解脱(げだつ)とは、文字通り 「解(ほど)けて 脱している」ということであり、これは本来人間としての「当り前」の有りかたを言っているのである。
たしかに、下世話なことを言えば・・、
今の世の中を見渡せば、自由と叫びながら結局は、あまりにも縛りが増えてしまっている、ニッチもサッチモの状態を呈してはいないだろうか。
解けるどころか、諸外国も、政府も官僚も企業も、次から次へとその信奉するお金ほしさの欲得政策を、知ってか知らずか推し進め、飽和点である自壊にまで達しようと「頑張っている」始末である。
地上世界では、様々な条約や方針や、改革や革命を掲げて繰り出しながら、いつもながらの騙し合いと奪い合いの「公式化」を進めているようではないか。
今度はきっと政治が良くしてくれるだろう・・という民衆の期待感をむしゃむしゃ食べてしまっている、幼い指導者ごっこを演じたい者の増えたことが原因だろう。
解る人には解るはずであるが、世の中の繁栄と、自由と民主なるものは、お金で買うものだというふうにしか実際のところ理解できない人々の跳梁跋扈する、面白くも悲しき、どんずマリの時代になったということであろうか。
どのように叫んでみても、何を言ってみても、聞く耳を持たずに、何者か、あるいは何事かの信念と恐怖によって動かされ、
人々の為だ・・と称して、自分たちの保身と儚い栄華の為に「不退転の決意」をする者が出るようになっては、もうさすがに気がつく人々も多いと思う。
このような、感動も愛も無く、実に面白くない舞台演目に付き合う必要性も、その醍醐味もないと感じる存在たちは、さすがに解脱をすべき時に来ているのではなかろうか。
人類の集合意識は、「固まり」ではなく、単なる「集まり」であることに理解を致せば、そのような愚かな価値観の集合から潔く外れる勇気だけが必要だということになるはずだ。
今のこの時代は、汚泥のようになりつつある、唯物的な価値観を信じている集合意識から自分を切り離さなければ、逆にまともに生きることが困難になっているとも思われるのだ。
まさに、国破れて、山河あり。
山河とは、おのれ自身のことであった。
エゴ同士の戦争ごっこはもう終わりである。
もうそこには僅かの架空の物質的富が残されているのみである。
混乱する世界経済は、それを奪い合っている者たち、場合によって容姿端麗、弁舌明快でありながらも自身の中身の極めて薄い者達の、最後の晴れ舞台と言えば、それは言い過ぎだろうか。
極まった自己保身、極まった利益追求、極まった物質加工文明は、このままでは自己崩壊をすることは、皆皆内心では気づいているはずである。
それに合わせてレミングの群れのごとく、無明の指示器の言うとおりの方向に突進し続け、そのうち視界に開けてくる断崖に身を投じることもまた、稀な経験ではあるものの、けだし、実に面白くない、実に意識的存在としての人間にふさわしくないあり方ではないかと思われる。
あなたはもう気づいただろうか。
解脱したあり方とは、
文字通り 「解(ほど)けて 脱している」ということであり、これは本来人間としての「当り前」の有りかたを言っているのである。
またそれは、
どこに在りても、汚濁の流れに無意識に自己投入しない、あるいは巻き込まれないあり方のことである。
それはまた、
責任を持つはずもない不特定他者の思考に無軌道に価値観をおかず、
もともと無責任であるところの他者の行為に当然ながら憤らず、
常に責任ある自らにあって、常に自分を見つめつづけ、
ある意味で、暖かくそして涼しいこころを周囲に放射するようなあり方である。
恐れて逃げることも隠れることも、またどこか巻き込まれていることである。
一体それがどうしたのか?・・という開きなおった意識ともいえようか。
・・
今までは、肉体のことは実はほとんど知らず、<わたし>のことも解らないのに、わたしを肉体でしかないと思っていたということだった。
