人間には体がある。
誰にとっても間違いないことだろう。
3次元的な身体を肉体とも呼んで良いだろう。
それは多分・・普段人々が今「自分である」と感じているものである。
その肉体に備わる眼、耳、舌、鼻、そして皮膚上の感覚によって外の世界というものを感じている。
なるほど、肉体が無ければこの世界は味わうことが出来ない。
またその肉体は、様々な内臓器官、神経組織、骨格、筋肉等で出来ており、それ自体は完全なる調和で維持されている。
あなたやわたしが普通に元気であるということは、あるいはどこにも苦痛が無いということは、肉体の機関が本来の「素のままの調和」にあるということである。
しかしながらその調和を具現している肉体は、数十兆の細胞で構成されており、またその細胞は数えきれないほどの分子で構成されている。
その分子はさらにミクロの原子で構成されており、それらを数え合わせると、・・いや数えること等出来るわけもない。
このように肉体を構成する微小要素の数も、それは有限のようにも感じるが、しかし決して数えることなど出来るものではないだろう。
それらは有限にして無限、無限にして有限・・とでも言うほかなく、それはまるで我々の眼前に展開してその姿を見せている・・大宇宙のようである。
言うならば、あなたやわたし達の今纏っている肉体そのものも、ミクロの方向における「無限」を顕しているのだ。
身体がミクロコスモスとも言われるのは、何も例えや詩の世界の言い方ではなく、まさしく実体そのものなのだと言えようか。
無限とは何も容積、大きさだけの話ではない。
我々は、まさに眼前に展開せる宇宙と同じく、無限という名の身体を持っているのである。
その無限の構成要素からなる身体自体も、我々の意図や手で汗水流して、意識して造り上げているわけではなく、大自然の摂理の中において、人間の営みの中で、ある意味でオートマチックに精妙で複雑な生体機構として出現してくるわけである。
生れてくる赤子も、それは人間が意図してその身体を造るわけもないことは母体の経験者ならば頭で考えずとも理解できるはずである。
あなたの肉体そのものも、無限数の分子、原子、クオーク等と呼ばれるもので完全なる調和によって維持されている。
そして、その完全なる調和は・・・意図せず、計らず、欲せずとも、そこにあるがままなのだ。
・・・
我々は、生かされていながら、生きている・・・・こと、
有限とも見える・・実は無限の中にいる・・・こと、
・・・・に気付けるはずである。
問題は、
我々の表面の「こころ」がそのようなことに何も気付かず、肉体表面のことや重さや調子の良い悪い、あるいは見てくれが良いとか悪いとか、ごく薄っぺらの観察のみに終始していることである。
また多くの人々が、肉体に必要とされる食物を確保するために、あるいは肉体そのものを安楽に維持するためだけにその意識を向けており、あるいは向けさせられており、
その肉体自体が、大自然の摂理の中で、無限数の構成要素の完全なる調和で維持されていることの「本質」のほうに気付かないことなのである。
自分だけで生きているという観念、分離した有機的物体であるとする自己感、目先の範囲だけに特化した狭い自画像のことを「エゴ」という。
そのエゴを個人の尊厳と結びつけ、個人の尊厳をことさら主張しなければ生きてゆけないとする思想は、一体どこから来たのだろうか?
あまつさえ他人の物もあわよくば競争で手に入れることをしなければ生きてゆけないとする思いこみは、一体どこから来たのだろうか?
いいや、その根拠はどこにもあるわけも無く、
ただ単に、自己による思慮と研鑽を経ずして、他者の浮ついた思考、観念に流されているということ、そのものでしかない。
確かに、大勢がそのようなエゴでうごめいている流れの中にあって、その中で生きてゆくことは、ひと工夫もふた工夫も必要なわけであるが、それも魂にとって必要な学びであることが解るはずである。
その流れを超克する道が修養、研鑽、あるいは意識進化の道である。
いずれにしても、生かされているということ自体に気付かず、我欲で生きていると考えている集団に終始するならば、
我欲で生きていると信じている者たち同士が衝突し、破裂し、挙句は崩壊してゆくことは、なにも黙示録の預言者ならずとも予見が出来るであろう。
・・・
我々がそれを多分自分だと・・いつのころからか思っているところの肉体・・、
またその肉体は、我々の「こころ」の在り方をも反映させるように働いており、
どのようなこころが調和に沿ったものか、あるいはどのような想いが不調和を生じて病をもたらすかの、謂わば学習教材にもなっていることに気付けるだろうか。
健康であった人が何らかの病にかかってしまう場合は、何らかのこころの歪みが根底にあることを示しているし、またその歪みを解放するように促しているのである。
あらゆる病気が外来の何らかの物質による反応によって生じるものだと考えること自体、肉体とこころの相関関係に気付いていないことを示している。
肉体は、すなわちこの世界における五感を中心とした基点あるいは体験ベースでありながら、こころを反映させ、それによりフィードバックを掛けて本来持続して有るべき姿を維持しようとする機能を有している。
それが本来の自己保存本能、自己保存機能であり、この世界の肉体の役目なのだ。
そうして、その肉体に宿るところの魂という実体の、十分なる経験・体験をサポートしているのである。
その肉体自体も我々の意識しないところで、その複雑で精妙な構造を生みだし維持していることに想いを向ける必要があるし、
本当にそれに気付くならば、それに感謝する想いが湧いてくるはずである。
身体はあなたやわたし達の無意識のこころの歪みを受けながらも、言わばもっとも身近な盟友として、荒い世界の人生行路において、終始あなたやわたし達を支え続けているのである。
個人だけという観念、個人我というイメージは造られて流布された低次の自己観念である。
そんなことよりも何よりも、
人の本当の意味での現実、あなたとあなたの「肉体」、あなたの「こころ」に気づき、これを深く意識する必要があるのだ。
我々がこの世界で生きていることは、
あらゆるもの全てがあってこそ出来ることなのである。
そしてあらゆるものは、今までも、これからも、そして今も、
ダイナミックで無限にして完全なる調和そのものなのである。
それをそうと観るまでに至らない人類の歪んだ集合的、近視眼的観念こそが、
1人1人で克服されるべき唯一の幻想である。
自らが依って立ち、それを考え、その体験や経験自体をすることのできる、
我々のもっとも身近な身体は、
本来それをどうのこうのとする必要もない、
象徴的に言われるところの、しかしながら現実の・・「神の宮」なのである。
それぞれの人達が、それぞれで自らを深く省みれば、それがわかるはずなのだ。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。