わたしとは実際には「存在していないもの」を意味する。
そんな話をすれば「えっ!、そんなはずない」と言うだろうか。
何故なら誰でも、いつでも、今でも「自我」という感覚が続いているからだ。
そうだろう?
あなたは今でもそういう風に思っているだろう?
体は重いし、この頃は寒くなってきたし、家の中は相変わらずだし、毎月の支払いもあり、
まー何とか生活しているが、そういう私が存在していないはずはない。
冗談じゃない・・、馬鹿言うな・・・。(笑)
これが世間一般の常識的な思考であり、またこういう話、
実際には、私という個人などいない・・等、
そもそも議論・検討すること自体が普通はあまりないことである。
「私」が存在していない?・・何?その話・・?
でも、こういう人は、目覚めかけていると言えようし、実に目出度いことである。
赤ん坊が生まれた時に誰でも祝福されるように。
実は「私」など、はなから存在しなかった・・
そういう事実までたどり着く可能性が見えてきたからだ。
実は私などはなから存在しなかった・・あ~?
そんなの絶対あり得ない~!・・類(たぐい)のことだが、
事実は小説よりも奇なり・・どころではない衝撃の真実である・・。
俺が先だとか、お前はダメだとか、あんたは大嫌いだとか、
もっと俺たちによこせとか、私は人より綺麗になりたいとか、
私はまだ死にたくないとか、俺は心より金のほうを選ぶぜ、・・とか、
そういう「私」は実際には存在していない。
??意味不明・・・
でも、ある思考の切り口で近づくとすると・・・、
それらは全て移り変わる「現象」だということがわかる。
現象、つまり今起きていること・・以外の、何ものでもないということだ。
私・・という事象もそう。
現象や出来事、人生もそうだが、そういう事象へ、個別に「ラベル付け」しているということだ。
実は、「私個人」・・というイメージも、そのラベル付け、概念、観念でしかない。
I am that I AM.
わたしとは、わたしが気付いている・・それの働きのこと。
特定の個人などではない。
何度も言えるが、これはあなたは創造主、でもあるということだ。
だから神々と言って良いのだ。
重い身体を何とかして、ビューと空を駆け巡ることではない、
でかい体で海をせき止めるポセイドンでもない(笑)。
もっとも、今まで何千年もだが、様々な観念ラベルを自分に張り付けて、
ラベルで覆われたぐちゃぐちゃ卑小な個人を、それを自分だと信じ込む・・
そういう創造だったのだが・・、
嗚呼・・!と言って悩むことなど何もない。
この際大笑いに笑ってしまうのが良い。
・・・
感じられるだろうか、
生きている命、活動する意識としてのわたしは在るが、
別々別個の個々人というのは幻想、あるいは概念でしかない。
特定の個々人とは、単に観念的なラベル付けということだ。
例えば、
あなたの世界で俺だ、私だ・・と言っている他人は、あなたの世界という中で、
起きている現象、人型演技的現象というようなものであって、
私だ、俺だと言っている、主張している個別の人格現象に遭遇しているという話だ。
あなたの世界で、いかにも真実そうに見える、
実在しているように見える多くの他人は、
絶対の実在等というものではなく、起きていることの中の言わば仮の出演者、
ある意味であなたの為に出現している、別バージョンのあなたと言えようか。
なぜならば、あなたの世界をそこで、
そこから観ているところの当の主体は、・・あなたという意識・・しかいないのだから。
実際、あなたが眠っている時には、世界は消えているだろう?
