気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

選択は常に<われ>にあり

2012-09-17 09:25:00 | 覚醒意識

人間の意識の進化拡大においてどうしても通過しなければならないことは、自らの「想念」のパワーへの気付きである。

 

想念がパワーと言ったのは、それは文字通り「力」となり、すなわち現象化の原動力、エネルギーに転換されるということである。

 

この人間の「想念」、心の中のイメージや感情そのものが眼には見えないからといって、何でもない情報のようなものであるという短絡的な「思考」こそが、長い間の人類の「足かせ」になってきたのである。

 

今までの人類の不幸や悲惨さは社会制度や富の不足にあるわけではない。

 

ただひとつ・・・・あなたやわたし達の「想い」の中にあるイメージ、それを青写真やプログラムあるいは形を現わす雛型といっても良いだろうものが、

 

あなたやわたし達の「今の状況」をそのまま反映させているのだということを悟る必要があるのだ。

 

「それはまあ、そういうこともあるかも・・・」というようなもの、あるいはたまにあるような事などではなく、すべてがそうであるということである。

 

人は往々にして自分の人生や環境に不満や不安等があれば、ことさらそれを無視しつつ、何か何処かの他者や社会や、あるいはこの世界の制度などに責任を転嫁しようとする傾向があるものだ。

 

常に原因となる創造者としての自分自身が・・・そこにいないありさまは、

 

それはまさに自分自身では未だ歩けないような霊的幼児性を示していると言えるのではないか。

 

なるほど、今はそういう段階を経験している魂存在達が増えてきており、かつまたそれを巧妙に煽る政治屋、かわら版屋達も増えているようである。実は彼らもおなじ役どころに従っているのだ。

 

表現はよろしくないが、そういう扇動的なお為ごかしの政治主導は、未だわけのわからぬ他者依存の子羊達の集団をまことしやかな宣伝やイメージで操り、別の子羊集団に問題点をけし掛けつつ、そこで生じるところの、無理解と無知が故の歪んだエネルギーの衝突と軋轢を自らの利益に転嫁しようとする行為なのである。

 

今世界中で騒ぎが増大していると見える現象の元は、20世紀に蓄積された世界的経済的富が、リーマンショックを象徴とするデリバティブやハイリスクな金融博打の崩壊によって失われた為の金欠症状が故だけではなく、

 

あるいは商品市場の価格上昇による食糧・エネルギーの入手性の棄損と飢えへの恐怖感の為だけでなく、

 

それはある意味で、金銭・貨幣を象徴とする物質的繁栄への飽くなき歪んだ欲望のはけ口が、今まではそれを生みだしてきた大多数の民衆自体の、なけなしの富の奪取にとうとう向かってきたということなのだ。

 

いつの間にか国家経済の収支そのものが債権によって売り買いされる現状も、あるいはそれに対処すると称される民衆からの徴収増加も、あるいは中東地域の革命による秩序や倫理の荒廃も、お金の為に兵器と人々の命を変換するようなおバカ極まりない戦争も、

 

その全てが、自由と民主的であるはずの、一般大衆の為だと・・・称しているではないか。

 

呆れてものが言えないほど、我々という民衆はおバカにされていたということでもある。

 

実にそれは想念レベルでの他者依存が故なのだ。

 

・・・・違うだろうか?

 

要は、あなたの為に何か良きことをしてくれる・・・そんな、星の王子様やあしながおじさんは、どこにもいなかったということである。

 

なぜならば、・・・・

 

それぞれの・・・あなたやわたし達が「それ」なのだから。

 

 

・・・・

昨今急に世界で拡大した民衆のデモや革命騒ぎ、宗教間の血なまぐさい争いを、単純に世界が良くなる為の改革だと感じている人々は、未だその裏にある「想念」の歪みを知らないのかもしれない。

 

外に革命や改革を起こさなければならないという政治屋プロパガンダは、民衆の無知をそのままにしつつ、それを票に結びつける為の操作手段なのである。

 

「そうそう、悪いのはあなたではなく、制度や他の国やあるいは極悪の支配層なのだ。この問題が消えなければあなたは幸せにならない、・・わたしがそれを何とかしようではないか。・・・・・」

 

大衆の無責任転嫁を機敏に感じとって、そういう風に思いこんでいる人々の代弁をしているのである。

・・・

 

この世界での経験において、外の世界と自分の内面のギャップを目の当たりにした段階に来た時に、

 

往々にして、決して自分は悪くない、悪いのは他人のほうである・・・というような、認識をいつもすり抜けるところの他者への責任転嫁で終わってしまうことが多いのではないだろうか。

 

そうした場合には結果的に、さらに大きな問題点となって還ってくることになるだろう。

 

想念とは思考や感情であり、それが人間世界の創造の唯一のまた無限の力となっているからには、あなたやわたし達はその自覚の程度に応じた創造者なのである。

 