最も身近で最も重要と思える 「自己の認識」 さえも、実は限りなく妄想に近い短絡的思いこみであったということに気づいて笑えるかもしれない。
少なくとも断定など出来ないにもかかわらず、すでにそうだと漠然と信じ込んでいた自らの姿に笑える人もいるだろう。
今までの世界は、こういう思いこみや錯綜する情報を、正しいものとして自分を規定するような、無知や他者依存の集合無意識で作りあげられていた。
何が真実で何が虚偽かわからない情報の渦の中で、外の大勢の人々の想いを正しいものとして採用する手法とも言えようが、
それこそが、わけのわからないものばかりを採用してきた原因であるということに気づけるだろうか。
真っ当なことも、逆に明らかな「矛盾」も、大勢が思えば「常識」になるのだ。
・・・・・
解脱しているあり方、本来の素のあり方であるためには、
最も基本的なものに明確な理解が必要であろう。
それは我々の「肉体」という最も身近な動的衣服についてである。
気づけば誰にも間違いなくある・・・わたしは在る・・という感覚、
それが主に肉体に装備された五感という感覚によっていると感じているために、自分を肉体であると早計な、また漠然とした判断をしていたということだ。
<わたし>は世界という、様々な波動情報を感知していることには「気づいている」が、
しかしながら「気づいている」がゆえにこそ、その認識システムである肉体そのものではないといえる。
気づいている・・ということは肉体を「客体」として認識しているということである。
肉体、それが現われている・・ことを認識しているが、肉体そのものは客体であり、認識主体としての<わたし>ではあり得ないということだ。
<わたし>は肉体が存在している・こ・と・に・気・づ・い・て・い・る、という認識作用であるということもできるだろう。
例えて言えば、それは車とそのドライバーの関係のようでもある。
車を運転するドライバーでありながら、長い時間フロントガラス越しに運転をすることで自分が車であると錯覚してしまうようなものであろう。
我々は、あたかも肉体の五感という、観察の「窓枠」から外の世界を覗いているようなものであり、その観察する窓枠の形・ボディ・肉体自体を、自分であると勘違いしているということもできるだろう。
つまり肉体とは一定の形、あるいは仕組みによる世界観察の3次元的な「窓」であるとも言えるだろうか。
この時空世界には、この時空世界にふさわしい<観察の場>があるということである。
言わば、<今>という<瞬間>から見える、諸世界に開かれた観察の場の一角・・・それが現状での我々の肉体・ボディということになる。
そして、その観察の場、窓から諸世界を観ているものが<わたし>である。
また、この世界の今までの時空認識、次元構造では、その<観察の場>に時限があるのは当然であろう。
3次元的時空認識のなかでは、人生は限られた時間枠というものに制約されるということになるからだ。
こういう次元認識世界での人生はあっという間に過ぎるものだ。なぜなら時間とは我々の関与できない勝手な方向性を持っている・・と認識しているからであるが、そこにある原因と結果に気づけるだろうか。
3次元的世界認識、次元構造認識では時間・空間のほうが主流であり、われわれというそれぞれの認識主体である<わたし>は、どこにも居場所がないというものであった。
主人公としての居場所のない肉体人間のできることは、せいぜいが、考える葦としての知的体系の構築であり、また科学的考察と再現性の発見を元にした物質加工技術による物質文明の構築であったのかもしれない。
物質世界に組み込まれた、また物質的肉体で制約されたところの、単なる知的存在であるという<自己認識>によって自らを無意識の意識によって制約してきたとも言えるだろうか。
それはすなわち、簡単に言えば、
わたし達は物質の世界に生きる、物質肉体だという認識である。
いわゆるところの、今までの常識的なあるいは3次元的自己認識である。
あなたも私たちもそうではなかったか?
