全ての人間に共通したものは、他でもない・・・「わたし」・・といういわゆる自意識だ。
それぞれの「わたし」感、あるいは自己を自己と感じていることこそがあらゆる人々に共通したものだ。
人々に共通するのはお金でも皮膚の色でも、性別でも、身体構造でも家でも、あるいは民族でも習慣でもない。
全ての人々に共通するものは、まさにそれぞれの<わたし>という自意識である。
男でも、女でも、子供でも、大人でも、極北の人々も、ジャングルの中の人々も、都会の人も、田舎の人も、
すべての人々は、それぞれの・・「わたし」・・によって、見、聞き、思い、憶え、感じている。
また、その「わたし」にことさら気付いていることが・・「わたしは有る」・・という感覚である。
このように、我々のよって立つ、生存している全ての基本にあるものが、「我有り」という言わば自己を・・自己として・・気付いていることすなわち<自己認識>である。
あるいは自らを自らであると認識している有様・・いわば<自意識>である。
その自意識自体に様々な観念を付与しているのが個人個人の、別個の<私>という観念群である。
自分だけが良ければ・・という歪んだ観念に色づけされたものがエゴということになるだろうか。
エゴをどこか誰も好まないのには理由があるのだ。
自分だけが生きているわけではないのが至極当たり前のことであるからだ。
違うだろうか?
しかしながら、エゴ、個別別個の私・・・という歪んだ、あるいは極限された自己観念、自己意識の元にあるのは、やはり間違うことのない「普遍的意識」なのである。
・・・・
自己が自己として有ることに・・気付いている・・<意識>こそは、あらゆる存在にとっての共通の土台なのだ。
わたし・・・とは意識している・・という自己表明でもある。
その『意識』には、大きいも小さいも無く、重いも軽いも無い。
我々がこの世界に生きてあるということを自覚できるのは、大きいとか小さいとか、遠いとか近いとかいう様々な現象のおかげであるが、
その様々な量や大きさで量れるような相対的な事象、現実、現象をそれとして「認識」しているのは、量や大きさで測ることのできない<意識>によっているわけである。
このように、「意識」には大きさも重さも形もないが、大きさや重さや形を認識する当の主体そのものであることに気付けるだろうか。
意識それは言葉を変えれば、空(くう)の自己認識とでも言えるだろうか。
空(くう)というのは、何も無いように見えて、まさに、そうであるからこそ全てを生み出すことが出来るものである。
言葉では何かしらの語弊があるものの、空(くう)とは、顕れている・・遥か無限のこの宇宙さえもその中に含む、あらゆる全ての器、あるいは遍満する素材のようなものである。
大地も山河も、草も木も、そして地球も月も、太陽系も、外宇宙も、あるいはミクロの細胞も、分子も、原子も、あるいはクオークと言われる極微の存在さえも、
・・・・その空(くう)・の内・・にある。
あちらの星々、こちらの星系、はるかな銀河、その銀河の向こうの向こうにある銀河団も、その空(くう)の中にある。
ごくごく身近なあなたや私たちに周囲、様々な物質、測れる空間もその空(くう)の中にある。
世界という世界、あらゆる世界でその極限までの様々な形を生み出すことが出来るのは、ただ空(くう)あればこそである。
空(くう)は、どこにも、いつでも、あらゆる場所にも、あらゆる時間にも、有るものである。
すなわち根源、神となずけるものは、あらゆる時空、それを超えたものであるが、
越えたものは、その向こうに鎮座して有るわけではなく、
今ここにもあるということだ。
過去にも未来にも、近くにも遠くにも、いわゆる高次元にも低次元にもある。
それは・・今・・ここ・・に有り!なのである。
・・・・
その空(くう)において、空(くう)を様々な形に変えることが「創造」と言われるものである。
そう、
空(くう)とは、何も無いことでなく、すべての可能性と多様性を含む全ての母体というべきものである。
その空(くう)を無限に形態化する働きが、意識の働きあるいは認識作用といえるだろう。
意識ある存在とは、それ自身の空(くう)から有としての自らを目覚めさせ、創造をしながら、再び無限の空(くう)へと回帰する言わば壮大な遊びを創造した者のことである。
鉱物も植物も、動物も人間も、星も銀河も、その意識ある存在といえるはずだ。
すなわち、我有り・・・という自意識形態にも様々なものがあるということであり、また遥かに大きくその意識を広げることを希求しているのも、当然のことであろう。
普遍的意識は全てを貫いてあるからである。
個別から無限へと再び向かう方向にある意識の進化とは、宗教的な表現ではあるが、神自らの再発見という、ある意味で神聖な遊びのようなものとも言えるだろうか。
それを例えれば、池の中に小石をポチャーンと落としたようなものだろうか。
中心に落ちた小石は、すなわちそこを中心として、間違いなく<全て>に広がる波面を生じさせるだろう。
そうして池の周りあるいは極限まで波動が届いたら、再びその波動は全体から中心へと取って返すことになるだろう。
そうして池の中は様々な波面で揺れることになるだろう。
あるいは、
根源から発した光は、様々な次元方向に伝搬されつつ、体験や知覚によってあるいは、あらゆるものをその光の輝きによって明らかにしてゆくだろう。
その光は、次元の四方八方に広がって自らの言わば創造、あるいは観察を広げてゆくだろう。
あなたもわたし達も今その中にあるはずである。
例えば古くからある言葉、八紘一宇・・・は本来はこういう意味であろうか。
意識ある存在としての自覚の拡大されたもの、人間の深く大きなベースであるところの「魂」は、一なる根源から生じた個別の<光>とも言うべきものであろうか。
その魂たる光の中には、様々な自己を有しているのもまた自然なことだ。
あなたの魂の中にも、様々な<自己認識の記憶>とも言うべきものがあり、それはまさしく時間と空間を超えているのもうなずけるはずである。
その記憶なるものをたどることは、ある意味で自己を拡大認識する事につながるわけであり、その全ての自己認識の拡大によって、自らが元々一なる光であったことを思いだすだろう。
意識進化とは宗教的な表現ではあるが、神自らの再発見という、ある意味で神聖な遊びのようなものとも言えるだろうか。
・・・
その一なる根源とは、どこにでもある、どんなことにもなるところの、空(くう)のことでもあればこそ、
それぞれのあなたのその意識によって、今ここで何様にも自らの神聖さを顕すことが出来るのだ。
また、あなたもわたし達も、誰も皆、草も木も、石も、川も、大気も、雲も、月も太陽も、星も星の集まりのその集まりも、
全てがつながっているという事実に気付けるだろう。
わたしはある・・・
形態や内容や時空や条件など様々に異なってはいても、
全ては一なる意識の顕現なのである。
・・・
その一なる意識はまた空(くう)であり、何ものでも有りうる・・無限の可能性である。
空(くう)は即ち是色である。
あなたや私たちに今ある、この現実生活も、様々にある自己認識の1つなのである。
自らで意識することを自らで顕す・・わたしに気付く・・・・ことこそが目覚めの本質であろう。
目覚めるということは、決して他者の行為に気付くということではない。
・・・確かに宇宙というか、あらゆるすべては一なる意識、言わば神の<わたし>という意識の中にあり、
その宇宙には本来・・他者はいないということだ。
<ワンネス>という言葉は、それを意味するはずである。
本来言う世界とは、
全てはひとつでありながら、
またあらゆる全てがそれぞれの色をもつ本当に素晴らしき世界のことである。
これが様々な歪んだ観念の眼鏡を外したところにある、素の世界、真実の世界である。
本日も拙い記事をご覧頂きまして、誠に有難うございました。
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