人間の最も大切な「行い」あるいは「行為」は何だろうか。
それは他に対して善意を施すことだろうか。
昔から人間関係の黄金律と言われる、
「自分の欲しないことを人に行わないこと」、
あるいは「自己の欲することを人に行うこと」という、気付けば誰にも合点のいく言葉があるが、
それは要するに、自己と他者をあたかも同じように観る・・ということである。
卑近な例で言えば、
現状での欧米流?の個人主義は、バラバラの個人や個性を重視する思想であるが、
個々の多様性から生じる思考と行動の多様性だけに価値を認める考え方であれば、
ある意味で個々別々の異分子の活動によってエントロピーの無制限な増大をもたらすことになり、
その為のタガとしての他者「支配」が必要とされることになるだろう。
めいめい勝手な行動をする幼児達?を先導しなければならない?ことになり、
あるいは、めいめい勝手に動き回る子羊達を囲わなければならないという話にもなる。
陰謀論で良くいわれるところの支配とは、映画で良くあるように鞭を打って人に何かの作業を無理強いする様な事ではなく、
知らない間に無知のままにおかれつつ、そこからある意味でエネルギーを吸い取られるようなものである。
支配されている者達とは、・・気付かぬ間に他者に奉仕している者達のことなのだが、・・・それが自己の意図でなく、他者からの洗脳と騙しによっているところが問題なのだ。
それは、他者に自発的に善意や慈悲を施すこと、つまり他者奉仕という自己研鑽の手順を未だ知らない段階での、無意識の他者奉仕とも言えるだろう。
・・・
気付けば実におバカなことではあるが、現状の特に先進国と言われるところの政治経済は、どこかそういうことになっていることに気付かないだろうか。
特に政治と言われる範疇の人々の主張や行動の明らかな愚かさは、今では相当に馬鹿馬鹿しくも、可笑しくも、ある意味で悲しくもある。
既に、あなたも多分昨今の世界情勢の同時急変等に気付いていることだろう。
また現状で、何処かの世界一自由で民主的なと言われた国家がボロボロになりつつあることと合わせて、それでも虚勢を何とか維持しつつ、内部では中央集権的な支配が強まってはいないだろうか。
・・・
要するに、他者と自己をバラバラと認識している限り、何時まで経っても個人の自由と、その反対の、他者への強制的支配はついて回るのである。
それが今までのような、自己を肉体個人とするような自己認識の結果なのだ。
言葉を変えれば、
個人個人が、例えば何cm、何kgであらわされるような<肉体存在>でしかなく、そうであればこそ、その中でも出来得る限りの権利と自由を獲得しつつ、肉体的な安楽さと快適さを追求してきたのが、いわゆる欧米流の歴史であったということである。
そうしたバラバラの個人の<生存欲求を満たす>ために資本主義やら何とか主義やらという観念の括(くく)りを造り、その観念の中での物質多様性と蓄積を追求してきたというわけである。
そうして結局のところは、内面での真の安心、安楽、快適さを得られるどころかそれを棄損し続けてきたのだ。
そういう肉体人間の集合としての観念の括りの中で、経済成長神話に知らず知らず犯されつつ、
それこそ生き残りのためと称して産業活動に邁進し、必死になって地球の資源を無制限に伐採しながら、後は野となれ山となっては、当然のことながら地球の自然環境が異変を来たすのは火を見るより明らかなのである。
しかしながら、そのような地球のバランスを取り戻すための一大変化自体にも気付かない人間にとってみれば、今起きている様々な地球大の現象はまさしく異変であるわけだが、逆に、地球自身にとっては大いなる変容と言えるだろう。
なぜならば、
ここまで汚れてしまえばあきらめもつくし、きれいさっぱり洗浄しても「誰も」文句は言わないだろうし、またその浄化そのものが次なる進化のプロセスともなるからだ。
我々だって、体や心が汚れたら洗浄や洗心をしなけらばならないはずではないか。
地球も人間や動物等と同じく、間違うことなく「意識体」なのであり、常に変化と進化を旨としているからだ。
しかしながら、
今明確になりつつある自然と人類の一大変容は、それが決してダメなのでやり変えるのではなく、
ある意味で、ここまで泥んこになった経験と知恵を元にしてこそ、新たなレベルに拡大出来るということなのである。
それは人も動物も、植物も鉱物も、それらを包む大きな意識体としての地球も同じことなのだ。
例えば今はもう、何かの大きな変化が起きていることには誰しも気付いてきたことだろう。
今地球レベルの意識集合体は、古い認識レベルからの「卒業」時期にあるし、またその中で体験学習をしている人間達や動物達の意識体も、そのレベルは違えどもまったく同様なのである。
しかしながら、
この変容・シフト自体、アイも変わらず古い観念で終始する者達にとっては、とんでもハプンの一大事のようなものに見えるはずである。
例えば舞台演劇において、それと知りつつ回り舞台で演技している役者達は、終幕によって舞台が回転していることに気付いていれば転ぶことはないけれども、
それと知らない者達は、舞台の転回に気付かず準備できずに自分が転んでしまうことになるようなものである。
益々増えてきた国同士あるいは国内外のおバカな非難合戦、大自然の突飛な移り変わり、水、気、熱、土地のアンバランスな現象表出は、
古いレベルでの時間が少なくなってきたことの焦りを示しており、
別の言葉で言えば、今はもう、
古い3次元的あるいは個人我の認識レベルからの卒業時期を示しているのだ。
個人個人バラバラ別個の間の利害の衝突とその調整に明け暮れた古き歴史の終わりである。
大ざっぱな表現で言えば、西洋風な個人我の欲望の追究から、一段高いレベルでの東洋風な自然との調和への回帰と言えるだろう。
一段高いレベル、より広く見渡せる次元での自己認識とは、
自他があるいは人間と大地が、本質的にひとつでありながら、ひとつの全く違う側面の表現形であることを自覚していることなのである。
それを象徴的に言えば、
すべては「ひとつ」である・・・ということであり、
また「ひとつ」であるがゆえにこそ、様々な側面を演じ分けているのだ。
それを言うならば、こういうことになる。
実のところ・・・・あなた は わたし、 わたし は あなたである。
・・・
あなたの意識は「われ」という気付きによって自己を認識しており、
わたしの意識も同じく「われ」という気付きによって、自己を自己として認識している。
動物も植物も、レベルが違えどもそこに生命表現、存在現象があるからには、
それら全ての根本に「意識」があるのである。
あなたを見る動物やペットの眼にも「それ」を感じることが出来るだろう。
あなたの視界の中にたたずむ花の姿にも「それ」を感じることが出来るはずなのだ。
それを・・覚知しつつ、想念で、言葉で、それを明らかに表現できる者が・・・・人間なのではないだろうか。
それこそが「人間」を演じている魂意識の本来の役目というものである。
そして、今はもうそれを再び思いだす時期に来たのだということである!
大いなるひとつの普遍意識、根源意識に気付くことによって、
あるいは「意識」という全ての存在のベースバンドのアクセスを通じて、
昔は奇跡だと言われた現象も当たり前のことになるだろうし、
人と人の間のダイレクトな意志疎通も当たり前となり、否応なく嘘も・隠しも・騙しも存在出来ない世界になってゆくのだ。
人間とは 人と人の間・・・・という意味であり、
その<間>、あるいはギャップを次第に無していくことこそが、
人間を演じている魂意識の大いなる学びなのだと言えるだろう。
本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。