・、

顔が良いぞ、金持ってるぞ、お前より偉いぞ・・、

とか何とか、別個の個人という演技を、実に何千年も過ごしてきたのかもしれない。


でもそういう宇宙全体から分離した個人は幻想なのだ。

例えば、輪廻転生、生まれ変わりという生命の転換作用に気付いている人は、

その時々の個人生命は一時のものだとわかっているだろう。

何かが怖い怖いと思っていれば、道ですれ違う、

なんということもない、変なおじさんにも警戒するかも知れない(笑)




しかしながら、それが当たり前だとしている、

私という個人さえも幻想であったということに気付くのは、

実に極め付きのことであろうか。


・・今ここに「私」がいるという「感覚」・・・は五感としての感覚、

ただ、あるのは「感覚」あるいは「触感」であって、実体そのものではない。

私という感覚があるだけで、個人的実体は存在しないということ。

自己観察をすればすぐにもわかるかも知れない。

私という個人を設定している・・何か気づいている「働き」はあるが、

「私個人という実体」はどこにもなく、あると見えるのは、

感覚から生じる総合的な存在感だけであり、

私個人というのはそれは「概念」でしかない。

・・・理解可能だろうか。


まだ意味不明かも・・だが、単にそれは今まで調べて来なかったせいである。

外側ばかりで自己内面を調べていなかったという話であって、

それを調べたら、実際に「私個人」が発見されないという、衝撃の事実を知ることになる。

世界を覆い尽くす、様々な観念、概念が・・実際とは違うということは、

このことからもわかるものだ。

その極めつけは、

概念が独り歩きして、自分という私個人を創っていたことだ。

・・・

私個人は無く、ただ生きている・・複雑で総合的な生命感、臨場感のみがある。

そして、それに気づいている意識があるということだ。

あるいはそれを可能にしている、宇宙に遍満する意識があるとも言えるだろう。

在るのは、それだ。

そしてそれは、常に今・・ここに現にある・・。

あなたや、あなたの周りや、家族や、空の景色や、五感や六感で感じるあらゆるもの、

多い少ないで騙されてはいけない。

今在ることそのもの・・!



普通であれば、個人が幻想だなんて、全然意味不明・・・(笑)

それはそうだ、

今まで個人だ、個体だ、肉体だと盛んに吹聴する世界で馴染んで育ったわけで、

生れてすぐに固有名詞としての名前が付けられ、

例えばあなたは山田太郎だとか鈴木花子だとか、そういう

独立個人として、個体としての自分が全てとしてきたわけで、

全体という、あらゆる全てから『分離した個人』としての感覚が強烈に根付いている。


自意識・・が、個別のバラバラの「意識」としてスタンドアローンしており、

宇宙全体というサーバーシステムから外れていると信じている・・という表現は、

結構わかりやすいかも知れない。

確かに、今どきそんなパソコンやスマホは有るはずもなかろう(笑)


俺だ!、私よ!、あんただ!君だ!・・・という自分感覚は、

あるいは固まった自意識同士の、競争や戦いは、

全体と分離した自分・・を醸し出しているのである。



自分とは・・文字通り・・自らを分ける・・ということ。

『わたし』・・が自ら、分離して、私という個人を創るということ。

『わたし』・・とは、自らに気付いている「意識」であり、

「全包容的意識」が自らを分けて、「自分」というもの、

個人という「私」に分離しているということを示すのだ!

 ’OH MY GOD!’

これは、神が神に・・言う言葉だ。

・・・

自らに気付いている何か、あるいは何でもないもの、逆に何にでもなるものが、

様々に次元降下して、様々なそこ、ここに、出現、出生するという物語を始めること、

<わたし>を出現させることが、人として在るということだ。



様々にわたしが在る・・ということは、

自らを様々に分けて、自らを創造・展開することなのである。

当然ながら、昔から神と言われるそれ、

何でもないもの、それは「無限」そのものであるがゆえに、

有限という現象としての姿を様ざま表現しており、

その様々な変化して出現する「私個人」自体は、またそれ、幻想でもある。

そう、

「私」という個人は幻想であり、実在する・・ものではない。


この世界でずーっと悩み苦しんできた「自分」

栄光と挫折の狭間で揺られてきた「自分」

人と人の間で苦渋や感動を味わってきた「自分」


まったく投げやりな意味どころではなく、

「自分」とは、展開する影絵、幻想であったということに気付けるならば、

きっと大笑いに笑えるはずである。

そして、これからは、それを楽しむことが出来るはずだ。

これはその筋でいうところの「次元上昇」ということだ。


見る、聞く、感じること、五感で経験しているのは、

個人としての「自分」ではなく、

普遍的な何か、また何でもない、無限のそれ、未知で満ちているそれ、

あなたも私達も、何もかも全てがそれの現れである。

あなたも「それ」に気づいただろうか?


 ’OH MY GOD!’

ちなみに、これは、神が神に・・言う・・言葉だ。


本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。