我々はたまたまこの地球に生まれ、たまたま死んでゆくという無意味な偶然産物的な生命ではない。
確かに、社会のありきたりの教育と集団の中での経験、社会に出ての体験だけでは、このような重要なことは考えにくいかもしれない。
人生に起こる様々な体験を、ただランダムな出来事と考えたり、また様々な出来事を確率や偶然の結果として扱ったりすることが、どこか現代的で近代的なことであるという嘘に流されているのかも知れない・・と感じたことはあるだろうか。
人生に偶然など実はどこにもないと、どこかで気付いている人々は多いし、人類の文化や歴史に垣間見える考え方や習慣の中には、その真実をどこかで伝えているものも多いだろうが、たんなる比喩やおとぎ話として捨てているのかもしれない。
すべては必然である。
そう、
今ここに我々が生きているのも、我々の選択によっているのだ。ただ、それを忘れているところに、その面白さと、はたまた苦渋があるものでもあるが。
●我々は今、海の底の竜宮城にいるようなもの
モンローその他、先駆的冒険者達の説明する地球の多層世界においては、この地上、すなわち3次元的物質観念で覆われているこの地上世界は、ある意味で例えば「海の底」のようなものだろうか。
海の底は下に行くに従って水の圧力がのしかかってくるような、重く、圧縮された時空世界であり、はるか洋上に燦々と輝く光も届きにくいものだろうし、またそんな海底で動き回ること自体が相当な不自由さをもたらすだろう。
例えれば、地上にそびえる超高層ビルも、なにか海底の竜宮城のようなものとも思われる。
●物質世界も多層の世界の単に一つの層である
海の底の竜宮城文明?・・確かに、これは比喩であるが、我々のこの3次元といわれる世界も似たような構造ではないだろうか。
人間の五感で知覚できる範囲の地球の周囲は、知っての通り「重力」という物質形態に親和性のある力があるが、これは物質形態レベルでの時空の歪同士の同調による保護エリアを造り出し、その形態世界を、1つのまとまりとして保つ仕組みでもあるともいえるだろう。
ある意味で、物理的な層での地球体験ワールドとその外を分かつ為の自然の「保護壁」である。
例えば、人類の宇宙開発への努力は、引力すなわち、そのハードルとなっている時空境界を突破する為の切なる願いから出ているところの物質次元での努力なのだ。
●地球は多層の意識体験世界
霊的、意識的存在レベルでも、地球は階層構造になっているようだ。
R・モンローやスエーデンボルグ、その他信憑性のある霊界通信や、あるいは古来からの聖者や覚者たちの教えや報告も、天界や霊界といわれる各階層世界もそれなりに立派にリアルな世界であるとしている。
それら多層の世界は我々が白昼夢と考えるようなあやふやな世界ではなく、その階層エリアにとっては実に「リアル」な「体験領域」といえるのだ。
実のところ我々の五感を通じてフォーカスしているこの現実世界も、霊的世界も単に存在周波数帯域の少しの違いでしかない。
こちらが現実であちらが虚ではなく、あちらも現実であり、またあちらもこちらも本来は虚と言えるかも知れない。
● 同種の想念の同調で創られる集合観念の周波数帯域
中間領域は主に「想念」による創造世界であり、ある意味では我々の物質世界での想いの鍛錬と浄化の程度を試す為の試しの場であるとも言えるかも知れない。
意識体である人間の「肉体死」の前後に通過するといわれるその領域は、天と地の間、地球体験領域の中間エリアとも言われる場所だ。
古くから「霊界」等と呼ばれている意識領域であり、はるかに自由自在な、いわゆる天界以上の意識レベルからみて、地球的に歪んでいる意識階層と言えるだろう。
例えは悪いが、本来通過するべき「一杯飲みの赤提灯」のような、ついつい同調してしまうひっかけ階層といえるだろうか(笑)。
少々引っ掛かってもすぐに出られるのならばなんの問題もないのだが、自らの重い想いでそこに眠り込む「意識体」もある。
また地獄と形容されるような修羅場で切った張ったを繰り返す者もあるようだし、浮かれ天国のようなところで極楽とんぼのように過ごす者もあると聞く。
結局は、自己の発する想念(想いや感情)のコア周波数帯によって、どの世界に引かれるかが決まるのは理解が容易であろう。
類は友を呼び、同一波長は共鳴するのだ。
翻って、我々の現実世界は物質的な世界といわれているが、これもやはり「想念」の世界と言えるのだ。
時間の経過や概念の複雑さに混乱させられてその因果関係が不明瞭に感じているかも知れないにしても、人生ではその個人の想念に従った出来事が起きているのだが、その想い自体に気付いていないおかげで、何が何だかわからないようになっている。
正確にいえば、この3次元世界では想いと現象化の間に、しっかりとしたフィルターが掛かっているということだ。