世界はそれこそ大勢の「私たち」であふれている。
私達、貴方達を含め、今地球表面次元には70億の私という自覚を持った人間達がいる。
多分ほとんどが解り合うことなく、ただ同時に生きているだけと感じているかもしれない。
仲の良い親兄弟、夫婦、姉妹も、ただ付き合うのに慣れているだけのことであり、お互いの中身については、実際うかがい知ることも出来ないと思う時もあるはずだ。
そういう風に、
大勢の私たちの想い、感情、生活、体験、悲しみ、歓び・・で満ちているのがこの世界である。
しかしながら、大なり小なり多くの人々の共通した見解は、この世界が私にとって優しくないということかもしれない。
優しいどころか、ある人にとっては生き馬の眼を抜くような油断ならない環境であり、またある人にとっては無意識に惰眠を決め込むことでしか対応できない信じられないほど忙しい世界であるかもしれない。
あるいはある人にとっては、要領よく渡っていくことを学習するための世界かもしれない。
少なくとも、何もせず、何も考えずに、そのままで生きていることが難しい世界かもしれない。
なるほど、この世界が実に素晴らしい世界である等という人は、少なくとも周囲にはなかなかお目にかかれない。
多分、多くの人たちは、幸せで満ちているとは思えない世界と感じていることだろう。
それでも頑張ることに意味があると、多くの私達はそう想っているかもしれない。
そうやって頑張ってきたあなたは心底ではどう感じているだろう。
わたしはどうだろうか?
この世界は、必死で頑張らなければならない頑(かたくな)・な世界なのか?
本当にそうなのか?
いいや、
本来はそうでもないかもしれない・・・ということに気づけるかもしれない。
そうだと思っている・・・それも、また刷り込みや思いこみで出来ていないだろうか?
自らの出来うる範囲で調べることは、この際必要ではなかろうかとも思う。
・・・・・
多分だが、
ここにいる存在たちは、それぞれのわたしのあり方を、見もしない不特定の誰かが決めている・・などという嘘を信じ込むほど幼くはないはずであろう。
自分のことは結局100%自分で決めていることに気づくには、自己観察とともに、こころを占めている既成の観念の大掃除が必要である。
・・・
ちょっと我に帰って考えてみるのも良いかもしれないとは思わないか。
気づくべき観点を<外>から<内>に向けて見るのも良いとは思わないだろうか。
あなたの観点のベクトルの向け先は・・・、
外の世界を観察している<あなた>自身である。
世界を感じている<わたし>自身のことである。
・・・・
<わたし>とは何だろうか?
わたしは固有の名前だろうか。
わたしには名前が付けられているが、それは一種のラベルであって言葉で発する「観念」でしかない。
例えば 「田中太郎さーん」 と言われて自分のことだと振り向くが、それは名前であって<わたし>自身ではない。
名前は固有名詞であるが、それはわたし自身ではなく「ラベル」である。
私は年齢を経た個人であろうか?
わたしは幼児の時も、若い時も、中年のときもわたし自身であった。
年齢は、瞬間の移り変わりの記憶でしかなく、年相応になった肉体の成長・老化の変遷記憶のようなものである。
年齢もわたし自身ではない。わたしは常に<今>在ると感じている存在だ。
わたしは学歴だろうか?
学歴も、学習経過とその社会的な組織を経たという記憶でしかない。
わたしそのものは学歴であろうはずもない。それは記憶である。
それでは、わたしとは・・それらの「記憶」なのだろうか。
それはわたしではなく、わたしが体験した生活によって得られた個人的な「情報」でしかない。
普通に個々人のアイデンティティーと言われるものは、連続した私というイメージを醸し出す個人独自の「記憶」であるが、
しかしながら、・・それは<わたし>の「記憶」であり、<わたし>自身であるとは言えない。
わたしは・・男という、あるいは女という性別だろうか?
性別は男か女かという、この世界に肉体を生み出し続ける生物的仕組みの、どちらかの働きとその種類名でしかない。
性別によって様々な悲喜劇とハプニング、幸せな家庭生活への刺激にはなるが、性別自体はわたしではない。
男や女という性別は、わたし自身ではない。
それは性別という肉体上の機能の違いであり、それを明示するラベルである。
記憶は蓄積された情報であり、情報は参照がされなければ存在意味が無い。
参照する主体である<わたし>は「記憶」とは言えない。
そうそう、・・それでは、わたしはこの肉体だろうか?
わたしは肉体を常に感じて生きているが、それは五感という波動感受による立体的なイメージにすぎない。
肉体は極めて近い位置にある、観察される、あるいは五感感覚で認識される客体であり、それを観察するところの<わたし>自身ではない。
わたしが肉体の外側にいるような臨死体験や体脱体験はまさにそれを直接示している。
わたしは脳髄だろうか?
