一般の人にとって気になるのは、人に前世などあるのか?ということだろうし、
また、どこに・・そんな証拠があるのかということでもあろう。
学校ではそんな話は露もなかったし、公的な情報でもそんな話はないということで、そんなものはないと思い込んでいるかもしれない。
例えば、ご近所でそんな話をしようものなら変な顔されて終わりだということかもしれない。
つまり常識になっていないということである。
また、まともな科学者・・・本当の研究者たちはそれを知っていても、ただ匂わせるだけに徹しているようである。
なぜなら、もし多くの人間達が・・・・それを知ってしまえば、
ただし、聞いて、見てすぐに忘れるというのでなく、
本当の意味で「知る」 「識る」という事だが、
集合・共通意識で出来ているこの社会は、大きな変化を遂げてしまうことになるのである。
そういう変化が怖いから、とりあえず今まで通りが良いとする思考で固まっているのだ。
今の社会があらゆる情報に満ちているのは、そういう本質の目くらましに満ちているということでもある。
人間が肉体単体でなく、それを通じて表現するところの原因体、意識体であるというより拡大された自己認識が常識的になるならば、
現代の資本主義的、物質偏重観念は跡形もなく消えて行き、
物より精神、そして転生という表現型を行なうところのそれぞれの魂、生きとおしの「自己」のほうに、主たる意識が注がれるようになるからである。
つまり有機的肉体単体たる自己像が、それを超えるより普遍的な自画像、今までの様な重い時空に束縛されない自己像で置き換えられてしまうからである。
そうなれば、そうなった分だけ、そういうより自由度の高い共通現実、つまりより自由な世界が出ざるを得ないのである。
今でさえも、全知、全能、全在の方向へと進んでいる人類の、さらに大きな飛躍が、否応なく生じることになる。
よく言われる宇宙文明とは、そういう意識存在達の共通認識で出来る世界なのだ。
・・・
例えば自己が何者かといういう問いかけの先に出てくる1つの認識、
自己とは、様々な経験や人格をも経験しているところの、普遍的意識であるという認識に至るならば、
死んだら終わり・・という、刹那的で極めて小さい自己像が、あっという間に陳腐と化し、
それぞれの人生と、その時々を生きる普遍的な魂という、より大きな自画像が出てくるからには、
すぐにも消えてしまう目先の物質的栄華など、どうでも良いことになってしまう。
それら、銭金物などは、取りあえずは・・まあ必要な事ではあるものの、その為だけに人生に邁進するなどという、
なんでもかんでも頑張るなどという、律儀な猪熊奴隷のような自分の姿に判然と気づいてしまうし、
また逆に、何かを怖れて汲汲とすることも、実に・・バカバカしくなるのだ。
セレブがどうしたのか? リッチでホントに幸せなのか?
組織や国や世界のトップとなることが永遠の幸せを約束するのか?・・ 全く嘘だろう・・。
状況が仕方がないのでと・・言っては武器を溜め込み、富や金の簒奪を画策し、あちらこちらの争いゲームに参加すること、
また逆にそういう、どうでもよい作られた現象を、さも何かありそうに難しく評論することに、どんな生きがいがあるのか。
GDPの大きな国の民衆は幸福なのか、それは単なる・・・飽食感なのか、
まるで、千と千尋のアニメでの、豚になった千尋の両親のことではないのか。
何千年も続いている様々な宗教ドグマや慣習で縛られ、十葉ひとからげになっている野菜以下の自分はおバカでないのか、
そんなことが・・・間違いなく真剣に想起されることになるのである。
今まで覚者や聖者、あるいは解脱したと言われる存在達の、
綿々と伝えてきた逸話、メッセージ、情報が、
嫌というほど身近になるのである。
それぞれの個人我たるその時々の人格は、普遍的な自己、生きとおしの自己の投影であること、
あたかも様々な立体映画に登場している役者の、そのシチュエーションでの単なる役どころのようなものであること、
そういうより拡大された自己像に真に気付く時が来ているのだ。
輪廻転生、臨死体験、時空を超えた遠隔知、リモートビューを含むまっとうな情報、
時空を超えたところの、我々としての普遍的意識の証拠群は、
今は特に欧米の実証主義的土壌からも、遅ればせながらも、様々な真剣な研究報告が出てきている時代である。
古くから直覚的、体験的に理解していた東洋の知識が、ようやく物欲、唯物で代表される西洋でも認識されるようになったのである。
そう、・・・・もう後がないということだ。
事ここに及んでは、いつまでも無意識ながらの肉体転生のなかで、
眠り続けることは難しいことになっているのだが、
あなたはそういう今の<特異な時代>に本当に気付いているだろうか。
それとも、皆が変われば<わたし>も変わるという、他者依存でこれから先も徹するのだろうか。
変化、変革、改革は・・・・外の世界で行うものだという、
永遠に繰り返す真っ赤なウソに何千年、何万年も漠然と浸っているのだろうか。
時間・空間は、意識の現象面、表現型であって、その逆ではないのだ。
意識を有する<人>の世界は、どうあがいても・・・・それぞれの「自己認識」によって出来ている。
< I AM THAT I AM >
例え生と死というサイクルを通じても、その自己認識に相応しい世界に常に在ること、自己を投影するということを、
ゆめゆめ忘れてはならないのである。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。