マザーテレサも間違いなく覚者であると感じる。
そして普遍意識からくる「愛」を、女性とは思えぬ強靭で不屈の信念を通して、他者への奉仕行動というダイナミクスで表現したのだと思う。
なんという強烈な光だろうか。
キリスト教とか修道院とかインドでの救済活動とか、様々なイメージがあると思うが、そんなことは枝葉にしか過ぎない。
誰がどう権威に利用しようと、何を宣伝しようと問題ではないのだ。
ただ、わかる人にはわかるものである。
どこの誰が、どんな名前の、どんな職業の、どんな知名度の、どんな業績の、どんな履歴の、どんな性格の人なのか・・という、枝葉末節のようなものは儚く消え去る、『一時だけ極めて現実と思わせる』・・幻(まぼろし)のようなものである。
そのようなきらびやかな虚飾、まぼろしに騙されてきた時代はもう終わりにしようか。
今ここに生きてある我々は、今の『現実』が、どうも何だか不都合で、どうもなんだか苦痛で、どこかしら不満足であることだろう。
多分大なり小なり、そうではないだろうか。
世の中が間違っているために、自分が幸福を感じられない・・・と感じている人もきっと多いだろう。
自分の波長にあった人がいないという人間関係の不満もあることだろう。
全てはこころの持ち方なんだ・・と気がついてはいても・・・
そうはいってもやはり現実の生活、現実の世界では如何ともしがたいものがある・・と思って、こころの肩を落としていることの繰り返しもあるだろう。
あるいは、お金があれば何の問題もないのだが・・・と思っているかもしれない。
世の中が間違っているから、自分が不都合な状態にある・・・・という想いに気づいているだろうか。
外が不都合な状態であるからして、わたしは不都合(不幸)であるのだ・・・という、一見まともそうな論理・観念をこころのパターンにしていないだろうか。
しかしそれは全く違うことに、既に気づいてもいるはずだ。
そう、その古いパターン、それはもうやめたが良い。
それはある意味では『待ちの状態』の意識であり、何かをしてもらいたいという、外に甘えたいような幼い意識の現われだったのではないか。
あたかも、おっぱいをもらい、ご飯を食べさせてもらい、優しい言葉を投げかけてもらいたいというような、幼い時期の意識にすこしだけ未練があったのかもしれない。
また、それはどこかに「恐怖」があったためなのかも知れない。
この世界に生れ出て、自我が構築される過程において、様々な不都合や恐れを感じながら、
いつの間にか大勢の他者の様子を伺い、評判を気にし、集団の中でうずくまる生き方を編み出して、結局は自分の色と違う色を自分に塗りたくってきたのではないか。
自分の色と違う色を自らに塗りたくれば、それこそ苦痛を我慢しなければならないはめに陥るだろう。
それは牛乳瓶の中に無理やり入り込もうとする猫のしぐさのようでもある。
それは衣服のLLのサイズの人が、無理やりSサイズの衣服を着るようなものでもある。
確かに「不快」極まりない、「不都合」この上もないはずだ。
誰かが言うから、世間の風潮がこうだから、世の中の価値観がああだから・・・という、現われては消えてゆく幻想のような想い・観念・イメージに、自分を合わせていたのではないのか。
本来、あなたやわたし達は、自分のこころ、意識の中心から来る何かの「感じ」をしっかりと読み取ることをしなければならないはずだ。
実はこれこそが最も大切なことでもある。
外のように見えて、全ては内から来るのだ。
本当にわかるだろうか?
そう感じるだろうか?
それをしないがゆえに、回答を求めて外の世界にさまようのではないか。
誰かが教えてくれる。
誰かがみてくれる。
誰かが支えてくれる。
誰かが理解してくれる。
誰かが救ってくれる。
そして誰かが愛してくれる・・・
他者や異性や家族や社会や国家や世界に期待をかけ、そして裏切られてこころの歪みを貯めこみ、逆に歪みを解消すべく、またまた外の世界を探し回る。
そんなこともあったろう。
しかし『今』はもう違うはずだ。
あなたは、昔もこれからも『あなた』である。
今は、『あなた』の中を探す時に至ったことを自覚すべきではないか。
あなたの身体、こころ、そして『無限』に接続されている、あなたの意識の中を探しだし見つけていくことで、
結果、
それが『外』という世界に少しづつ、自然に、確実に現われるということだったのだ。
我々は今まで逆をやっていたのだ。
大いに笑える話ではないか!