脳髄には複雑な神経細胞組織があり、電気インパルス等で様々な処理を行っており、またその働きの一部を医学実験などで確認することが出来るが、わたしがそれを自らのものとして追跡することも意識することもない。
解るのは・・・脳髄の一部の機能である。
それはある意味で自動処理をされている複雑な情報処理機構としか言えない。
肉体は様々な波動情報処理の為の人体の<中枢機能>であるとは言えるが、<わたし>であるとは言えないだろう。
そのような情報処理によって<わたし>という感覚が生じていると思われるがゆえに、わたしが脳髄であるとする予想もあるだろうが、
それは脳の<働き>であって、脳自体ではないし、わたしであるとはいえない。
わたしは脳髄という有機組織自体である・・とも言えないのだ。
このように見て行くと、普段自分だと思っているものは、全て物質形態、あるいはそれに割り当てられた言葉、ラベルであるということに気づけるだろう。
実のところは、すべて物として観察されたことに関する観念、ラベルであり、
それこそが、霊的教師が言うところの、現われたものへの「自己同化」である。
いわゆる物質次元に自分を幽閉しているとも言える表現は、この物質顕現形態への「自己同化」、現われた現象・結果への「自己同化」なのである。
わたしは、・・・わたしが<そう>想うところの者である・・・ということである。
観察されたものを、あるいは物を観念、概念で集大成して、それをなんとなく<自分自身>であると思っているという状態である。
観察する・・<働き>・・そのこと自体に気づいていないとも言えるのだ。
確かに、色・即是・空の「現われた様々な色」の方ばかりを観ている状態であり、
それを生じせしめるところの「全てで充満せる空(くう)」に気づけない在り方とも言えるだろう。
・・・
ここに重要な理解が生じるのではないだろうか。
肉体や脳髄が物質組成の組織体であっても、それが<働いて>いなければ、
そしてそれに<気づいて>いなければ、
<わたし>という自覚は生れていないだろうということである。
その働き・・、機能させるものは、目に見えない「エネルギー」というのが解り易いだろうか。
物理学的な諸現象の動き、働き、仕事、変化は全てエネルギーによって生じるとされているのが科学的常識である。
そのエネルギー自体は眼には見えないが、科学的には、働きの量的変化によって間接的に観測され、数値に変換されるものである。
確かに言えることは、物質界のあらゆるものはエネルギーがなければ勝手に動くことは無いのだ。
人体のエネルギーは食物や大気から得られているとされているが、それらがどのようにエネルギーに変換されても、エネルギー自体は眼には見えない。
<わたし>はその<働き>を観察することが出来るだけなのだ。
・・・
したがって、身近なところからわたしとは何かを言えば、
わたしとは・・、わたしには物質原子による肉体組成があり、その動きを生じせしめる<エネルギー>で生きているという・・・ことに気づいている、またはそう観察している存在であると言えるだろう。
我々は、観察結果・・を集めて、あたかもそれを<自分>であると決めている・・ということである。
<わたし>は名前、年齢、性別、肉体、・・・それらすべてに気づいているわけであるが、
そうであるがゆえに、それは属性と言えども、<わたし>そのものではない。
それらは、わたしがおぼろげながらも客観視、あるいは観察できるものであり、<わたし>自身であるとは言えない。
現われたものは、肉体含め、全て客体、現象であり、
その・ど・れ・か・が<わたし>であるとは言えなくなるのだ。
肉体さえも観察結果の集合的観念であり、それが<わたし>であるとは言えない。
確かにそれもこれも、観察結果のラベル付けされた観念、概念でしかないということになるだろう。
当然のことながら、
この記事すらも、言葉で表された概念を集めた文脈でしかないが、それを読んで何かを感じる当の<あなた>がいるはずである。
人間は、現象をある一定の見解を経由して観察し、それを概念化しているだけのことなのかもしれない。
それをあろうことか、その観察結果や概念、観念を自分であると感じているのが、いわゆる『個我(エゴ)』と言われる仮想の自分である。
個我、エゴは・・肉体、名誉、男女等である自分イメージに特化し、あるいは自己同化し、(それを自分であると思うこと)、それが仮のものであることを拒否しつづけるところの、<刹那的な自己感覚>とも言えるだろう。
人々が、小さな肉体に自己同化すれば、個人はバラバラの単独存在となり、また人の集合である社会は、孤独な者達の集合となり、軋轢や葛藤を生み出すことにもなる。
ところで、
わたしは肉体を含めるあらゆる現象を知覚し、認識するもの・・であり、個別の肉体自体、あるいは認識した結果の観念体系などではない。
まるで<わたし>は本来どこにも居ないように感じるかもしれないが、実のところは確かに特定のどこかにいるわけではない。
<わたし>とは、本来どこにでも居ることができるとも言えるのだ。
それを悟ることを『解脱』ともいう。
それは、
観察者であるところの本来の当り前の<わたし>に気づいている在り方である。
また、観察とは「意識」の働きである。
多元宇宙の、あらゆる全てを観察している意識・・そのものを「神」とも「普遍意識」、あるいは「一なる根源」ともいうのであれば、
意識的な存在である人間は、<それ>と元を同じうする存在なのである。
意識によって全てと<意識的に>繋がっている存在・・それを人間という。
また、今あなたが<あなた>であると意識していることは、
すなわち、
存在諸世界の根源意識、あるいは普遍意識が<わたし>であると意識していると同義なのである。
一は多なり、無限なり。
多は無限なり、即ち 一なり。
<富士 は晴れたり 日本晴れ>
不二・・一なる者は、己の光をあらゆる次元に放射し、
あらゆる方面から<自ら>を観察しようと思った・・。
そして・・・それが、あなたであり、それぞれの<わたし>である。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。
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