人間とは何か? すなわち、わたしとは何か・・、あなたとは何か?
普通ならば、生れて大人に育つ過程での、体験記憶のことを「あなた」であると思っているだろう。
例えば履歴書に書くような内容が、漠然としたあなたのアイデンティティーと思うかもしれない。
どこどこに、いつ生れ、どういう経歴で、どういう学歴で、どういう能力を獲得したのか・・という「記憶」があなたであると思っているだろうか。
そう・・、たしかに『記憶』が無ければ、
あなたはあなたが誰であるか、自分が誰であるか、仮にも定義など出来ない。
よくある記憶喪失の男や女のドラマや映画で演じられるように、
わたしの体験の連続した『記憶』が無ければ、
一体全体「わたしは誰?」・・「ここはどこ?」となる。
実は、この世界の住人の殆んどは、「わたしは誰?」 「ここはどこ?」を体験中といえるのだ。
1つの人生の記憶がその人生のあなたというアイデンティティーであり、
さらに、幾多の多くの人生の記憶に気付くようになるまで自己認識が広がれば、
それが、拡大されたあなたのアイデンティティーとなるだろう。
それは拡大でありながら、統合のプロセスでもある。
あなたも自己に問いかけ、直感に従って調べることで、思い出してゆくだろう。
その途上では、
わたしは『肉体』である・・・という観念の束縛を一段超えて、
幾多の肉体をも経験する者が、わたしであると自己認識するようになるものだ。
その、より大きな『あなた』から見れば、
過去に別個と感じていた他者たちは、全て文字通り兄弟や姉妹であると感じることだろう。
傷つけあうどころの話ではなくなるのだ。
嫌でも援け合うのが極めて当たり前の所業になる。
より大きな生命・魂という存在としての「わたし」への自己認識過程、
より大きい自己アイデンティティーに拡大してゆく自己認識の過程が、
古くから言わている『魂の進化』ともいえるものだろう。
それは多くの覚者の辿った、悟りや解脱とも称されるプロセスでもある。
それを体験するための最も適した世界の1つが、この地球惑星生命圏であろうか。
あなたもわたし達も、ここにいる。
さて、どうするべきだろうか?
魂の成長、本来それは決して孤軍奮闘や悪戦苦闘によるものではなく、
おのずから、自然となされる、楽しいかぎりの神の自己想起という遊戯と言ってもいいかも知れない。
この世界は悲しみの世界ではなく、映し出された幻想を通じて、それが夢であると気付くための、いわば学習のための世界であるともいえるのだ。
そうであればこそ、
わたし達がなさねばならないのは、
外の他人がどうのこうのという批判をすることや、
他者の愚かさにあきれ果て、それを嘆き悲しむことではなく、
また、肉体への脅威や財産の毀損のうわさ話に恐怖し、
それを恐怖によって、またぞろ増幅して現象化させることでもないのだ。
怖れに染まった浮れ囃子(ばやし)にのって、大勢で踊り狂う時代はもう過ぎたのだ。
気付けば、人生や時代や文明は、何十年、何百年、何千年といえども、
いつもあっという間に過ぎ去るものだ。
永遠なる今の、
今、この瞬間こそ、
人それぞれが、より大きな自己に気付く時なのだ。
他者という「わたし」の影絵を、いくらいじくりまわしても、期待しても、待っていても
それはせんなきことと、もう気付いていることだろう。
この世が不完全で歪んだ世界という見方、人々は愚かな存在であるという観点、
それらは全て、我良しの『観念』でしかない。
ひょっとして、歪んでいるのは、
この世界や人々のことを、どこか無知で不浄と見ている、
あなたや私たち自身の歪んだ『こころ』のほうであろうか。
立て直すべきは、結果としての世の仕組みでなく、
その世を歪んで見ているところのわたし達のこころ、観念なのだ。
変えるべきは、いつの世でもどこであっても、
あなたや私たち自身である。
こころにある、マインドにある曇りを取り除くのが先決である。
決して、物や形が問題ではなく、それを観る『こころ』にあった歪だけが問題なのだ。
こころの歪や汚れを取去る為には、それを、それと観る事が出来なければならない。
人を取り巻く世界の有り方は、
自己内面の「こころ模様」に従って現れている万華鏡のようなものだ。
鏡の中心にある紙切れの彩が、四方八方に拡大するように、
あなたのこころの質的パターンが、
あなたの外の世界として瞬時に展開している。
こころの諸要素自体を観ることによって,
初めて、こころの歪はエネルギーを失い、
魂の為の知恵・知識となって昇華していく。
我々を囲い、閉じ込めてきた自分で創り上げて遊んできた、
『観念の牢獄』も消えて行くだろう。
あなたもわたし達も、
こころの歪で創り上げた牢獄のような遊び場を、もう出てもいい頃なのだ。
それには、ちょっとした勇気が必要ではある。
肉体自我、エゴといわれる、見当違いの自己観念をまず認める勇気である。
あなたは、それら全ての陰影を映し出す原初、根源から発せられた「光」であることは、
今この瞬間という奇跡において、すぐにでも思い出すことが出来るのだ。
肉体、あるいは時間や空間は、無限なるあなたが纏う(まとう)ところの、衣のようなものなのである。
その逆ではないのだ。