我々はかなりな部分、外部からの気がつかない刷り込みがあることに気づかねばならないだろう。
今まで常識とされてきて、大勢の人々の共通した事実であると思いこんできたもの、あるいは思い込まされてきたものに気づかねばならないところにいる。
外の世界にあるとされる常識とされる観念、決まり、習慣、・・それらがいかに我々の生活を支えてきたか・・ということではなく、
いかに本来の意識的存在としての我々の自由自在さを、あろうことか制限し、極限し、押さえつけてきたかという、なかなか理解がし難いものに、意識を向けなければならないということである。
人間は、空気を吸っい、飯を食って消化し、排出しながら毎日を必死で生きてゆかねばならない存在であるというような観念が・・誰にもあることだろう。
どんなに衣服を着飾っても、姿形良くみせても、権威で威張っても、空気を吸い、飯を食って消化し、自分自身でさえ嫌がる排出物を毎日垂れ流している動物的な存在でしかない・・というような観念が・・・誰にもあることだろう。
そういう観念があるからこそ、そうではないという本質からのせめてもの努力を健気にしてきただけかも知れないのだ。
他人と比較し、その中で生き残るために、自分を良く見せようとして、富を貯め、学を溜め、権威の刹那の梯子を登り、目先の肉体の安寧の為に他者のつく明らかな嘘まで真実と思いこむ。
そうやって、学校で習うような「社会的動物」としての人間像、自分像をいつの間にか植え付けてしまったのだが・・・、それが肉体への自分の同化・物質への自己同化であることに、あなたはもう気づけるだろうか。
他者に注目してきたのは、あるいは外に注目させるようにしてきたのは、それぞれの人の中にある「意識」に気づかないようにするためなのだった。
意識的に見る、観る行為こそが、その意識を発する者の周囲に現実化するという真実に気づくには、何万年の生まれ変わりも、多次元世界の何回の転生も、今は必要ではないのだ。
今こそ、稀有の時・・である。
我々とは、まさに意識的存在であり、意識の及ぶ範囲だけは確実に自分を創造できる存在である。
あなたは、もう十分過ぎるほど留まっていた古い自己認識、自分は肉体でしかないという自分への刷り込みから脱しなけらばならない時期にある。
人々の知らないことは、実にたくさん、実にたくさんある。
今までのような、不満や、不安や、いじけや、恐れることや、自己犠牲でごまかすことや、病気や、孤独や、逃避や、破滅願望や、批判や、非難等をしている段階ではないだろう。
もうこの世界での旅の道中でついた、足の泥、こころの泥を洗った方がいいようだ。
そんなことよりも何よりも、
人の今だ知らないこと、未知なること、実に素晴らしきことは、それこそ山の山ほどあるのだ。
あなたやわたし達が、その意識を共有している、多次元宇宙とは、恐怖や不安とは全く無関係の、未知なる楽しさと調和に満ちている。
外から来る・・自分の中の様々な<影>・・にもう騙されてはならない。
こころの・・マインドの雲を吹き飛ばし、その向こうにいつもある、真なる太陽の光を、じかに「感じ」なければならないのだ。
それを客観視し、真実と虚偽を見分けるためには、
古い観念、一般常識、既成概念、あるいは自ら人生で積み上げた価値観から、一旦は外れなければならないはずである。
気づくべきは・・・常に、「わたし」が行うところの「自己認識」という自己創造である。
これは精神世界の話ではなく、これこそ、今の現実世界のことである。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。