気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

観の大転換

2012-06-19 07:48:35 | 新たなる地平線

今・・、観の大転換をする時が来ているようである。

 

大転換するのは、外ではなく、あなたやわたし達の「観念」のことである。

 

今が、自らの想い・シナリオを変える時である。

 

余計な御世話とは言え、ここを勘違い、いや観ちがいすることの無いようにしたいものだ。

 

外の世界には様々な末期的な、あるいはハチャメチャな風潮が流れており、如何にもその中に何かが有りそうな雰囲気を造っているが、

 

・・・そこには何もない。

 

何もない・・とは、それらは全て外での出来事であって、あなたと関係のないところで造られたものであるということである。

 

何もない・・とは、あなた自身の創り上げたものは、提供されるものの中にはほとんどなかったということである。

 

それは逆に言えば、あなたやわたし達自体の、しっかりとした信念、観念をあまり装備していなかったということでもある。

 

あるいは全てが行き当たりばったりの偶然であるということを、無意識に選択していたということでもある。

 

やはり間違いなく自分で選んでいるのである。

 

意識的に創造せぬ・・という創造・・もある。

 

・・・だから例えば、少しばかり意味が違うが、外のあらゆる全てが有償であったというわけであろうか。

 

 

相当に笑える話ではないか。

 

 

しかしながら、

 

偶然に起きてくる外の世界の有様を、なんとか必死で変えようとする幼い努力の時代はもう終わりである。

 

それは、現実すなわちすでに放映された眼の前に展開する映画のシーンを、何とか必死で変えようとするものである。

 

3次元的現実、あるいは銀幕・スクリーンをほじっても何も変わりはしない。

 

既に出てきたもの、終わったものを・・やっと見えた物事を、終わったあとでバタバタ変えようとすること、すなわちいわゆる『過去』を変えようとしてきたのだ。

 

あきらかに違うだろう。

 

・・・・。

 

・・・深く感じるべきところではないかと思う。

 

なるほど、こんな単純なことに気付かない有様が、いわゆる3次元的な意識状態なのであったわけだ。

 

自らで作りあげる、よそ様の価値観念・・それに基づいたシナリオであれば、確かに不具合、不都合になっても仕方があるまい。

 

付き合いが良いわけでも何でもない。

 

またそれらが有償だ、金を持ってこいと言われてもしようがないかもしれない。

 

また、その為に人生を身を粉にして働くこと、あまつさえ身近な周囲で諍いを起こすことも、どこか悲しくも可笑しい仕儀になっていたのだった。

 

確かに長い転生を経なくても気付けることでもあっただろう。

 

・・・

 

大きな話になるかもしれないが、

 

ある意味そうやって、いにしえの数限りないアトランティス的文明も終わったのだ。

 

他者の有様に、外の科学に、結果ばかりの物質的栄華に人々の意識がフォーカスされ、

 

元にある原点、意識の発露たる自らの魂の繁栄に眼をそむけてしまったならば、

 

魂意識としては、その造られた外の世界の移り変わりに自己移入してしまうことになり、自らのよって立つ基盤を失わしめる「体験」をすることになる。

 

物、物質とは意識の表現の為の素材でしかないにも拘らず、その素材に自己同化するということであるからには、まさに魂意識が次元降下をするということになる。

 

またそれも貴重な体験ではあるものの、繰り返す必要もありはしない。

 

 

地球という惑星生命圏も、一見鷹揚としているが、実のところ体験修行の場であればこそ、人類という集合せる魂意識自らの基盤を、自らで見失う形のシナリオを演じさせざるを得ないということになる。

 

行き着くところまで行ってしまえば、引っ張り続けたゴムがプツンと切れるように、飽和点、カタストロフィー点を迎え、そうして文明という基盤を失うこと、完全なる崩壊を体験することにもなるのだ。

 

なるほど、魂意識として過去というステージでそういう体験をしている存在達は、今回もまたそうして全てが終わってしまうと思いがちなのかもしれない。

 

しかし、またそれもどこかの誰かが造り上げる有償のつまらぬシナリオではないか。

 

もうおバカな恐怖パターンはやめにしようか。

 

もういい加減、勇気をもって『自らの』観念を造りあげる時期が来たのだ。

 

ひっくり返るのは外の世界でなく、

 

それぞれの<わたし>の観点、観念である。

 

くどいようであるが、観念をひっくり返すのは、それぞれのあなた、それぞれのわたしである。

 

例えば、どうあっても問題ないと感じる楽しい想いにフォーカスするのだ。

 

真・・・善・・・美・・・!

 

楽々・・・・祝福・・・・!

 

燦々たる愛・・・!

 

ありがとう・・・!

 

面映ゆい想いはもう不要である。

あなたが、これは真実だと今感じる最高の想いを、常に前面に持ってこよう。

 

そのベースに従ってあなたの世界は様変わりしてゆくのだ。

 

単純過ぎて見逃すのが根本的な真理というものである。

 

 

・・・とは言え、・・・実は、やっぱり現実がね・・・・という・・・再びの観念を保持する理由もありはしない。

 

現実』とは、一瞬で過ぎ去る『過去』のことの謂いである。

 

今こそ・・・が常に創造の湧出点である。

 

常に今のこころのパターン、体験のシナリオ・想いを変えることに先ず全てを向けることである。

 

 

あなたやわたし達は、様々な知識はあってもそれをパワーにせず、今までこころの中心に信念たる何も据えていなかったのかもしれない。

 

誰も称賛もしないような複雑な社会的知識が、それこそ複雑な迷い道を造ってきたわけである。

 

あるいは尤もらしい外からのお仕着せを信念にしていたのかもしれない。

 

それが理由で、様々な外の価値観念によって動いてきた、あるいは動かされてきただけの話である。

 

それは、それこそ、そのように、単純な理由なのである。

 

人の人生はぴったりちょうどその人の、「想い」が創ってきたのだが、

 

その想いを自らで意識的に選択するかわりに、

 

大枠で、親や社会の大勢の尤もらしい常識という「非常識」に従ってきただけの話である。

 

そういう部類の、優しく押しつけられた、何かありそうな観念によって自分以外の者たちの造るシナリオで踊ってきただけの話である。

 

 

それらの結果であるところの、混乱の極みにあるような外の世界を良く見るべきであろう。

 

それは既に飽和点を迎えているではないか。

 

何がどうした・こうしたという結果をいじくり回す世界にあなたの意識を失わず、

 

自らの観念を一大転換させ、

 

自らの意識、創造の原点、それぞれの<わたし>に帰還すべき時である。

 

これはすなわち、本来有る魂意識の上昇拡大の浮力となる。

 

勇気をもって自らの『輝く想い』を発しようか!

 

またそうなるべくして有るところの自分を少しづつ表現しようか。

 

表現こそ少しではあっても、すでに観は転換されているのを忘れないでおこう。

 

たとえ想いのベクトルは小さくとも、方向転換はされるのだ。

 

真・・・・善・・・・美・・・!

 

楽々・・・・祝福・・・・!

 

燦々たる愛・・・!

 

そしてお互いさま・・・!

 

有り難うございます!

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。