あなたが何か?を探求し、再発見するためには、あなた自身の在り方を十分に、調べる必要があるだろう。
当然のことながら、今まで近すぎて見えなかった、あなた自身を観る必要があるということだ。
人は皆当初は、映し出される外の世界ばかりに眼がゆくものであるが、ある時に至れば、必ず自らにその注意を戻すことになる。
その時とは、
尤もらしい外の世界の在り方の中に潜む幻想性に気づく時である。
その時とは、
外の世界を観ている・・・当の<わたし>という<中心>に気づく時である。
それはまた、人生や世界の出来事という演目の、ある意味で刺激的な映画に観いっていた状態から、その映画を観ているところの<観客者たる>自分自身にその意識を戻すようなものである。
例えば、いかに刺激的で、重たく、軽く、辛く、苦しく、楽しい人生映画であったとしても、映画は映画なのだということを「潔く」見極めることである。
・・・
外の世界の価値観に・・・、いつの間にか刷り込まれた様々な観念に縛られ、振り回され、こころに傷を作りながらも外の世界を探し回ったのは、一体なんだったのだろうか。
取りあえずの生存のためか、快適な環境維持のためか、誰かに認めてもらいたいためか、誰かに愛されたいためか、あるいは苦痛から逃れ、出来るだけ快楽を得ようとしたためなのだろうか。
色々あるだろう。
しかし、それは一体ぜんたい何のためなのだろうか?
わたしやその他多くの人々は、一体全体『何を』求めて大騒ぎしているのだろうか?
・・・・
そうして、この世界で疲れ果て、年と共に耄碌したと言われながら、意識を無くして還ってゆくことを何度繰り返したのだろうか。
・・・そうした幾多の人生をあなたは少しでも憶えているだろうか。
残念ながらも、この多くの人間の創り上げる共通現実というこの世界が、当然ながら未だ発展途上であることも認識しているだろう。
また、不浄と見えるこの世界を何とか理想の世界として実現したいと思うのは一体なぜなのだろうか。
汚れて見える「この世界」を浄化しようとすることで、一体何を実現しようとしているのだろうか。
あなたの眼に映し出される理想世界の実現なのか?
・・・
いいや、それは違うだろう。
それは、
もっとも完全で、最も安心で、もっとも大切な『あなた自身』を見つけるためなのではないのか。
何ものにもこだわらない、何ものにも汚されることのない、何ものに対しても不動であるところの<あなた自身>を再発見するためだったのではないか。
鏡とは、鏡の向こうを観るのではなく、鏡のこちら側を観るためではないのか。
不浄なのは、あるいは不浄という観念で汚れていたのは、鏡のこちら側にあるいつの間にか身につけてしまった「こころ」という衣服ではなかったのか。
この世界に生まれること、下生するということは、
本来無限であるあなた、無限の愛ともいうべき存在、無限の知恵ともいうべき存在・・・あらゆる可能性を含んだ<あなた>自身を、それがたとえどんな環境であったとしても、本来の姿、嬉しく・楽しい自分自身を・・再発見するためではなかったか。
ここは、肝心要なところなのではないかと思う。
そう。
この世界、ある人々にとっては不浄で欺瞞に満ちた愚かな地球3次元世界は、
<あなた>があなた自身を再発見するための学校、あるいは体験ワールド、あるいは修行場、あるいは遊び場なのだと思えないだろうか。
わたしの世界は<わたし>無くして始まらず、あなたの世界は<あなた>無くして始まらないのだ。
<われ・在り>
どのような理論も評論もそれに対しては全く無意味であろう。
どのような科学の成果も、技術の粋も、それに対しては全く寄与ができないだろう。
どのような世間の情報も、それに対しては全く価値をなさないはずではないか。
他人の理論や評価、科学や技術で出来た機器、溢れんばかりの情報が、あなたやわたし達という<存在>を生み出しているわけではないのだ。
我々がここに生れて、生きていること、そして去ってゆくこと、
それが人生ならば、
その人生をどう感じて、どう昇華してゆくかは、
ひとえにわたし自身の持ってきたテーマなのではなかったのか。
世界や宇宙の誰かが決めることでもない。
あなた自身を思い出し、探し出すのは「あなた」しかいないのだ。
ただ・・、まず気付くべきは、
今は、あなたの意識において、どこか遠く隔たった感があるかもしれないけれども、
あなた方も、そしてわたし達も、
言うならば<無限>、あるいは<神>、あるいは<ひとつ>、あるいは<大いなる意識>・・から出てきた、それと1つのものであるということだ。
すべての中心は、あるいは、一なるものは、無数の<わたし>中にある。
あなたの中に、私たちの中に・・・。
・・・・
それは、理屈や理論や評価分析ではなく、
今、ここ・・・での直感で認知することができるかもしれない。
あーでもなく、こーでもない・・・騒ぐこころを一時でもぬぐい去るならば、
自分を改めて、静かに静かに感じることができるだろう。
そのうち、
何かの・・不動の一点・・・を垣間見ることができるだろう。
何か大いなるものの<中心>を感じることができるだろう。
部分ではあるが、全体を包んでいるような不動の一点。
今は未だ不完全であるが、完全を包含しているような一点。
・・・
そう、理屈でも評価でもなく、自らで自らを感じることの中に、
すべての根源から放たれている光を感じることができるだろう。
わずかであっても、気のせいであっても、<それ>を感じることができるだろう。
そう、
それは、まさに<それ>なのである。
So be it !!
金木犀の花が香る季節になりました。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。
マッチョマンさん。
瞑想を始めて三ヶ月。
色々な覚者、聖者の言葉に耳を傾けてきました。
今、想うことは…
世界は完全でなにひとつ無駄なものはない。私は私という現象を生きるだけ。苛々する時もありますが、今は何故か、心が穏やかです。生きるって面白いもんですね。
求めなくてもすでにあるってことですね。
いつも楽しい文章をありがとうございます。
コメント有難うございます。
久しぶりに、よろしければ粗茶でもどうぞ。
[E:drama]
<求めなくてもすでにあるってことですね。>
なるほど・・、
何かが足りないと想うから、あれはどこだと探し回る、
その想いがなければ、不足はどこにもない。
不足の想いこそが、不足の事態を作りつづける。
何だか、ややこしいですが、そういうことでしょうか。
マッチョマンさん。遅くなりました。
不足の想いを作り出すのは自我の得意分野ですからね。
でも自我は私ではありませんよね。
他者との比較や価値判断、求めることを止めれば自我は、おとなしくなります。そうなるとありのままの自分を肯定できますから、今、ここで、満ち足りた私でいられるわけです。
ニサルガダッタの言葉を引用させていただくと
「外に目を向けるのをやめなさい。自分の内に留まりなさい。」
ってことかなぁと思います。良いだの、悪いだの人が勝手に決めた価値判断はこの宇宙から見れば戯れ事に過ぎません。
偉そうにすいません。
納得していただけましたか?
ちなみに私は悟りは開いてません(笑)。失礼しました。
おー!
・・・
ご謙遜など不要です。
これは、多分言葉の遊びでしょうが、
誰も今まで悟りを開いているわけではありません。
もともとなかったはずの「こころ」、あるいは「マインド」という蓋を、外すだけのことでしょう。
でも、結構重いですよね。(笑)