探求者とは自分自身を探している人だ
「私は誰か?」以外のすべての質問を放棄しなさい
結局、あなたが確信できる唯一の事実とは
あなたは在るということだけだ
「私は在る」は確かだ
「私はこれだ」は確かではない
真実のあなたとは何なのか
それを見いだすために努めなさい
あなたが何なのかを知るために
あなたが何ではないかを知りなさい
あなたでないものをすべて発見しなさい
身体、感情、思考、時間、空間、あれやこれ・・・
具象であれ、抽象であれ
あなたに知覚できるものはあなたではない
知覚するという行為そのものが
あなたの知覚するものが
あなたではないことを示している
マインドのレベルにおいては
あなたは否定的言語によってしか描写できない
ということをより明確に理解するほど
あなたの探求はより早く終焉を迎える
そしてあなたが無限の存在であることを悟るのだ
(シュリー・ニサルガダッタ・マハラジ)
・・・・・・・
古今東西の多くの覚者は、その限られた言葉の表現は様々に異なっていても、皆同じメッセージを発してきた。
学問にも無縁で、インドの片田舎に生まれたマハラジは、煙草の行商人をして家族を養う生活をしていたといわれている。どこにでもいる人、それも地位も何も持たない無学の人だったようだ。
ある時、友人を通じて出合った師(グル)の「あなたは至高の存在である」という言葉を信じ、唯一の真実である「私は在る」に意識を集中する訓練と、それを持続する静かな熱意を通じて36歳で覚醒したと言われている。
覚醒とは、古来からいわれる「悟り」とも言えるかもしれない。
また、
覚醒とは、自らに目覚め、自らの本来の無限性につながることだとも言えるだろう。
あるいは「常にそうであったこと」に気づくことだろう。
これは他人事でなく、例外なく、あなたもわたしも、そうなのである。
マハラジの話は、少し間違えば、よくある宗教の世界に足を取られてしまいそうな、どこにでもあるものであるが、
マハラジの魂自体が既に熟しており、真っ当な出会いと、真っ当なこころと、真っ当な行為によって3年の修業によって覚醒したと言われている。
修行は苦行でも、瞑想でも、マントラ、読経でもなく、「わたしは在る」という今の瞬間の唯一の感覚に意識をフォーカスしたのだった。
現実生活のために、一般には身体に悪いと言われる煙草の行商をし、生活や家族の世話をやきながら、
本来誰でもこの次元世界で通るべき、覚醒・悟りの道をいともたやすく通りぬけてみせ、その見本を示したところに、まさに見事と言わざるを得ないような偉大さがあるではないか。
マハラジという個別化した意識は、この混濁した世界に自らを投入し、多分、大いなる援けを受けながら、予定通りに、本来の大いなる意識に立ち帰ることを、見事成し遂げたという事が言えるだろう。
「わたし」を探す旅は、どこか遠くに行くことでも、未来の時間に旅することでもない。
ましてや世界を作り変えることで見つかるものではない。
すべては常に、「今」あなた自身に在るのだ。
古来から残る珠玉の言葉、
「汝自身を知れ」 に対する素直な反応、
「わたし」は何か?
ここに、大いなる本来のあなたへ帰還するための扉があるのだ。
「あなた」は、
あなたという身体、思考、感情、時間・空間認識という小さな<覗き穴>から、この次元世界を観ているところの、
本来、大いなる無限の存在であるということに気づくだろうか。
わたしが「無限」である等とは、まともに考えれば、眼もくらむようなものであるが、事実は小説よりも奇なりである。
I am that <I am>
常に自らを、自らたらしめるところの存在が「あなた」である。
より自由でより自在なのが、もっとも容易なあなたの本来の姿であり、
より楽しく、より嬉しいのが、もっとも容易なあなたの本来の姿である。
自らの観念の縛りを、自らで吹き飛ばせ!
苦しみというこころのおもちゃは、もう不要なのだ。
恐れという身の傘も、もう要らないのだ。
・・・
それを自らで宣言し、それを具象化させよ。
人の顔色を伺うような依存心や、世間の嘘騒ぎから抜け出す時である。
I am that <I am>
他によらず、
常に自らを、
自らたらしめるところの存在が「あなた」である!
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。