気付きの科学 新世界版

ここで言う 「気づく」という意味は、空(くう)の状態から、在る状態に引き出す意識的行為・・すなわち創造のことです。

神さんとの会話

2010-11-21 11:47:24 | 見えないものから見えるものへ

 「神との対話」 という崇高な書が出ていますが、これなどは世界を造ったといわれる宗教的な神への偏見や誤解が、多少とも無くなって来ている証拠かもしれません。

 

いわば支配や罰に係わる神とは、人間の創り上げた観念でしかありません。

 

人は概念・観念の、複雑極まる組み合わせの中で遊んできただけなのかもしれません。

 

様々な観念を創り上げつつ、それそのものに自己投入してきたようです。

 

今こそは、自らの造った観念で縛られていることに気付くべきときでしょう。

 

その為には、自らのこころ模様に気付きつつ、またできるだけ静かな水面を観るように努めつつ、

 

こころを澄ませてゆく必要があるのです。

 

知識はそのためのものでしかありません。

 

自らが単に「身体であると想う次元」から、自らが「こころであると思い込む次元」を越えて、

 

さらに、それらを観ているところの、時空に縛られない「わたし」まで再び上がることが大切ではないでしょうか。

 

身体を見るこころの眼、さらに、こころを観る気付き意識へと上がるだけのことでしょうか。

 

いわゆるところの次元上昇とは、時空自体が勝手に変わるわけではなく、

 

「わたし」という意識の視点、その視座が、より拡大された位置に上昇することでしょう。

 

そのためにこそ、毎日の生活と体験と、愛すべき多くの人々がいるのです。

  

  

<神さまとの普通の会話>

(神様がどうして関西弁風なのか? ・・は深く追求せず。(笑))

今回もまたまた拙い記事ですが・・イレギュラーバージョンということで。

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 ・・・・・・・・・

神さん   「ごめんやす~、茶~を一杯くれんかの~」(・_・)

 

峠の親父 「へえ?・・いらっしゃいませ・・・って、あなたひょっとして神様ですか~」

 

神さん   「えっ?なっ、何でわかったん?・・どないしてや~」(?_?;)

  

峠の親父  「ど、どないもこないも・・、今回はそういう記事の設定じゃないですか。」

 

神さん   「あーっ!そうやった。 なんせ、すぐ忘れるもんやから・・」(ズーズーと茶をすすりながら)(-v-;)

  

峠の親父  「ところで、どんなご用でしょうか?」

 

神さん    「用はない」

 

峠の親父  「はあー?、さようで・・」

 

神さん    「用がなければならん・・?、そんなわけもないやろ。

 

        ただここに来て、あんさんの温めの玄米茶をいただいとりますがな、

 

        用といえば、まあ・そんなもんや。それ以上何が所望なんや?」

 

峠の親父  「はあ?、・・ご、ごもっともで・・ブツブツ」

 

神さん    「ところで、あんさん・・わてが神様や・・ちゅうのをホンマに知っとんのか?」

 

峠の親父  「えっ? ・・・本当に知っているかと言えば、?

 

         さあ・・あなたがそう言うからそうなんでしょう、としか言えません。」

 

神さん    「あはは・・確かに、わてがそうやと言えば、そうに違いないわ。」

 

        「それにな、神は普通にどこにでも、いつでも在るもんやから、

 

        ここにいてもいいんや・・。そうやないか?」(・ー・)

 

峠の親父  「し、至極ごもっともで、・・」

 

神さん    「あれ?・・あんた、わてが神やちゅーから、

 

         こりゃバチでも当てられたらかなわんと思うて、

 

         そんな気をつかっているんやないか?」 (。。)

 

峠の親父   「そんな、めっそうもない。わざわざこんなところに来て、

 

         言葉遣いが良いの悪いの言ってバチ当てる神はおりませんよ。」

 

神さん     「おーっ、なかなか言うな~、まさにそういうことや。」(^~^)

       

         「見てみい、峠の周りの木々はもう紅葉の盛りを過ぎて、

 

         すでに冬支度を始めている。自然はいつも優雅に変化しよる。

 