・・・
どんなことでも、大きかろうが少なかろうが問題ではない。
あなたが教えるのだ。
あなたがみてあげるのだ。
あなたが支えるのだ。
あなたが理解するのだ。
あなたが救うのだ。
そしてあなたが愛するのだ・・・
「誰か」ではなく、誰か・・とは、それぞれの「あなた」なのだ。
「誰か」ではなく、それぞれの「わたし」なのだ。
そのように方向転換した人々の住まう世界が、いわゆる第四密度の世界とも言えよう。量でもなく大きさでもなく、意識的な、質的な転換のことである。
本来のわたし・・達であれば、嬉しく楽しいのが当たり前である。
なぜなら、
全ての歪みの元にあった、ありもしない他者の影など存在しないからである。
これはまた、神たる・主体たる意識「わたし」への、意識的眼ざめを通過したということである。
下記の文は誰かがマザーテレサ存命のおりに、彼女の言葉を書き取り、まとめたものだと言われている。
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マザーテレサのことば カルカッタにて・・・
人は、理性的でなく、論理的でなく、自己中心的です。
そんなことは問題ではありません。
愛しなさい。
良いことをしても、エゴだと非難されるでしょう。
そんなことは問題ではありません。
良いことをしなさい。
あなたの夢が実現すると、裏切る友や本当の敵に会うでしょう。
そんなことは問題ではありません。
夢を実現しなさい。
あなたがする良いことは、明日には忘れられるでしょう。
そんなことは問題ではありません。
良いことをしなさい。
正直で誠実なことが、あなたを傷つけやすくします。
そんなことは問題ではありません。
正直で誠実でありなさい。
あなたが何年もかかって築いたものが、壊されるかもしれません。
そんなことは問題ではありません。
築きなさい。
あなたが人々に援助をすると、その人々は腹を立てるかもしれません。
そんなことは問題ではありません。
人々を援助しなさい。
あなたの最善を尽くしなさい。世界はあなたを蹴り飛ばします。
そんなことは問題ではありません。
最善を尽くしなさい。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。
心が透明になった気がします[E:shine]
これからも日記の更新楽しみにしています[E:flair]
いつもありがとうございます[E:shine]
おはようございます
まー、一応日記でもないのですが、そんなことは枝葉末節ですね。(笑)
たしかに、マザーテレサの言葉には、それが人伝えであり、表現、言語は異なっていたとしても、確実に言えることは「無条件の愛、理解」というものを強く感じますね。
有償無形。
外の世界は内の表れとおっしゃっておりましたが、私からしたらマッチョマンさんは幻。マッチョマンさんからしたら私は幻ということでしょうか?
また最近ベジタリアンというものに興味があり、肉・魚など感情のある生き物を食べると恐怖・不安・苦しみの感情が入ってきて精神に影響を与えてしまうのでしょうか?
要は牛や豚などが殺されるときの苦しみ、痛みなどを感じてしまうということです。
見解のほうお伺いできればと思いますので宜しくお願いいたします。
ありがとうございます。
「外の世界は内の表れとおっしゃっておりましたが、私からしたらマッチョマンさんは幻。マッチョマンさんからしたら私は幻ということでしょうか?」
・・・あなたはどう観じますか。
私もあなたも、現われである限り、常に変化をしています。このような言葉発するのも変化そのもので成り立っています。
幻をぼやけたイメージのようなものというのであれば、文字通り幻ですね。
まぼろしを見るあなたやわたしは、幻でしょうか。決してそうではありません。
わたしのささやかな経験ですと、
映画を見ている者は映画そのものではありません。
<あなた>は幻を見ているのではありませんか?
そう、<わたし>も確かに、幻を観ています。
「最近ベジタリアンというものに興味があり、肉・魚など感情のある生き物を食べると恐怖・不安・苦しみの感情が入ってきて精神に影響を与えてしまうのでしょうか?」
・・・
恐怖や不安・苦しみの感情を本当に感じる人は決して肉を食べません。
従って、お肉を食べていながら、そのようなネガティブとも言えるような感じを持つ人は、多分動植物でなく、どこか人に対する屈折したこころを持っているのではないでしょうか。これは勝手な思いですが。
・・・
わたしは、肉はなるべく食べないようにはしていますが、実際は時々お肉を食べます。
確かに複雑ではありますが、
人間にされる動物達の、涙を含んだ精肉を食べることで、私の体の細胞に変化することに、せめての感謝だけは感じています。
この世界では、
物質は様々な形態に変化しながら循環しています。
こころも変化しています。
それを観じている<あなた>は、変化していますか?
ドキッとするような素晴らしいコメント頂きまして、有難うございます。
続けている甲斐があります。