また起きて、同じ生活があるからと言って、ずーっと世界が有るなど、
誰も証明できないではないか。
・・・
みんな、俺が、私が、いや儂(わし)がと、頑張って生きているわけだが、
I am a man・・・は起きている現象説明であって、真実等ではない。
I am a lady・・も起きている現象説明であって、真実等ではない。
そもそも、真実というのは「窮極の何か・・」を示す「観念」「概念」でしかない。
また、
現象は移り変わるものであって、どれが「真実」であるとは言えないし、
変化し続けるものは、どの瞬間こそが「実在」である・・とも言えないのである。
枯葉が木からハラハラ舞い落ちる時・・・どの瞬間、ショットが真実だとは言えない。
あらゆる出来事、事象、現象の中には、どの瞬間、どの領域、どの部分だけを取って、
さあ、これこそが事実だ、真実だ!・・ とは言えないのである。
・・・
人間関係がどうの、対人関係に苦悩があるとか、人間が嫌いだとかは良くあるが。
まず、あなたの世界の中には、絶対的な意味での、あるいは真実の、または事実としての、
他人という「個人」は・・・実在してなんかいない。
個人という現象はあるが、それは今起きていることの中の一コマのことだ。
その一コマの中の人格が、口をきいている、主張しているという話なのだ。
ただそこにあるのは、
それらを見ているところの「意識」というか、「気づいている」・・それ・である。
それ、今のそれ、それ以外は、移り変わる事象、いわば仮の投影、
観ているのが、真のわたし・・意識、あるいは気づいている・・それ。
それは決して、俺やわたしや僕という個人ではないということ。
それらの元にある・・それ・・というしかない、何でもない者。
大勢の他人とは、あなたがDVDビデオを楽しんでいる、
その物語の中の人物達のようなものである。
映画やDVD映像は2次元平面への投影であるが、もっともらしく見えるものだし、
この世界の現実とされるものは、3次元立体的であるが、それももっともらしく見えるものである。
それは言わば生きて経験している臨場感、
この世界で、見る・聞く・触る・味わう・嗅ぐ等の五感で総合的に感じているために、
尚更もっともらしくなっているし、あなたはそこに入り込んでいるわけだ。
私がいて、ここに有り、座っている・何かを見ている・という感覚は、つまり臨場感。
体があって、そして重量感や温度感覚もあるし、視覚や聴覚等とい五感感覚を感じている。
確かにそうだ、それが現実だ・・・! やっぱり、現実が・・・、
しかしながら、その現実と言うのは何かといえば・・
そう、持続する時空間の中で、五感の感覚で何かを感じているということ。
体の重さ、皮膚感覚、周囲を見る視覚、生活上の音などを感じている。
だからそれらを集合的に感じている者、つまり「私」がここに有ると想っている。
つまり自我意識であり、それは
感覚の持続と記憶によって、私は個人だという見解が生まれているということ。
見解というのは思うことである。
通常、赤ん坊の時の記憶がないのは、当然ながら「記憶」の蓄積がまだ少ないせいである。
つまり特定の「個人」というのは、「記憶」以外の何ものでもない。
だから個人は死んだら終わりだが、エネルギー保存則のように、
その記憶は持続されるために、別の人格へと転生、生まれ変わる。
もっとも、今までこの世界ではそういう認識が広がっていないため、
魂と言われる、活きている微細で膨大な記憶、それを思い出すのは至難であり、
多分あなたも過去生なるものの記憶はそれほど多くないか、
全く浮上してないのかもしれないが、そんなに気にすることもない。
私・個人というのは有るように見えるが、実際は実在しない、
人生での「個人」という仮の自己像、自画像のために、必死になって喚(わめ)きまくる必要もなく、
別バージョンの自己である他者との軋轢や争いも、気づけば実にバカバカしい。
ましてや仮の自己像を維持するため、恐怖や苦悩に沈み込む必要もない。
一体全体、だからどうしたっていうんだい?(笑)
普通はなかなか自己の在りようを調べないで、人生を他人の真似して、無意識のまま素通りしているのだが、
多少自分自身の在り方を真剣に調べてみれば、そういうことである。
他人が今眠っていようと、どうであろうと関係ないのである。
わたしとは何かって言えば、何でもない者ということだ。
何でもないものだから、何にでもなる。(笑)
繰り返すと、
多くの人は、体の重さ、皮膚感覚、周囲を見る視覚、生活上の音などを感じている。
だからそれらを集合的に感じている者、つまり「私」がここに有ると想う、
個人だ、私だと思うし、社会もそうだそうだと言ってきた。
みんなそう言っているよ!というウソで造られた社会、
個人の権利だ、自由だ、金稼げ、経済を上げろ・・(笑)
個別の身体で別々に行動しているものだから、皆バラバラだと思うし。
そして個人というものが単独に有るように錯覚している。
でもそれは観念・概念で創り上げたもの、
それが「私」という個人の幻影を創っている。
でもそれは一時の仮の自画像であり、また
まるで創造主の特殊なお遊びのようなもの、
過ぎては去り、来ては行くもの、
今のこの瞬間の絶えない変化、
今の・・ありのままの生、意識経験、それへの気付き、
それ自体が・・実際に有り難い事実・・・つまり奇跡なのである。
もともと、特定の個人など実在なんかしていなかった。
そして、それが元での苦悩や怖れ、
そんなものは単なる概念でしかなかったということが、
明らかな生の経験、今在るということが、
実感で浮上してくることに気付けるはずである。
余計で重たい概念や観念を取り外すことで、
在るがままの生にもどる事が、そう悟りと言えようか。
外して手放す、ことが・・・それだ。
無理に想いを丸めて、このやろ、エイや~、ではなく、
チョット調べる意識的努力は必要だが、
ここでは、
「ありゃりゃ~、こりゃウソだった!」と気づくことを・・捨てる・・と言っている。
個人としての私・・これが最後に手放す「観念」である!
「私」が存在していない?・・え、何?それ・・?
