気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

われ有り

2012-06-16 07:52:49 | 宇宙時代の考え方

今あなたのこころが静かで落ち着いて、平安でないならば、

 

日常生活において常に何か苦痛や不快感、不安があるかもしれない。

 

今の瞬間に対してどこか不安感を持っているならば、

 

自分と他者との有り方に何か疑問や思い違いがあるかもしれない。

 

嫌な相手、面倒な仕事等、生活の不自由さ等感じているならば、

 

一体何が原因なのか、いい加減に突きとめておいた方が良いはずだ。

 

・・・・

 

我々は、どこにあっても、どうあっても、こころ穏やかであることが出来るし、またそういう得難い修練が出来る世界に生きていることを忘れてはならない。

 

我々は世界にあっても世界に属してはいないのだ。

 

世界にあっても、世界の汚濁の時流に流されることはないのだ。

 

世界は来ては去ってゆく、体験の走馬灯のようなものであり、

 

それに執着も期待もすべきものでもないはずである。

 

いかに世間が騒いでいようと、世界がどよめいていようと、

 

それらは全て来ては流れてゆくものである。

 

人は皆、本来、「意識を有する」・・行雲流水の動きのごときものである。

 

・・・

何があっても、何が無くても、ただ、今、得難い体験をしているのだという本来あるべき自覚、

 

その自覚を忘れさせるような、こころの戸惑いと、どこかある不安、

 

そう、

 

その不快感あるいは不安等は、ほとんどが「人間関係」から来ているはずだ。

 

「自分」との関係、「親子」との関係、「家族と」の関係、「社会と」の関係・・すべて<人間関係>である。

 

あなたとペットや植物の間に相克や葛藤、不快感などあるまい。

  

お月さまを見て苦痛に顔をゆがめる者などいるわけもない。

 

風のそよぎを頬に感じて不快感や不安を抱く者などいるわけもない。

 

常にある・・と感じてしまう、人と人の間の緊張感や苦痛、

 

多くの人はそれに蓋をし、無視し、何事も無いように装っているが、

 

常にどこか、人の間で生きていることに不安を感じているために、

 

こころ穏やかでいることが出来ないのかもしれない。

 

人々は常にこころ穏やかか?

 

そうでないからこそ、次から次へと大勢で共通する刺激を求め、造り出し、大勢でその対応に追われているかのような遊び、言わば疎遠な仲良し関係とも言える遊びをしているようなものだ。

 

そうでないからこそ、外の世界に自分の窮地を救う星の王子様を求め、あるいは世界を救うリーダー等を求めるのだろう。

 

極め付きは、神を外に鎮座させ、それに願いを掛けることになる。

 

あるいはまた、この世界が破滅すれば全て収まるという想いに捉われてしまい、そのこと自体の意味に気付かないことになる。

 

外にいる不特定他者が、どうしてあなたを救うことが出来るだろうか?

 

道でころんだのを助け起こすのとはわけが違うのだ。

 

自らのマインド、こころの作りあげる観念を、他者が代わって対処する期待が人々の間にあるからこそ、洗脳やら、マインドコントロールというようなおバカな方法あるいは陰謀も出てくる。

 

確かにここまで来れば、世は末に近づいているとも言える。

 

マインドの、こころの領域に人々が着目しだしたとも言えるし、それを外から加工しようというおバカさ加減も加わっている。

 

しかしながら、

 

それらのマインドを他者が加工・操作する方法は、意識ある存在にとっては、決して正当でも可能なことでもない。

 

次から次へと出ては消えてゆく様々な社会的方法論と色とりどりの対策、革命や改革が、今まで人々を幸福にしたことなどあるだろうか。

 

騒ぎに騒いで、無数の命まで無駄にしたうえで進んできたのが現代文明であるというならば、それは如何に、いかに無駄が多いことだったろう。

 

新しい制度になれば、仕組みが変われば、人は皆幸福になる・・・

 

外から来る幸せ・・・?そんなたわごとを未だ信じているのだろうか?

 

・・・いいや、もう十分気付いているはずだ。

 

全ての世界の中心は、意識を有するその人、その人である。

 

どうして他人にその中心を、決して渡せもしないのに渡そうとするのだろうか?

 

どうして他者に期待するのだろうか。

 

その期待が執着となり、期待が外れて不信となり、不信が進んで挙句の果ては不和となる。

 

不和となっては、こんどは何とかそれを解消する手段として、最後には衝突となることも歴史の常である。

 

こころある者にとっては既に見え見えではないか。

 

それらのパターン、その悲惨で愚かな体験は、次から次へとやってくる魂たちの得難い体験とは言え、この世界ではもう十分であろう。

 

自分を忘れ、外の仕組みで作りあげる架空の籠のなかの鳥になって眠っている体験、

 

・・・それは、もうやめにしようか。

 

外にあると見えるものは、あなたや私たちの植え付けた、あるいはいつの間にか植え付けられた「価値観念の投影」なのである。

 

どこにいようと、どういう存在であろうと、

 

人である以上は、人として、人であることの本質は無くならない。

 

人であることとは、

 

自分が自分である!・・という意識を発露しているところにある。

 

意識の発露が、想いや感情として表現され、

 

あなたの存在の体験のシナリオを造り上げる。

 

想念は、あなたのその世界での衣服になるようなものである。

 

自分で知らず知らず着込んだこころの衣服によって、

 

自らの体験を造り上げる人間の所作は、

 

自らに意識的である・・・という基本を忘れてはいるものの、まさに創造そのものである。

 

あなたは、あなたの世界において、唯一、

 

「わたしはわたしである」と意識している存在である。

 

人は皆、「わたしは・・・わたしである」 という意識の発露点であり、

 

それこそ、神なる者の部分であり、また全体の縮図でもあるのだ。

 

これに証拠も物証も証明も権威付けも・・・要らない!

 

複雑なことが高度なことであるというような嘘の観念から外れ、

 

いつもあった、今もある・・当たり前のことに気付くことが必要なことである。

 

 

全ての根本は・・・・・・あるではないか。

 

 

あなたは「あなた」で「今」そこに有り、

 

わたしはわたしで・・・いまここに有り!

  

他者がどうだとか何が不具合だとか、様々な作られた観念から物を言う前に、

 

それらの全ての原点である、

 

それぞれの<わたし>にその意識を戻そうか。

 

巨大な世界の中に、小さな物言う物体としてのわたしが生れたと考えているのもまさに「盲想観念」である。

 

<あなた>がいなければ、あなたの世界は現われないはずだ。

 

人は皆本来、流れては消えてゆくような、外の世界に流される川面の木の葉ではないのだ。

 

それら全てを観ている者であるからこそ、川面の木の葉にもなってみることが出来るということに・・・気付けるだろうか。

  

・・われ・・有り!・・・

 

ここから宇宙の全てが展開している。

 

ひょっとして、どこか忘れてはいるかもしれないが、あなたもそうである。

 

そういう奇跡のような諸世界の中の・・・1つの小さなこの世界であっても、

 

今・・有ること・・・・に、

 

わたしは本当に嬉しい。

 

 

 

あなたはこの世界と自分を、どう感じているだろうか?

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。