気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

観自在

2011-10-03 06:20:59 | 直感真知

人間は肉体を有しているが、人間は肉体そのものではない。

 

数十兆と言われる細胞で構成されている我々の身体は、さらに無数の分子・原子によって構成されている。

 

さらにまたその原子自体も、無数の素粒子によって構成されている。

 

例えば、その原子・分子・素粒子などを量的に数えることが可能であろうか。

 

いやいや、

 

多分それは、眼前にある1つのこの宇宙の中の恒星、惑星、あるいは原子・分子・あるいは素粒子の数を数えるのと同じようなことだろう。

 

一定の体積であるからには、それなりの数量はあると推測可能ではあるものの、人間知で数えること自体に無理があるとも思える。

 

またそれらの無数の構成要素が、完全なる調和をもって、各々無限ともいえる相互作用を通じて、

 

今のあなたやわたし達の「肉体」を現前させているのだ。

 

我々の肉体を構成する要素も、量的計測、カウントなどの物理的方法を超えているということである。

極微の存在するか存在しないか定かではないレベルの素粒子群は、自らを自らたらしめるべく、重合、結合を行う事で原子・さらには分子、さらには細胞となって我々の肉体を作り上げつつ、それを維持している。

 

それがあなたの「肉体」となって、そこに現前しているのだ。

 

実のところ、

   

人が意識的に身体細胞の働きを細かく指示しているわけではない。

 

すべての肉体の活動は我々の意図に関係なく自然に行わなわれている。

 

あなたの今の肉体もそうである。

 

あなたのごく表面の意識ではなく、大いなる意識、あるいは宇宙意識、あるいは全体そのものの意識が、

 

あなたの肉体を生かしているということである。

 

微小の部分で創生され維持されている肉体の在り方も、

 

それは一糸乱れず動いている、

 

それこそ完全円満なる調和そのものではないだろうか。

 

人間のこころで痛めつけた肉体の疾患もいつか自然に治癒するように、

 

それは自動で、自然に完全なる調和を常に志向しているのだ。

 

我々は肉体を通じて顕現している、謂わば霊的実在であるとしても、

 

その肉体の驚異的な在り方にも、あり得ないような奇跡と調和を感じないではおられないはずである。

 

また、我々が肉体を超える『霊的存在』であるが故にこそ、

 

その1つの現われである、この『肉体』を観照することができるのだ。

 

 

 

それとも、

我々は飯を食らい、排出し、性衝動で突き動かされ、あるいは肉体存続のために他の命を犠牲にするような、単なる猿の頭脳進化の結果だと、本当に信じているのだろうか。

 

世が弱肉強食だという嘘はどこから出てきたのだろうか。

  

それは一体ぜんたい誰の洗脳なのか。

 

学校の先生か?、親たちか?あるいは、偉そうな議員か?

 

あるいは政府の訳知り顔の役人たちか?

 

あるいは世界の表の裏で支配している者たちか?

 

あるいは虐げられて歪曲した思想に固まった、哀れな民族の仕返しなのか。

 

それは真実なのか?

 

いいや、違う。

 

そんなことよりも、何よりも、他者がどうであろうとなかろうと、

 

我々は自らの「観念」の鎖を、自らで解き放たねばならない。

 

これこそが真実なのだ。

 

自らの『観念』は、誰が言おうと、皆が言おうと、

  

結局は自らで造り上げるものである。

 

造り上げたものは自分で刈り取る定めでもある。

  

これは逆に意識を有する人間であるからこその、完全なる自由さを示していると言えるのだ。

 

不自由だ・・と宣言して、自らを不自由に落としこむこと、

 

その不自由さを作り上げる能力は、人が自由な意識存在であるがゆえのことである。

 

他者のおかげで不都合を味わうと信じ込むこと。

 

実はこれこそ、笑える話なのだ。

 

その不自由さを、自分以外の他のせいにする幼き観念、

 

皆がそうでないなら、自分もそうでないだろうという、

 

いわゆる他者依存の幼児的観念、 

 

自らの映しだす哀れな自らの姿、

 

それを観て、それを何かのせいにするようなこと。

 

 

それすらも気づけぬことにこそ、人間本来あり得ざる闇に閉じ込められているということを悟る必要性があるのだ。

 

何であろうと、教えられた嘘であろうと、それをそうだと信じ込んでいること自体が、自らの造る観念に束縛されていたということである。

 

 

悟りとは自らの『虚妄の観念』からの解脱である。

 

その為には、その観念自体をそれとして客観視しなければならない。

 

 

まさに、

 

我々は日常で、様々な不満を憶え、不平をこぼし、あれが悪いとかこれがダメだというような、邪で不調和な思いを抱きながら、

 

こころを重くし、足取り重く歩いているようなものだが、

 

そういうこと自体が、何か重大な意識的存在、あるいは人としての『過失』であると思えないだろうか。

 

我々は、発展途上の人類のこころの集大成である、この文明の中にいて、それら不完全さばかりを論(あげつら)いすぎたのだ。

 