わたしとは何かの探究において、実に目出度いことである。
ちょっと早いが、
明けまして、御目出度う、ございます。
そういうことになる。
本日も拙い記事を御覧いただきまして、誠に有難うございました。
そんな話をすれば「えっ!、そんなはずない」と言うだろうか。
何故なら誰でも、いつでも、今でも「自我」という感覚が続いているからだ。
そうだろう?
あなたは今でもそういう風に思っているだろう?
体は重いし、この頃は寒くなってきたし、家の中は相変わらずだし、毎月の支払いもあり、
まー何とか生活しているが、そういう私が存在していないはずはない。
冗談じゃない・・、馬鹿言うな・・・。(笑)
これが世間一般の常識的な思考であり、またこういう話、
実際には、私という個人などいない・・等、
そもそも議論・検討すること自体が普通はあまりないことである。
「私」が存在していない?・・何?その話・・?
でも、こういう人は、目覚めかけていると言えようし、実に目出度いことである。
赤ん坊が生まれた時に誰でも祝福されるように。
実は「私」など、はなから存在しなかった・・
そういう事実までたどり着く可能性が見えてきたからだ。
実は私などはなから存在しなかった・・あ~?
そんなの絶対あり得ない~!・・類(たぐい)のことだが、
事実は小説よりも奇なり・・どころではない衝撃の真実である・・。
俺が先だとか、お前はダメだとか、あんたは大嫌いだとか、
もっと俺たちによこせとか、私は人より綺麗になりたいとか、
私はまだ死にたくないとか、俺は心より金のほうを選ぶぜ、・・とか、
そういう「私」は実際には存在していない。
??意味不明・・・
でも、ある思考の切り口で近づくとすると・・・、
それらは全て移り変わる「現象」だということがわかる。
現象、つまり今起きていること・・以外の、何ものでもないということだ。
私・・という事象もそう。
現象や出来事、人生もそうだが、そういう事象へ、個別に「ラベル付け」しているということだ。
実は、「私個人」・・というイメージも、そのラベル付け、概念、観念でしかない。
I am that I AM.
わたしとは、わたしが気付いている・・それの働きのこと。
特定の個人などではない。
何度も言えるが、これはあなたは創造主、でもあるということだ。
だから神々と言って良いのだ。
重い身体を何とかして、ビューと空を駆け巡ることではない、
でかい体で海をせき止めるポセイドンでもない(笑)。
もっとも、今まで何千年もだが、様々な観念ラベルを自分に張り付けて、
ラベルで覆われたぐちゃぐちゃ卑小な個人を、それを自分だと信じ込む・・
そういう創造だったのだが・・、
嗚呼・・!と言って悩むことなど何もない。
この際大笑いに笑ってしまうのが良い。
・・・
感じられるだろうか、
生きている命、活動する意識としてのわたしは在るが、
別々別個の個々人というのは幻想、あるいは概念でしかない。
特定の個々人とは、単に観念的なラベル付けということだ。
例えば、
あなたの世界で俺だ、私だ・・と言っている他人は、あなたの世界という中で、
起きている現象、人型演技的現象というようなものであって、
私だ、俺だと言っている、主張している個別の人格現象に遭遇しているという話だ。
あなたの世界で、いかにも真実そうに見える、
実在しているように見える多くの他人は、
絶対の実在等というものではなく、起きていることの中の言わば仮の出演者、
ある意味であなたの為に出現している、別バージョンのあなたと言えようか。
なぜならば、あなたの世界をそこで、
そこから観ているところの当の主体は、・・あなたという意識・・しかいないのだから。
実際、あなたが眠っている時には、世界は消えているだろう?