物質的な重たさと、時間という枠にはめられた・・人間としての私たち・・。
それが不可思議なことに、『常識』とされていたのだ。
しかし、その古い常識はすでに壊れてしまったようである。
なぜなら観察する主体としての、それぞれの<わたし>が主人公として現われてきたからである。
・・・・
ミクロと言われる量子場での観察は、素粒子それそのものの挙動を決めてしまうのは知られている。
その極小のミクロは、観察という<意識の働き>によって構成される。
またマクロは当然ながらミクロで構成され、そして現象化が規定される。
すなわち、マクロは意識によって変化せざるを得ないのだ。
素粒子の世界は単にミクロの学問体系であって、肉体レベルのマクロには通用しないという観念、
その「観念」そのものがすでに崩壊しているからだ。
そうでないという思いこみ自体が、そういう形を現わすように作用していただけの話である。
虚偽はそれに気づいたときにだけ、真実から虚偽になってしまうのだ。
すでにそういう、観察する意識が中心となる世界が現われつつあることに気づける人々も増えている。
不自由であるという「観念」そのものが、不自由を現出せしめている元のパターンである。
世の中のあらゆるものは、意識的存在である人間が、そういう風に観察した結果が、そのとおり現われているということだ。
これは多くの霊的教師たちが綿々と伝えてきたメッセージであるが、物質科学の行き着く先で、再発見された法則であった。
さてここまで明らかになった上では、「理解できない、嘘だろう、信じられない、あんたはどう思う?」・・という逃げ口上は通用しないことになってしまったということだ。
これもシンプル過ぎて素通りしそうであるが、まさに<それ>は<そう>なのだ。
要するに、それぞれの存在原点である<わたし>とは、
物質の有機的な固まりであるのか?
あるいは意識的存在、すなわち観察による自己創造を行う者であるのか?
大枠で2つに1つのメニューが、人類集合意識自身のある段階での昇華によって提示されたということである。
あなたはどうだろうか?
今崩壊しつつあるのは、単に資本主義的経済社会ではなく、その元にある観念的制限という言わば「次元枠」である。
それに付随する古い人類の観念様式、当然ながらその表現形態も、全て同じく崩壊するだろうと思われる。
しかし地球という舞台そのものは崩壊しない。
なぜなら地球は人類に属しているのではなく、存在宇宙に属しているからだ。
・・・
人々が絶対あると主張している、いままでの様々な不都合、不具合、不自由・・・も、
意識的存在である人間の意識が、そう「勝手に」観察していただけであることの証左である。
・・・
ダメ押しのように量子論を掲げなくても良い、
我々は全て、観察主体としての自らが現わすところの、自らの体験する客体世界の創造者であるということである。
意識的に気づいた範囲だけ、いつもただそれだけではあるが、実のところは無限に広がる意識という中での<目覚めた観察点>、
それこそが、それぞれの<わたし>であり、また<あなた>でもある。
I am that ・・・・
<わたし>は、私である・・・、常に様々な私でありつづける・・存在。
わたし>私 と言ってもいいだろう。
それぞれの<わたし>は、常に世界の、宇宙における観察者であり、また観察する範囲内での、まごうことのない創造者である。
観察は同じく創造である。
観察するところの、自らの意識の振動、あるいは付随する想念にも注意が必要であるという事でもある。
解脱とは、本来のあるがままの<わたし>であることであり、
そうあるためには、今、そのままで解脱している自らに気づくことである。
この世界において、その為の唯一の障害は、
自らの周りを覆う黒雲のような様々な、刹那的個我の都合に合わせた観念、雑念である。
外を見て指摘し批判したところで、当の自らの周囲の黒雲は晴れることはない。
古代からの綿々と続く問いかけ、 「汝ら、汝自身を知れ」・・
もうそれに、自らで答える時であろうか。
そして、それぞれが <わたし> とは何であるか?
と真摯に問いかけるのは、まさに<今>なのではないだろうか。
根源、神、創造主、一なる者・・とは、
自らに問いかけ続け、創造し、それを観察し続けるものそのものではないのか。
今ここで、この瞬間に、神なるものは<あなた>でもあるということだ。
それは決して大言壮語ではなく、
未だ十分に気づかぬ我々の『真実』と言う方が妥当なのだ。
(つづく)
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。