そこに物がある、現象が起きているということは、必ず意識の働きがあるということである。
何事も、認めなければ現われてこないということでもある。
そこに何か現われているから、それが認知されるのだ・・・というのが、今までの当たり前の常識であるが、
これは物が先に有る、意識が物質、すなわち局在した時空によって縛られているような、いわゆる3次元的な不自由な認識なのだ。
その物、物質の、究極の形態を探求する量子論では、(人の)「観測」というものが素粒子の場所や運動量の在り方を決定すると言われている。
これは「観測」すなわち「知覚、認識」という(人の)意識的な作用によって、その観測対象が規定されるという意味であろう。
簡単に言えば、意識的知覚、観測することによって物の存在を確認できるという当たり前の経験的事実と繋がっているのだ。
すなわち、
現われる → 観る
ではなく、
観る → 現われる
が本当の有り方なのだ。
観る、見るとは、・・・意図し、それを意識する、あるいはフォーカスする、意識の焦点をあてる・・ことである。
量子論的なミクロの世界の法則、我々の身体レベルの大きさのマクロの世界では、それは通用しないだろう・・という観念があるが、それこそ物質量、空間量で物事を決めようとする「3次元的束縛」を示している。
まさに、そう決め込んでいる・・からこそそうなのだ。
あなたは、既に気づいていただろうか?
知覚は観測を通して、物質の有り方を瞬間創造しているのだ。
今までは、結果を見ている・・と思っていただろう。
見るとは、観るであり、その作用によって、逆に結果を「現象化」しているのだ。
知覚・・とは受動的なものでなく、ある意味で「サイコロを振る」ような行為なのだ。
サイコロは振られて、その1から6の間の数字という結果を出すだろう。
振るまでは、何も起きてはいない。
観るまでは何も存在していない。
ここには実に、驚天動地のパラダイムシフトがあると気づけるか。
「まずこころを希望どおりに変えよ」 という、ある意味で執拗な精神的教訓は、とんでもない事実を示している。
身の回り、社会に有るすべての物は、すべて人間が考え、知覚した範囲で造られたものであるということであり、それは人類共通の範囲の知覚・認識という意識の作用によって創出されたものである・・ということだ。
・・・
産業・技術に馴染んだ人々も、
素材となる物質、物が先に有り、それを加工して製品に仕上げていると普通に考えているはずであるが、
もっと根本的に言えば、
社会のあらゆるものは、人間の知覚・認知という「意識の働」きによって、そのものが創造されていくということなのだ。
これが3次元であろうと多次元であろうと、存在の根本的なあり方である。
意識的存在である人間は、創造者のミニチュアなのだという事である。
いまだそれに気づいてもいなかった「自らを忘れた・創造者」を演じていたのだ。
・・・・
我々の見ることのできるこの世界、あるいは地球上にあるすべての景色、それを構成している様々な物質形態は、それがたとえ大きかろうと少なかろうと、人間の意識の働きによって存在している・・ということである。
地球である、素(もと)の大自然は、「地球という大きな意識」の知覚作用によってそこに出現しているのであり、その地球の意識と、人間の意識が交差・共鳴することで大自然の中の人工物が生じているとも言えるだろう。
なぜならば、量子力学的な観点から言っても、そこに大自然という変化を続ける諸現象があることは「意識」が介在しているということであり、
地球にある大自然という極めて多様性のある形態は、「地球という大きな意識」の働きによると言わざるを得ないからである。
おとぎ話的に聞こえるかもしれないが、宇宙のなかの多くの1つであるこの地球も巨大であるが「個別化した意識」であり、
ガイアともいわれる巨大な意識の、自らの自己認識によって大自然が生まれ様々な生態系を創り上げつつ、調和に満ちた多様な変化を、そのガイア自体が体験しているのであり、
さらに高度に創造を高めるべく、人間という多くの魂を受け入れ、誘致して「共同創造」をしているという事である。
大勢の我々の意識と、大きなフィールドである地球の意識が交差することで様々な共同創造を行っているということが、今の我々と我々の周囲、またその集成である存在世界の真の有り方である。
なぜぞうなのか?
共同創造は、それが ただ「嬉しく」そして「楽しい」 からなのである。
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そこに物がある、現象が起きているということは、必ず意識の働きがあるということである。
我々の世界とは、大勢の人々が同じように知覚していることで、それが「共通現実」という既成事実になり変っているだけのことなのだ。
従って、大勢の人々のなかに在るあなたの意識が、大勢の平均的と言われる集合意識に完全に共鳴している場合は、その平均的な意識によってあなたも規定されてしまうことになるのだ。
もし、あなたが外からの常識や、権威という静かな指令にとらわれている間は、
良きにつけ悪しきにつけ、集合意識というものの描き出す「共通現実」という立体映画の中に幽閉されていることを意味している。
自らを自らで、今解き放つ時である。
<I am that I am>
わたしは本来何者でもなく、わたしがそう信じ込むことで、何者にもなることが出来る存在である。
それを理解するには、<わたし>がわたしを観察することによって、わたしの今において、一体何が創造されているのかに気付くことなのだ。
<あなた>はいつもころころ変化している、あなた自身に気づくはずであり、
そういう現象としてあなたに気づいている<あなた>に還ることになる。
それは宇宙意識と言われる、多を統合する一なる意識と言えるだろう。
どこにいようと、いつであろうと、常にそこに「道」がある。
この宇宙全ては、大いなる神なる、一なるもの、根源なるものが観ている意識的世界であり、その中の<一部とみえるもの>も、<全て>の現われなのだ。
自らの内面、想念の流れ、感情の噴出・・それらを自らで観察することができるならば、
その向こうに在る、現象の在り方を生みだす根源、
表現の土台であり、結果の源であり、多を生じる一なるもの、
それ、そのものである「あなた」を発見するだろう。
空(くう)は全てを含み、全ての可能性をそれ自体であるところの一なる在り方と言えるだろう。
空は1個2個でカウントできない次元のことであり、従って<ひとつ>としか言いようがない。
そこでは、大勢のあなたも、大勢のわたしも、
ただ <ひとつ> であることがわかるだろう。
またただ<ひとつ>は、常に瞬間瞬間<多>として現われるのだ。
あなたもわたし達も、その無数の「多」の1つ1つにフォーカスしているだけの、もとは「ひとつ」の わ・た・し なのである。
本日も拙い記事をご覧いただきまして、誠に有難うございました。