また起きて、同じ生活があるからと言って、ずーっと世界が有るなど、
誰も証明できないではないか。
・・・
みんな、俺が、私が、いや儂(わし)がと、頑張って生きているわけだが、
I am a man・・・は起きている現象説明であって、真実等ではない。
I am a lady・・も起きている現象説明であって、真実等ではない。
そもそも、真実というのは「窮極の何か・・」を示す「観念」「概念」でしかない。
また、
現象は移り変わるものであって、どれが「真実」であるとは言えないし、
変化し続けるものは、どの瞬間こそが「実在」である・・とも言えないのである。
枯葉が木からハラハラ舞い落ちる時・・・どの瞬間、ショットが真実だとは言えない。
あらゆる出来事、事象、現象の中には、どの瞬間、どの領域、どの部分だけを取って、
さあ、これこそが事実だ、真実だ!・・ とは言えないのである。
・・・
人間関係がどうの、対人関係に苦悩があるとか、人間が嫌いだとかは良くあるが。
まず、あなたの世界の中には、絶対的な意味での、あるいは真実の、または事実としての、
他人という「個人」は・・・実在してなんかいない。
個人という現象はあるが、それは今起きていることの中の一コマのことだ。
その一コマの中の人格が、口をきいている、主張しているという話なのだ。
ただそこにあるのは、
それらを見ているところの「意識」というか、「気づいている」・・それ・である。
それ、今のそれ、それ以外は、移り変わる事象、いわば仮の投影、
観ているのが、真のわたし・・意識、あるいは気づいている・・それ。
それは決して、俺やわたしや僕という個人ではないということ。
それらの元にある・・それ・・というしかない、何でもない者。
大勢の他人とは、あなたがDVDビデオを楽しんでいる、
その物語の中の人物達のようなものである。
映画やDVD映像は2次元平面への投影であるが、もっともらしく見えるものだし、
この世界の現実とされるものは、3次元立体的であるが、それももっともらしく見えるものである。
それは言わば生きて経験している臨場感、
この世界で、見る・聞く・触る・味わう・嗅ぐ等の五感で総合的に感じているために、
尚更もっともらしくなっているし、あなたはそこに入り込んでいるわけだ。
私がいて、ここに有り、座っている・何かを見ている・という感覚は、つまり臨場感。
体があって、そして重量感や温度感覚もあるし、視覚や聴覚等とい五感感覚を感じている。
確かにそうだ、それが現実だ・・・! やっぱり、現実が・・・、
しかしながら、その現実と言うのは何かといえば・・
そう、持続する時空間の中で、五感の感覚で何かを感じているということ。
体の重さ、皮膚感覚、周囲を見る視覚、生活上の音などを感じている。
だからそれらを集合的に感じている者、つまり「私」がここに有ると想っている。
つまり自我意識であり、それは
感覚の持続と記憶によって、私は個人だという見解が生まれているということ。
見解というのは思うことである。
通常、赤ん坊の時の記憶がないのは、当然ながら「記憶」の蓄積がまだ少ないせいである。
つまり特定の「個人」というのは、「記憶」以外の何ものでもない。
だから個人は死んだら終わりだが、エネルギー保存則のように、
その記憶は持続されるために、別の人格へと転生、生まれ変わる。
もっとも、今までこの世界ではそういう認識が広がっていないため、
魂と言われる、活きている微細で膨大な記憶、それを思い出すのは至難であり、
多分あなたも過去生なるものの記憶はそれほど多くないか、
全く浮上してないのかもしれないが、そんなに気にすることもない。
私・個人というのは有るように見えるが、実際は実在しない、
人生での「個人」という仮の自己像、自画像のために、必死になって喚(わめ)きまくる必要もなく、
別バージョンの自己である他者との軋轢や争いも、気づけば実にバカバカしい。
ましてや仮の自己像を維持するため、恐怖や苦悩に沈み込む必要もない。
一体全体、だからどうしたっていうんだい?(笑)
普通はなかなか自己の在りようを調べないで、人生を他人の真似して、無意識のまま素通りしているのだが、
多少自分自身の在り方を真剣に調べてみれば、そういうことである。
他人が今眠っていようと、どうであろうと関係ないのである。
わたしとは何かって言えば、何でもない者ということだ。
何でもないものだから、何にでもなる。(笑)
繰り返すと、
多くの人は、体の重さ、皮膚感覚、周囲を見る視覚、生活上の音などを感じている。
だからそれらを集合的に感じている者、つまり「私」がここに有ると想う、
個人だ、私だと思うし、社会もそうだそうだと言ってきた。
みんなそう言っているよ!というウソで造られた社会、
個人の権利だ、自由だ、金稼げ、経済を上げろ・・(笑)
個別の身体で別々に行動しているものだから、皆バラバラだと思うし。
そして個人というものが単独に有るように錯覚している。
でもそれは観念・概念で創り上げたもの、
それが「私」という個人の幻影を創っている。
でもそれは一時の仮の自画像であり、また
まるで創造主の特殊なお遊びのようなもの、
過ぎては去り、来ては行くもの、
今のこの瞬間の絶えない変化、
今の・・ありのままの生、意識経験、それへの気付き、
それ自体が・・実際に有り難い事実・・・つまり奇跡なのである。
もともと、特定の個人など実在なんかしていなかった。
そして、それが元での苦悩や怖れ、
そんなものは単なる概念でしかなかったということが、
明らかな生の経験、今在るということが、
実感で浮上してくることに気付けるはずである。
余計で重たい概念や観念を取り外すことで、
在るがままの生にもどる事が、そう悟りと言えようか。
外して手放す、ことが・・・それだ。
無理に想いを丸めて、このやろ、エイや~、ではなく、
チョット調べる意識的努力は必要だが、
ここでは、
「ありゃりゃ~、こりゃウソだった!」と気づくことを・・捨てる・・と言っている。
個人としての私・・これが最後に手放す「観念」である!
「私」が存在していない?・・え、何?それ・・?
わたしとは何かの探究において、実に目出度いことである。
ちょっと早いが、
明けまして、御目出度う、ございます。
そういうことになる。
本日も拙い記事を御覧いただきまして、誠に有難うございました。