意識的か無意識的かに関わらず、認識によりまず知的なイメージ体を造り上げ、それを固持することで時間を通じて現象化させているのだ。

 

人の人生や生活あるいは人格、性格等が社会、親や世間や上司や管理者や、あるいはどこかの支配者等が決めているなどという「観念」に染まっているならば、未だ自らの創造者としての自覚が無い段階と言えるだろう。

 

何を偉そうに・・と感じるかもしれないが、

  

たとえどのような環境、状況においても、結局は 「全て」は 自分で決めているということを理解している人は、いわゆる意識進化の階段を1つ登った人だと言えるのである。

 

自己創造は、それが、たとえどのような環境、シチュエーションにおいても適応されるのである。

 

その人の意識はその人にしかないわけであり、何をどう思い、どう自覚し、どう表現し、どう行動するかの最終決定者は、常に「自分」なのである。

 

人が言うから、親が言うから、多くの前例があるから、世間の人がそういう風にしているから・・・・等というのは単なる自己の観察情報であり、

 

故に 「それ」 が、あなたの行動、思考を<決定している>わけではないのだ。

 

選んでいるのは全て、最終決定は全て<自分>であることが理解出来るだろうか。

 

そう、・・・全ては、それぞれの<わたし>が決定をしているのである。

 

無意識的に決めている人は、往々にして外の世界の思考の流れに染まって流され、逆に意識的に決めている人は流れを自在に泳ぎつつ、場合によって生じるところの汚濁の奔流にも流されることはない。

 

今までの世界では、物質的な富や繁栄が自らの幸せに結びつくとというような観念が世界に支配的になり、それが故にその物質の元である地球という資源が貪られてきたのだが、

 

それが限度であることを、こころある者は以前から気付いていたはずだし、

 

加速された世界の物質獲得競争の慣性によって、今はとうに限度が超えてしまったのが現状なのだ。

 

今はもうその時を過ぎていることにあなたは気付くだろうか。

 

そういう意味では、人類意識の卒業時期に入っているともいえるだろう。

 

しかしながら、あなたはもう準備していることだろう。

 

次第に大きくなった気象異変や地殻の動きの増大あるいは前代未聞の地震等も、あなたやわたし達人類に仕返しをしようとしているのではなく、

 

盲目的な物質繁栄追求だけの遊びはもう終わりだと告げているのである。

 

やけくそになって原子核でこの3次元舞台を全て壊してしまうこともあり得ないし、

 

地球という「多次元世界」は完全調和の意識体であり、それは決して崩壊することを選択しない。

 

物質表面次元だけに意識を向けて、そこでの肉体生存だけの為にあくせくして来た人類の想念形態はもうすでに時空で飽和してしまい、ある意味で相転換をしているとも言えるだろう。

 

そう、今はもう人間社会の原型である人々の想念を、それぞれで入れ替える時期にあるということだ。

 

人の人たる所以は、その想念にある。

 

また人のゆく道は自らが提示するところの想念が造るのだ。

 

どのような時、どのような場所、どのような時代、どのような集団の中にあろうとも、

 

全において、何をどう考え、どういう状況を得るのか、

 

すべて、選択するは・・・・<われ>にあり。

 

・・・・

 

いままで何度も陥ってしまった・・「それは理想だよ、現実は違う・・・」等という、尤もらしい常識の隠れ蓑を装った、投網のような想念の形にもう捉われてはならない。

 

あなたやわたしが見ている、経験している世界の中には、

 

それぞれのあなたや、わたしが  それぞれ ひとり  いるだけなのだ。

 

意識を持ったわたし・・・これは誰でも気付ける・・・根本的なことである。

 

今・・・内面から生じるところの本来の静謐、安心、平安、豊かさを、

 

明確に、それぞれのこころの中に掲げ続けるのだ。

 

新しき想念を掲げること、その信念の持続は力となって、それぞれの一人一人のあなたの回りに生じてくる。

 

それぞれのあなたの回りが、次第に集合して本当の新しき大きな舞台が現われずにはおれない、

 

それが法則なのである。

 

気付いて、認識して、認めてそれを自らに表現することでしか、

 

・・・・それは顕れない。

 

いばら道も花道も、決めるのは常に・・・<われ>にあり。

 

この世界での舞台演技は、すべて自分で決める者達によって創出されており、まさにそれを知ることにこそ意義がある。

 

あなたのことを・・・一体だれが決めてくれるというのだろうか?

 

自らの撒いた種は自らが刈り取るのである。

 

決して他者ではない。

 

そしてまた、自己の有り方を決めてゆくあなた自身の「想い」を観ることを経ずして、その自らの想いを制御できるだろうか。

 

いいや、それは決して出来ない相談だろう。

 

それは絶対的に必要な魂意識の、いわゆるところの進化・拡大のステップなのである。

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。