我々の身の周りには物が溢れているように見えて、実はほとんどが空間だらけである。
空(くう)は創造の原初の母体ともいべきものであり、空間はそれとは違う表現型のことを言う。
空間とは空(くう)の中にエネルギーがある場合に言う表現だ。
我々は空(くう)の中にある存在物の相互の関係性を見たときに、
そこに<間>があると考えるから、「空間」となる。
つまり空間は意識的観察主体たる「人間」の観念で生成されるわけである。
えー?空間も人間の思考の賜物なのか?といっても良さそうだ。
そう、空間自体も観念、考え方に沿っているだけであって、
物理的な説明で使う次元要素、XYZの座標やら距離やらも実際は「思考」なのである。
いわゆる3次元的現実とされる世界、
あるいは時間・空間という我々の周囲のスペースも「思考の投影」ということだ。
今までの3次元的世界認識は、それが真実であるという事ではなく、1つの意識、認識レベルからの思考の投影である。
在るのはただ、空(くう)のみ。
我々の周囲の「空間」の中にある物質は、
全て空(くう)の中に、空(くう)<自らの中に>生じた波動、エネルギーの集中した姿なのである。
我々はそのエネルギーの影、物質姿だけを見て、そこに固い「物」があると認識しているだけのことだ。
そういう風に、意識的に「観察」しているだけのことなのである。
マクロ宇宙もミクロ世界も全く同じ仕組み。
世界は、意識的存在、思考する人間の観察によって、その存在形を顕している。
時間空間が、人間存在と無関係に、前からずっと在るわけではない。
突き詰めれば、
気付き、観察、思考という意識的働きによって、
その意識主体の周囲、近くから無限遠までの周囲を創りだしているわけである。
そんなばかな!
わたしが周囲を創っているわけではないよ、そんな記憶もありゃしない、いつ創ったというのかいなア。
多分、そんな反感がある場合もあるが、
何もあなたやわたし達が粘土細工のように手でこね回して作り上げる次元のものではない。
そうではないのだ。
・・・
我々、それぞれの<わたし>が今、・・・ここに在ることに気付いているだろう?
存在しているのは、そういう風に「意識」しているからだろう?
身体や頭脳がどうしたこうしたは現象面の機能の話であって本質ではない、
物やその組み合わせのメカニックな機能があったとしても、主体的に意識せざれば、何も認識できないではないか。
情報の収集、伝達、記録はパソコンでもロボットでも可能だが、「意識している」我(われ)が無ければ、
単なる情報処理機械ではなかろうか。
自己への気付き、・・・自己が自己だという認識こそが、魂の表現形なのだ。
その意識主体が、つまりあなたやわたし達という意識主体が、
そこに意識的に ”在る” こと・・・、
この世界では、肉体という機能体を経由して、目を開け、耳を澄まし、肌で感じる世界を観察していること、
意識的に存在していること、これこそが・・・世界を生じせしめているのである。
そして、集合意識的な働きで生じた世界をあれこれと理由をつけているということになる。
その都度、好都合な観念をそこに投影して説明しているということ。
3次元レベルの世界とは、大勢の意識的主体たちが、十分に意識的になっていない世界のことであり、
そこでは、当然ながら他者依存やら支配やらによって、無意識的意識集団を維持しているわけなのだ。
しかし現在は、色々な陰謀やら嘘やらに気付きだしているという末端の現実的気付きをも含め、
大勢の人間達、すなわち意識的存在達が ”目覚め” 始めてきたのである。
何も宇宙人やら影の陰謀組織やらのことを、恐ろ面白く持ち出すまでもなく、そういうことなのである。
無限という名の、空(くう)・・・、
時間も空間もそこから生まれる・・・原初の意識、
そこここに在る、あらゆるものは空(くう)より生じ、空(くう)に還る、
意識それは、まさに無限の表現母体、
あなたのまわりに在るのは、その空(くう)である。
意識的存在である<あなた>は、
その想いと感情、表現でいかようにも描き出すことが出来る。
ただし、そのことを意識の底から認識すればの話である。
自らの内在意識をそれで満たすことなく、
何事も生じることもない。
それは宇宙の生成と本質的には同じプロセスなのだ。
どこか、ぶっ飛んでいそうな話であり、目が回るようでもだが、事実は小説よりも奇なり、
そう、それ・・・・が真実なのである。
現実というものは、銭金物だけであくせくするだけに終始するものだけではなく、
そんなことは、気づけばさらに大きな現実の中に含まれているものではないのか。
自己認識で生じる多次元的空(くう)の宇宙にあって、
部分から全体を観察する視座にある我々の、
さらに大きな意識に相応しい、大きな世界が顕れるのは、火を見るより明らかではないか。
今はそういう時なのである。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。