他への不満の前に、自らのこころの在り方を客観視しなければ、どうしてもこうしても、他者を責める観念ばかりが横行してしまうことは火を観るより明らかではないのか。

 

 

また、外の輝ける新しい時代の仕組みについて考える前に、

 

まずその前に、

 

自らの依って立つ大自然の在り方に、こころの底から気付かなければならないのだ。

 

大自然の中にこそ、学ぶべきものがあるということに気づかねばならない。

 

自然は搾取すべきものではなく、それから学ぶべきものである。

 

我々は、勝手に必死に生きるのではなく、

 

大自然の、大宇宙の ふところに生かされてあるということを、

 

当然のこと、当たり前のこととして気づくべきである。

 

観るべきものは、我々の小さく幼いこころの作り上げるところの文化、文明の方ではなく、それらを包んで存在するところの、大自然、大宇宙の在り方のほうなのだ。

 

我々をいつも包んでいる大自然、

 

それはいつもそこに在るではないか、

 

逆に、我々の愚かな行き過ぎの文明のおかげで、

 

かろうじて息も絶え絶えになっていながら、

 

海も山も空気も、いまだそこにある。

 

涙が出るほど、有難いことではないのか。

 

 

 

毎朝確実に昇る温かい太陽、

 

夜をそこはかとなく照らす、高貴な光を発する月、

 

寝ころべば、ざわざわと寝床を作ってくれる草たち、

 

途切れることなく、我々の肺を満たしてくれる精気に満ちた大気、

 

あらゆる動物の生存のための酸素を供給している様々な植物たち、

 

塩水と淡水を見事に切り分ける輝くような水の循環、

 

 

我々は、このような無条件の豊かさ、無条件のいたわり、無条件の愛の顕現によって、

 

生かされていることを、いつから忘れてしまったのだろうか。

 

これらは決して単なる感傷ではなく、今我々の置かれている厳然たる事実であることを知るべきではないだろうか。

 

知らぬこととは言え、自らを含め、大自然の無条件の、そして文字通り言葉に出せないほどの、そのいたわりと愛に対して、人類自身の無知なるそのおバカさ加減に気付くべき時なのだ。

 

大自然、それは我々を育て慈しんだ親たち以上に、愛深い現われであることに、もう気付かねばならないのだ。

 

人工的な小さく愚かな価値観の中に、うずくまり、不平を言い、

 

最後には金融という単なる貨幣の動きばかりに惑わされ、

 

上に行くほど重たいばかりの社会、組織の維持のために人生をすり減らし、

 

たまに、思い余って革命だ、改革だと騒ぎまくる。

 

いつも最後には、生活のためと、自己存続のためといっては、GDP信仰や経済発展という自然破壊を続けようとする。

 

我々を黙って生かし続ける大自然を壊して、人間だけが幸福になれるわけがないではないか。

 

大自然の中の、我々の朋友たる動物、植物を滅亡させて、人間の文明が栄えるわけはないではないか。

 

 

大自然、大宇宙、微細なものから極大まで、

 

調和に満ちたこの次元世界、

 

我々の喜び遊ぶこの世界、

 

それを「そう」現前せしめているところの極大とも言える「

 

それなくば一瞬とても、誰すらもこの世界で生きてゆくことは出来ないのだ。

 

今ここに在ることに、どこをどうしても、何をどう言い繕ったとしても、

 

まず、出てくるものは『感謝』以外にないではないか。

 

あなたは、例えば大切にしている自分の肉体にも深く感じるところはないだろうか。

 

言葉に現わすならば、我々の個々別々にみえる肉体すらも、まさに小宇宙とも言える在り方をしているのだ。

 

そのように現われている「あなた」は、そのままで何をすることもなく、

  

まさに小宇宙以上の存在である。

 

 

我々の両の眼から鱗(うろこ)を落とし、

 

歪んだこころを素の輝きに戻し、

 

本来の嬉しさ、楽しさを意識の底から湧きあがらせるのだ。

 

その為には外の世界という、世間という鏡に映った自らを、

 

客観視してゆかなければならないのだ。

 

曇りなき平安、動揺なき静寂、晴れ渡る爽やかさは、・・

 

自らの観念を自らが「観る」行為によって達成されるのだ。

 

観る』ことで『意識の光』が発せられ、様々な不安、恐れを感じさせるところの虚妄の観念の黒雲は消え去るのだ。

 

昔で言うところの『菩薩』とは、まさに『観自在』であるといえよう。

 

それはどこかの他の誰でもなく、すべてのあなた、すべてのわたし達のことである!

 

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本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました

 

 


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
始めまして、よろしくお願いします。 (てる♪)
2013-06-23 04:36:01
始めまして、よろしくお願いします。

観自在で、調べ、ここにやって来ました。
誠に素晴らしい文章に驚きました。
これから、ここに書いてある事を読んで見ます。
返信する
てる♪ さんおはようございます。 (マッチョマン)
2013-06-23 06:26:11
てる♪ さんおはようございます。

よく来ていただきました。
 
有難うございます。
返信する

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