         マジに美しいやろ。(^ワ^)

 

         ほんのささいな自然の移り変わりにしても、膨大なエネルギーと、

 

         完全な仕組が働いていることに気いがつくやろか

 

         これっぽっちも間違わんでえー。」(・。<)

 

峠の親父  「ま、まさにそうですよね。 でもなかなか気がつかないもんで。」

 

神さん    「ありえないような奇跡に囲まれているっちゅうのに感動できんのは、

 

         それ自体がバチアタリちゅーもんや。(_ _)

 

         自分でバチ当てておきながら、それに気付かず、

         

          どこかの誰かが悪いといって

 

         外を罵っているちゅうのは、・・ちと、えげつないぞ。

 

         なー・そうは思わんか?

 

峠の親父   「え、え・げつない?・・ムム・・そうですね。 確かに・・。」

 

神さん     「他人や外の世界が悪く見えるやろ・・」

         「それはな、眼を開けとらんからや。 こころの眼、心眼やな。」

 

峠の親父  「こころの眼・・ですか。こころに眼があるんですかね?」

 

神さん    「おや?、あんさん・・、結構あげ足とるやないか・・あはは。」

 

        「こころ自体には眼があるわけやない。

 

              それは鏡のようなもんやからなー。」

 

        「その『鏡』を見る、あんさん自身に気付きの眼があるやないか。

 

         ところが・・・、『こころという鏡』が汚れているばかりに、

 

         自らが良く見えないわけや、場合によっては怪獣のように映ってしまう。

 

         あるいは猿のように見えている場合もあるやろ。」

 

          (ああああっ・・、決して、特定の誰かのことではありませんので・・)

 

峠の親父   「おー、なるほど、心は鏡・・ですか。  確かに何でも映りますな。

         それに、つい、自分の嫌がるものばかりを映してしまっているような。」

 

神さん     「フフ、そこよ。」(--)

 

峠の親父   「フフって?、やっぱ、そこですか。」

  

神さん     「あんさんがたが、いかにきれいに着飾っても、

 

         鏡が汚れていれば、映るものも汚れてしか見えんやろう。

  

         いかにポジティブな想いを持って頑張っていても、

  

         なかなか改善が見えないと感じる場合はな、

 

         様々な固定観念やら過去の経験やらの汚れが邪魔しているからなんや。

 

         また、是が非でも改善しなければ・・・という、こうあるべきだ・・という観念、

 

         それ自体が障りと気付かへんとな。

  

峠の親父   「良くしなければ、、という想い自体に、今が悪い状況であるという

         前提観念がしっかり潜んでいるということでしょうか。」

 

神さん     「おーっ言うやないかあ~、 そこよ 」 (・_<)

 

峠の親父   「そ・・、そこですか。」

 

神さん     「改善すべきものは何もない、全てが完璧である。

 

          ・・・という事がわからないからこそ、

 

          様々な改善すべき『問題』が嫌々しながら出てくるんや。」

 

峠の親父    「それはそうですが、もし全て完璧だとしたら

 

          ・・取り付く島もない・・人間何もやることないような気もしますが。」

  

神さん     「おーい!、・・・そこに傲慢がある!」

 

峠の親父   「ご、傲慢?なんですか~ ど、・・どこが傲慢なんです?」

 

神さん     「あんさん方の周り、見る聞く感じる範囲、それ以上において、

 

         奇跡のような大自然、大宇宙に囲まれとんのがお分かりか?

 

         あるがままの不可思議さと、千変万化する無限の息吹を感じることの、

 

         どこに退屈がありえよう。」

 

         また、その不可思議と奇跡の数々は、あんさん方自らのことを意味しているんや。

 

峠の親父   ・・・・・。

 

神さん     「あんさん方のこころを清めてゆく勇壮な魂の仕事もあるわけや。

 

         どこが退屈なのか。・・・ 気いが知れんわ。  うあ~っははは」

       

峠の親父   「はい、まさにもっともで・・。

               ・・もう一杯どうぞ」

 

(おわり)

 

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本日も拙い記事をご覧頂きまして、まことに有難うございました。